42.お誘い
レヴォルが部屋を出てしばらくした後、ノックの音が三回、室内に響き渡った。
「入りなさい」
扉が小さくきしむ音を立てて開く。
「失礼します」
そう言って入ってきたのは小柄な男性。ツルカの騎士であるアウリールだ。アウリールは音が出ないようにやさしく扉を閉める。レヴォルをコレットの部屋まで連れて行って帰ってきたのだろう。
「何かお飲み物をご用意しましょうか?」
「……紅茶を持ってきてちょうだい」
「かしこまりました」
機敏な動きで棚から茶葉を取り出し、ティーポットに紅茶を淹れ始める。とてもではないが騎士とは言い難い身のこなしだ。傍から見ればとてつもなく優秀な執事。
「お伝えしなくてよかったのですか?」
紅茶を淹れながらアウリールがツルカに尋ねる。
「なんのこと?」
「”アンネの灯火”のことです」
ティーカップに淹れられた紅茶をツルカの前にあるテーブルに置きながら答える。
「そうね……何か知っているようならもうちょっと引き留めたのかもしれないけれど、あの様子じゃ何も知らないだろうし。
私たちだって彼らについて詳しいわけじゃないもの。今現在、”アンネの灯火”については不確定要素が多すぎるわ。現時点で名前しか分かっていないじゃない。どういうことか足もつかないし。そういう危ない組織があるって言うだけじゃあの子たちを怖がらせるだけよ」
一通りしゃべると、ツルカはあまり上品とは言えないような飲み方で紅茶を胃袋に流し込む。
「私、今日はもう寝るわ」
言いながら立ち上がる。金とも銀とも白とも言えない色合いの髪をなびかせながら部屋を出ていく。
キィィィ、バタン、と耳に優しくない音。
「……もうちょっと優しく閉めてくださいね、ツルカ様」
少々呆れた顔の従者のため息とともに、一つの愚痴が紅茶の香りに混ざって室内を漂った。
§
手元に残った『手形』と言われて渡されたものに目を落とす。どこからどう見ても白いちょっと厚めの紙にしか見えない。何も書いてない。完全に無地だ。これを手形として渡されてもあまり実感がわかない。
「レヴォル……もしかしてそこにいる?」
扉の向こうから小さな声が聞こえた。コレットだ。少し前にその声を聞いたばかりなのにとても懐かしく感じる。
「コレット、入っても大丈夫か?」
「うん……どうぞ」
手形をポケットにしまい扉の取っ手に手をかける。キィ、と小さく音を立ててその扉を押し開けた。
室内は明かりがついておらず、開けた扉の間から入る光がコレットを照らし出した。ベッドの上で枕か何かを抱えて座り込んでいる。背を向けた状態で首だけをこちらに向けていた。傍らにはつばの大きなコレットの帽子が置かれている。
「声、聞こえるのか」
「うん、さっき聞こえるようになった」
さっきというのはおそらく僕とツルカが二人で話す前の事だろう。あの時コレットは突然『声』というものに反応を示した。少しだが着実に以前のコレットに戻りつつある。そう感じた。
「さっきまではね、声に霧がかかったみたいになって、聞こうと思っても聞こえなかったの。自分でも、自分の声がどんな感じか分からなくなって、声を出すのが恐くなって……」
それで彼女は一言もしゃべらなかったのか。確かに、自分の声すらも聞こえなくなるというのは恐い。自分が何を言っているのか、どのような音を出しているのか、どのような抑揚でしゃべっているのか、その全てが霧に隠されたみたいにぼやけて、見えなくなる。
分からない、という状況は何であっても恐いものだ。それを彼女は、森を出た時から味わっていたのだ。
「……怖くないか?」
言いながらコレットと背中を合わせるようにしてベッドに腰を掛ける。
「今はもう、大丈夫。こうして君の声が聞けるから。君が傍に居るのが分かるから」
一目瞭然だった。その声はかすかに震えていたし、背中越しでも体の震えを感じ取ることができた。「大丈夫」というその一言が明らかな嘘であることはすぐに分かった。
「声、震えてるぞ」
「……自分でもね、言ってることと考えてることが違ってるのは、分かってるんだ。目が見えなくなった今のこの状態だって本当は怖いし、それに瞳の色が変わってるのも……」
「瞳の色の事、気づいていたのか?」
瞳の色については、彼女は知る手段は無いはずだ。鏡を見ることすら叶わない彼女が、自分の瞳の色をわざわざ確認することは不可能なのだ。
「自分の体のことは、自分が一番よく分かってるつもり。原因も、何となく想像はついてる。多分きっと、私が感じてることが原因なんだよね?」
負の感情。怒りだったり悲しみだったり、そう言った感情がこの呪いの原因であるとツルカは言っていた。コレットの場合はそれが『絶望』というなんとも具体性のない感情だった。
なぜ彼女が絶望を感じているのか、何について絶望を感じているのか、知る必要があった。
「ねえレヴォル。一生のお願い、聞いてもらっていい?」
突然、小さな声でコレットがそう言った。振り向くとその顔は先ほどより小さく俯き、なぜか耳が真っ赤に。それにしてもなぜ一生のお願いなのだろう。普通にお願いでいいだろうに。
特別断る理由もなかった。
「なに?」
「一緒に……して欲しい」
ものすごく肝心であろう部分が、ものすごく小さい声だった。そんなに恥ずかしいことだったのだろうか。それならば言わなければいいのに、などと思ったが何も言わないでおく。
今度は顔から火が出るのではないかというぐらい赤面している。言おうとしていることが彼女にとって恥ずかしいことだということは明白だった。
「ごめん……聞こえなかった」
もう一度聞こうと思って尋ねる。
「……デート」
「……は?」
「私と一緒に……デートして欲しい、です」