40.赤い瞳~3~
私はなんだろう、と思う。
草原の魔女、薬師、盲目の少女、悲劇のヒロイン、彼のお荷物……。色々な言葉が泡みたいに浮かんでは消え、浮かんでは消え、結局よく分からないまま、いくつもの波紋が浮かんだ水面の上で、私はなんだろうと自分自身に問い続けている。
自分が生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からなくなることがある。食事をしたり睡眠をとったり、生物としては生きていると言える。では人間として、自分は本当に生きているのだろうか。
最近、よく夢を見る。その内容が実に意味不明なのだ。その夢をほぼ毎日のように見ている。
ぼんやりとした人影。顔には靄がかかり、体の部分は闇に溶けるようにその空間そのものと同化していてはっきりとは分からない。ただ一つだけ、指先を上下に揺らしている右手だけがはっきりと確認できた。
手招きでもしているかのような、そんな感じ。顔の、おそらく口と思われる部分もわずかに動いて見えていた。何かをボソボソと呟いている。
なぜか夢の中で私は、その得体の知れないものに近づいていく。呼ばれている気がして、行かなければならない気がして、……誰かに、必要とされている気がして。
手を取ろうとする。それの靄がかかった顔は、どこか不気味に笑っている。
手を取ったところで目が覚める。そんな夢。別に怖い夢を見ているだとか、そういう訳ではない。ただこの夢を毎日のように見せられているとさすがに気味が悪くなる。
最近のおかしなことは夢だけではない。声だ。声が聞こえてこないのだ。耳が聞こえないのとはまた違う。この耳ははっきりと周囲の音を拾っている。鳥の鳴き声だったり草木のざわめきだったり。声だけが、そこに霧がかかったように聞こえないのだ。私の周囲の人は確かに何かを言っている。それなのに聞こえてこない。
なぜ聞こえてこないのかは分からない。けれど少し前、変化があった。
確かに声が聞こえたのだ。「彼を少し借りてもいい?」その少女の声は確かにそう言った。私もそれに、反発した。彼と、レヴォルと離れるのが恐いのだ。そのままどこかに行ってしまいそうで、捨てられるような気がして。もしかしたらただの被害妄想なのかもしれない。それでも、そんな気がしてならないのだ。なぜなら私は、彼にとってのお荷物なのだから。
彼は本来、この国に来る予定はなかった。あのまま森を通って帝国に入る予定だった。それなのに彼は私の目的地に一緒に来てくれた。優しさなのだろう、と思う。それでも、私が彼のやりたかったことを妨げた事実は変わらないし、変えようもない。
私は、本当に生きていていいのだろうか。
そんな疑問が水面に浮かび、弾けることなくその場に残り続けた。
§
今、とんでもない名前が聞こえてきた。いや、聞き間違いかもしれない。
「今、誰の名前を……?」
「あれ、聞こえなかった? テレーズよ、あなたの妹の」
聞き間違いなどではなかった。その口は確実に「テレーズ」という言葉の動きをし、空気の振動は確実に「テレーズ」という音を僕の耳に届けた。
なぜここで彼女の名前が出てくるのか。確かにコレットの目や今の心の状態に関して言えば全く無関係ではない。むしろ当事者だ。だがコレットの瞳が赤くなったのとは直接的な関係は無いはずだ。テレーズがしたのは、コレットから視力を奪うことと、何らかの魔術でコレットの心を壊した、この二つだけだ。呪いに関係があるわけでもない。
「テレーズが、どうかしたのか?」
そう尋ねると、ツルカは大きなため息を一つ、そして気怠そうに呆れた顔で机に頬杖をついた。
「あなた……アレがどういう状態か、分かっていないの?」
アレ、という言い方に少々嫌悪感を覚えたが今は黙って話の続きを聞くことにする。
「状態?」
「アレはもう……人間じゃないわ。私同様、人ならざるものになってしまっている」
「は?」
――人間じゃ、ない?
まさか。彼女は魔術が使えるようになってはいるものの、人間のはずだ。別に体の変なところから腕が生えているわけでもないし、体が大きくなっているわけでもない。
ツルカのように見た目よりも生きているという事もなければ、その逆に見た目ほど生きていないというわけでもない。
「人間じゃないっていうのはどういう事だ。化け物になったとか、そういうやつか?」
「化け物、ね。確かにその言葉が一番しっくりくるわね。見た目自体は変わっていないわ。あなたがよく知る黒髪の美しい女の子そのものよ。
でも中身は別。一体どうやって生命活動を維持しているのか分からないけど、あの子の心臓、もう止まっているのよ」
心臓が、止まっている? ますます訳が分からない。心臓が止まっているということは死んでいるということではないか。化け物以前の問題だ。幽霊か何か、そういう類のものということだろうか。しかしツルカは「どうやって生命活動を維持しているか分からない」と言った。ということは、要するに。
「心臓が止まっているのに生きている、のか?」
「そういうこと。あなたたちが森を後にしてからあの子は一度死んでいるの。全身穴だらけだったわ」
全身穴だらけで、心臓が止まっているのに、生きている。確かに化け物だ。それ以外形容しようがない。
しかしなぜテレーズはそんな状態になっているのか。僕が最後に見たときはまだ『人間』と言えるものだったと思う。ツルカが言っていることが真実ならば、僕たちが家を出た後に人間ではなくなってしまった、ということになる。
「いったい何があったんだ」
魔女狩りにあった、と考えるのが妥当だろう。しかし彼女が体が穴だらけになるような、そんな状況に陥ってしまうということは考えにくい。第一あの森には結界が。
「結界は張られていなかったわ」
またもや心を読んだかのように考えていることを言い当てられた。本当に気持ち悪い。
「思い出してもみて。あなたとコレットが森に入る時、コレットが結界を解いたでしょう?そのまま結界を張るのを忘れていたのよ。テレーズはそれに気づかなかった。結果、魔女狩りにやってきた兵士にやられたのよ」
そう言えば確かに、コレットが結界を解いて、森を出る時は結界を張っていなかった。ドアの鍵を閉め忘れてしまったようなものだろう。しかしだとしても、テレーズが一般の兵士にやられるというのは考えにくい。
「本当に、それだけか?」
「そんな訳がないでしょう」
少し呆れた顔。
「ただの兵士だけならあの子が後れを取ることはないわ。だってあの子すごく強いんだもの。でもそうならなかったのは、彼女が手を出すことができない状況になったから」
「どういうことだ?」
「ランディ第一王子、あなたのお兄さんが一緒にいたからよ」
「なっ……」
ここで兄の名前が出てくるのは想定外だった。兄が森まで来たということか。しかし理由が分からない。魔女狩りであれば兵士に任せておけばいい物だろう。コレットやミレイユ、アルルの時だって兄はたいして関与していなかった。それがなぜ、テレーズの時にだけ出てきたのか。
「なぜ兄上が魔女狩りに?」
「何だったかしらね。『魔女が死ぬのをこの目で見届ける』だとかなんとか言っていた気がするわ」
いかにも兄が言いそうな言葉だ。確かにテレーズは兄に懐いていた。兄が一緒に居たら、自分を迎えに来てくれたのだと勘違いしてもおかしくはない。
兄は、テレーズが魔女である以前に自分の妹であると、気がつかなかったのだろうか。
「兄上はテレーズの事……」
「気づいていなかったわ」
やはりそうだったか。あれほどテレーズのことを想っていた兄が、あろうことか自分の妹が目の前にいるのに気がつかなかった。にわかには信じがたいが、ツルカの言葉に嘘がある様には感じられなかった。
「多分、『森の魔女』が自分の妹に化けているとでも思ったのね。魔女という存在を目の前にしてその冷静さを保てなかったっていうのもあると思うけど」
「つまりテレーズは自分の兄の命令で穴だらけにされた、と?」
「そういう事になるわね。自分の大好きだった兄が目の前に来たと思ったら別の女と逃げて、もう一人の兄が来たと思ったら一度殺されて。そんな彼女だからこそ、呪いが発動してしまった」
やはりそうだったか。話を聞いているうちにそんな気はしていた。突然テレーズの話が出た時は驚いたが、なにも不思議なことではない。彼女も魔女である以上、呪いに侵される可能性があるのだ。
「今のテレーズの瞳の色はたぶんコレットよりも少し黒いくらいよ。だから本当に危険視すべきはコレットじゃなくてテレーズの方。あの子のほうがワルプルギスの夜を引き起こす可能性が高い」
「どうするんだ?」
「……どうもしないし、どうにもできないわ」
思ってもいなかった回答に僕は喉から声が出なくなった。ここまで彼女が危険だと言っておきながらなぜ何もしないという結論に至るのか。放っておけばまた昔のような災害が起きるのは明白なのに。
「どうにもできない、というのはなぜだ?」
「あなたの兄弟は、あなたを含めて何人?」
突然の質問に言葉が詰まりかける。
「三人だが……」
なぜそんなことを聞いてきたのだろうか。
「その三人のうち、あなたは今こうして一人の魔女と一緒にネーヴェまで逃げてきた、そしてあなたのお兄さんはテレーズに返り討ちにあって殺された」
「待ってくれ、兄さんが殺された? テレーズに?」
初めてそんなことを言われた。するとツルカも少々驚いたのか、「え」と一言言うと口を小さく開けて硬直した。
「あなた、知らなかったの?」
「あ、ああ」
するとツルカが大きなため息をついた。記憶にある限り、彼女が今までしたため息の中で最も大きい気がする。そして一言「呆れた」と呟いた。
「ちゃんと情報は集めておきなさい。じゃないと自分が困ることになるわよ。
あなた新聞とかあんまり読まないでしょ。しっかりと読みなさいな。新聞には大体のことが書いてあるから。真実とは限らないけどね。自身の知見を広めるには最適よ。これは人生の大先輩である私からのありがた~いお言葉よ。しっかりと胸に刻みなさい」
別に、新聞を読まないわけじゃない。ただ、今はそんな余裕がなかった。
しかしそんなものも言い訳に過ぎないだろう。
どう見ても自分より年下に見える、しかし年齢的にはおばあちゃんともいえる少女と言っていいのかよく分からない目の前に座る人物の説教を、今は聞き入れることにした。
黙って頷く。
「ともかく、あなたはここに逃げてきて、あなたのお兄さんは死んだ、ついでに言うとあなたの父親も亡くなったわ。それじゃあここで問題。あなたのいた国は今誰が治めているでしょう?」
――ああ、そうか、そういうことか。今あの国には王族と言える人物は母しかいない、が母は父が病に伏してから心を病んでしまっている。そんな母に国を治めることはできないだろう。要するに残されているのは。
「テレーズか」
「大正解。あの子がお城まで帰って、女王に即位したの。だからどれだけ危険でも手が出せなくなった」
ツルカはぼんやりと少し暗くなってきた外を眺める。それにつられて僕も窓の方に首を向ける。
窓の外にはひときわ明るい星がこの国を、街を見守るように輝いている。
「とりあえず」
ツルカが首を窓に向けたまま口を開いた。
「テレーズは手が出せない。観察は続けるけど、その心までは分からないから、あくまで行動だけ。何かをする素振りは見せていないけど。それともう一つ問題があるの」
まだ何かあるのか。早くコレットのところに戻ってやりたいのだが。あのような背中を見せられては一人にしておくわけにはいかない。
「手短に頼む」
「”アンネの灯火”って聞いたことあるかしら?」
それは知らない言葉だった。少なくとも、自分は聞いたことがない。今まで様々な本を読んできたがそれに該当する言葉は思い出せなかった。
「聞いたことはないが」
「そう、それならいいわ。ごめんなさいね、時間取らせちゃって。コレットの部屋に行ってきなさい。多分あの子、あなたが居ないと崩れちゃうから」
崩れる、という言葉がかなり不穏に聞こえたが、それだけ彼女の精神状態は不安定なんだろう。
「あ、ちょっと待って」
部屋の扉を開けようとドアノブに手をかけたところで呼び止められた。
「まだ、なにか?」
「あなたたち、この国に住む気?」
そういえばそのあたりをどうするかまだ決めていなかった。コレットはたぶんこの国に住むことを選ぶだろう。もともとそのつもりで彼女はここを目指していたのだから。しかし僕は。僕はどうすればいいのだろう。
回答が見当たらず黙っているのを見かねたのかツルカが口を開いた。
「とりあえず、しばらくは私のお客さんってことで城に泊めてあげるから。住むことが決まったら私に伝えて。家と仕事に就くまでの生活費を与えるから。ほら、行った行った」
そう言ってツルカは半ば僕を押し出すように部屋の外に追い出した。
扉を出た横側に先ほどの、アウリールと言ったか、小柄な男性が立っていた。
「お待ちしておりました、レヴォル様。コレット様のお部屋にご案内いたします。どうぞついて来てください」
そう言ってすたすたと歩いていく。
その小さな背中を早足で追いながら、コレットの部屋への距離を近づけていった。