33.赤い森で、魔女は嗤う~1~
八月二十三日。
今日、目が見えるようになった。真っ黒だった世界が一変した。世界は、こんなにもキラキラしていて眩しかったのか。あまりにも感動したので今日の日記はこのことばかりだろう。普段は魔術で書いているが、今は手書きだ。文字というのは難しい。辞書を見ながら書いているのだが、似たような文字が沢山ある。覚えるのには時間が掛かりそうだ。手で書くのが疲れたため、ここからは魔術で書こうと思う。
兄の顔を見ることが出来た。とてもかっこよかった。色々な表情を見ることが出来た。中でも傑作だったのは兄と一緒にいた女だ。名前は何と言ったか。土産をくれてやった時の顔、あの絶望に満ちた表情はこれから先、見ることはないだろう。あの様子だと、かなり堪えた筈だ。少し悪夢を見せただけだったが、想像以上だ。精神魔術ももう少し勉強しておこう。
パタリ、と日記を閉じる。
ふぅ、とため息を一つ。
「文字を書くっていうのも、案外楽じゃないのね」
椅子に腰かけたまま窓の外をぼんやりと見つめる。窓の左端からまばゆい光がのぞき込む。
「あれが……太陽」
初めて見た太陽の輝き。朝日がきれいだとか、夕日が美しいだとか、そういう文言は何度も聞いたことがある。しかし自分には、それを見ることが出来ないし感じることもできない。
だが今は違う。視力を手に入れた。光を手に入れた。色を手に入れた。手に入らなかったのは、大好きな人だけ。
あれはきっと、しょうがなかったのだ。レヴォルはやさしい人だ。それは自分でもよく理解している。困っている人を放っておけない。何が何でも手を差し伸べてしまう。そういう人なのだ。
だからきっと、自分は選んでもらえなかったのだろう。目が見えるようになった自分と、目が見えなくなったあの女。これから先、生きていくのが難しくなるのは圧倒的に後者だ。
それでも、許せなかった。あの女のことが。あの女さえ出てこなければ、兄は自分を選んでくれただろうに。殺しておけばよかった。今になって後悔する。
だがもういいのだ。終わったことを嘆いてもどうにもならない。
それにこの家にいるからと言って一人なわけではない。
「アセナ」
静かに友の名を呼ぶ。
朝日に照らされる自分の影のあたりから、すうっ、と一つの影が浮かび上がり、ある形をとる。狼である。種族としてはウィードウルフの上位種、森に生息するフォレストウルフだ。中でも彼女は森に生息する魔物全てを統べている。森のヌシ、というやつだ。
体が小さいのは彼女自身が体を小さくしているからだ。家の中に入るにはアセナの体はいささか大きすぎる。大きくしようと思えばその大きさは最大で六メートルにもなる。
クゥン、とアセナが小さく鼻を鳴らす。見ると、キラキラとした瞳でこちらを見つめてくる。頭を優しく撫でる。
「あなただけは……私の傍に居てくれるのね、アセナ」
そうだ、この子だけは裏切らないでいてくれる。それでいいのだ。それだけで。兄は自分を選ばなかった。もう何も欲するものはない。
一人と一匹で、この森で静かに暮らすのも悪くない。きっと楽しいのだろう。
「散歩……行こうか」
そう言って椅子から立ち上がる。歩き出すと後ろからアセナがちょこちょことついてきた。
玄関の扉を開ける。まばゆい光が自分たちを出迎える。
「これを、気持ちのいい朝って言うのね」
目が見えるようになってから世界が輝きだした。感じるものが一変した。
「行くわよ、アセナ」
そう呼びかけると、アセナの体が徐々に大きくなる。体長が最大になったところでアセナの毛をつかんで背中にまたがる。
アセナは自分がまたがったのを確認すると、歩きながら徐々に速度を上げていく。
風のように、一人と一匹は森の中を駆け抜けた。