25.黒髪の女の子
目が覚めた。怖い夢を見ただとか暑くて目が覚めたとかそういう訳ではないが。
完全に目が覚めた。二度寝をする気も起きない。
月明かりに照らされる掛け時計を見る。針は午前四時二十一分を指していた。
自分の左側に首を回す。レヴォルはいまだに、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「喉……渇いた」
ぼそりと呟きながらレヴォルをまたいで布団から出る。
昨晩の夕食は比較的塩辛いものが多かったと思う。喉が渇いても不思議ではない。
台所に向かうと、適当なコップを取って蛇口をひねる。
そして、水を一気に飲み干す。
空になったコップをテーブルの上に置いて、自分も椅子に腰かける。
ふと、自分の数時間前の言葉を思い出した。
――何言ってるんだ、私。
今冷静になって考えてみれば、ものすごく恥ずかしい台詞だ。
抱きしめてほしいだとか、頭を撫でてほしいだとか、思い出すだけで恥ずかしくて耐えられない。
彼に出会ってから、自分の様子がおかしいのはうすうす気づいていた。自分でもよく分からないのだが、彼といるとなんだかこう、胸が高鳴るというか……。
やはり自分でもよく分からない。今まで抱いたことのない感情だと思う。
彼の隣にいると、落ち着くし、楽しいし、甘えたくもなるし、なぜかドキドキもする。
嬉しいとか、悲しいとかの喜怒哀楽だけでは言い表せない感情。
「なんなんだろ……これ」
もしかしたら祖母なら知っているかもしれない。小さい頃から、分からないことは祖母に教えてもらって育ってきた。祖母はとても博識だ。この感情のことも恐らく知っているだろう。
帰ってきたら尋ねることにしよう。
ガチャリ、と扉の開く音がした。
おそらく祖母が帰ってきたのだろう。そう思い小走りで玄関に向かう。
「おばあちゃん、おかえ……」
そこにいたのは祖母ではなかった。
きれいな黒い髪の若干私より歳が下だと思われる杖をついた少女。
「やはり……どなたかいらしたのですね? 門の鍵も扉の鍵も開いているものですから。
それで……私の家に何の御用ですか? 生憎、盗むようなものはありませんよ?」
その少女が何やら奇妙なことを言っている。私の家? そんなわけがない。ここは祖母の家であり、私の実家でもある。
「えと……ここ、私の祖母の家なんですけど……」
そう言うと目の前の少女はきょとんとした表情をみせた。
「では……あなたはもしやあの方のお孫さんなのですか?」
あの方、というのは私の祖母を指しているのだろう。
「ええ、まあ」
「これは失礼いたしました。私、現在『森の魔女』を務めさせていただいているアイラというものです。以後、お見知りおきを」
小さく一礼をする。
「あ、ええっと、『草原の魔女』のコレットです。どうぞ……よろしく」
未だに頭のほうが追い付いていないわけだが、そんな礼儀正しい仕草に、思わず同じように一礼する。
「まぁ! あなたも魔女なんですね! さすが、あの人のお孫さんだけありますわ!」
「あ、いえ……それほどでも」
あはは、と笑って誤魔化す。
――それよりも。
「あの、現在『森の魔女』を務めてるって……おばあちゃ……祖母はどこに?」
アイラの顔が急に真剣な顔つきになる。
「そうですわね。あのことをあなたにお伝えしなければなりませんね……」
アイラがすうっと息を吸う。
「あなたのおばあさまは亡くなられました。ちょうど一年前、私がここに来てから一年後に……」
そんなバカな。
「おばあ……ちゃんが?」
頭が真っ白になった。だって、祖母はいつだって私にとって一番のおばあちゃんで、一番の家族で、一番の先生で、私の、永遠の目標、だったのに……。
私はそのとき、えもいわれぬ喪失感に駆られた。
「ええ。私がここに来た時すでに、あなたのおばあさまはご病気を患っておられました。魔術での回復を試みましたが……あと一歩及びませんでした」
そんなことがあったとは。今になって三年間一度も帰らなかったことを後悔する。
「あなたのおばあさまは、私に『森の魔女を継げ』と遺言を残されました。ですので、今は私が『森の魔女』を務めています」
「そう……だったんですね。祖母の最期を……看取っていただいて……ありがとう……ございます」
言葉の中に嗚咽が混ざる。
「……泣かないでください、コレットさん。あなたのおばあさまもあなたの泣く姿は望んでいないはずよ」
そう言われて、涙をぬぐって笑って見せる。
「確かに、その通りですね」
「あの、コレットさん」
「はい?」
「よろしければ……一緒にお茶でもどうですか? とても良い茶葉を置いていますよ」
そう言うとアイラはついている杖を床につけて左右に振りながら歩きだす。
「あの、アイラさん、もしかして」
「はい。私、目が見えていませんの」
やはりそうだったか。ずっと目を瞑っているうえに、どことなく歩き方が不自然だ。一歩一歩確かめるように歩いている。
「……生活するの、大変じゃないですか?」
「昔はそれなりに苦労しました。ですが今は魔術があるのでそれほど困ることはありませんよ。外では目の代わりになってくれる友達もいますし」
台所の棚のところまで来るとアイラがしゃがみ込んだ。
「八番のお茶を淹れて」
古代語で呪文を唱える。
すると、戸棚が開き、一つの茶葉が入った瓶が出てきて、ふよふよ浮かんでいる。側面には「八番、クエロルの茶葉」と記されている。
そして、きれいにテーブルの上に着地する。
すると今度は、ティーカップからティーポットまでもが宙に浮きだした。茶葉の入った瓶もひとりでに蓋が開き、そして驚くことに、勝手に茶を淹れ始めた。
「すごい……」
あまりのことに感嘆の声を漏らす。
「そんなに大した魔術ではありません。特別な何かができる魔術ではなく、日常動作を助けるだけの魔術ですから」
そうは言っているが、そもそもの話、古代語での魔術詠唱が難しいのだ。こんなにすらすらと言えない。私が使える古代語の魔術はこの森の結界解除と、門と家の扉の鍵を開けるものだけだ。それも習得するまで一年以上はかかった。
「どうぞ、召し上がって。この国でも評判のいい茶葉ですよ」
「ありがとうございます。いただきます」
ズズッとティーカップに入れられたお茶を飲む。
「これ……昔おばあちゃんが入れてくれたお茶だ……三年ぶりに飲んだなぁ。懐かしい」
「あら、三年間も帰っていなかったのですか?」
「はい。仕事の方が忙しくって……」
ふーん、そうなのね、とアイラが相槌を打つ。
「あなた、『草原の魔女』って言っていたけれど、どのようなお仕事なのですか?」
「けがや病気の治療が主な仕事です。自分で薬を作って、患者さんに処方して……そんなことを毎日やってました」
「とても立派な仕事ね。人の命を助ける仕事……素敵だと思うわ」
「そんな……」
自分の仕事をこんな風に言ってもらえたのは初めてだ。少しだけ嬉しい。
「ねぇ、コレットさん。私たちお友達にならない?」
「え?」
「私たち、きっと仲良しになれると思うの。だから、まずは敬語をやめましょう? それからお互いに、名前を呼び捨てで呼び合いましょう?」
友達、という響きに心が惹かれた。小さい頃から友達は森の動物だけだった。つい数日前にできた魔女の友達もすぐに失った。
これはきっと、神様が私にくれた機会なんだろうと思う。
私自身もこの人となら仲のいい友達になれる気がした。
「えっと、それじゃあ改めて。よろしくね、アイラ」
「ええ。よろしく、コレット」
するとアイラがふふっ、と小さく笑う。
「どうしたの?」
「私ね、今までお友達がいたことがなかったの。その代わりにやさしいお兄様がいたのだけれど。だから、初めてお友達が出来て、私、とっても嬉しいわ」
どうやら、友達がいなかったのは私だけではなかったようだ。
「私も……今まで友達がいなくて、ちょっと前にできたんだけど、失って。私たち、なんだか似てるね」
お互いにフフッ、と笑う。
本当に、仲良くなれる、そんな気がした。
「それでコレット。どうして戻ってきたの? 何かあって戻ってきたのよね?」
「あれ? 『魔女狩り』のこと、知らない?」
「初耳ね」
どうやら知らないらしい。
ずっと森に籠っているのだ。外の情報が入ってくることなんて滅多にないのだろう。
「今、この国のランディ第一王子……今は国王陛下かな? が国内の魔女を全員捕まえて処刑しようとしていて……」
「それで逃げてきたのね」
「うん。ここなら安全だと思って」
「一人で逃げてきたの?」
「それがね、レヴォル……じゃなかった。第二王子が一度捕まった私を逃がしてくれて……それで一緒に逃げてるの。今、二階の私の部屋で寝てる」
すると一瞬、アイラが驚いたような表情を見せた。無理もない。この国の第二王子だった人が上の階で寝ているのだから、驚きもするだろう。
「なるほどね。事情は分かったわ。好きなだけこの家にいてちょうだい。それにこの家、もともとあなたの実家でもあるわけだし」
「ありがとうアイラ」
「お友達として、当然のことよ」
そう言って、アイラがにっこりと笑う。
「そ、れ、で、その第二王子さまのことはどう思っているの?」
――はい?
「えっと……どうって言われても。一緒に逃げてくれた人?」
「あら、本当にそれだけかしら?」
どういうことだろう。
「何かなかったの? 感情の変化とか」
感情の、変化。もしかしたら、彼女なら自分のこの彼に対する良く分からない感情の答えを知っているのかもしれない。
「……彼といると、なんだかすごく落ち着くの。それに、甘えたくなったり、ドキドキしたり、それでなんだかこう、胸のあたりが苦しくなって……」
「恋ね」
即答された。
「へ?」
「それは恋よ」
恋。絵本で読んだことがある。王子様がお姫様によくやってるやつだ。
「でも恋って王子様がお姫様にやるやつだよね?」
一瞬の沈黙。
そののちに長い長いアイラのため息が耳に届く。
「あなたって、随分と知識が偏ってるわね」
「そ、そうかな?」
「そうよ。あのね、恋っていうのは王子様に限った話じゃなくて、誰だってするものなの。
寝ても覚めてもある一人の相手のことしか考えられなくなって、その人としゃべるだけでドキドキして、緊張して……それが恋なの」
「そう……だったんだ」
知らなかった。女の子も恋をするんだな。
違う。そういう話じゃなかったはずだ。
「えっと、つまり、私がレヴォルに恋をしてたってこと?」
「そうなるわね」
私が……レヴォルに……。
そう思った瞬間、今までのレヴォルに対する言動行動がすべて恥ずかしくなってきた。
カーッと顔が赤くなっていくのが分かった。
「私……今までなんて恥ずかしいことを……」
「あら、どんなことをしたの?聞いてみたいわ」
言えない。恥ずかしすぎて口が裂けても言えない。
「……キスしちゃったとか?」
「きっ、キス!?」
「違うの?」
キスってあれだ。王子様が眠っているお姫様にするやつ。でもあれって……。
「キスだなんてそんな……だってキスって、しちゃったら……じゃないの」
「ごめんコレット。よく聞こえなかったわ」
恥ずかしくて言えないようなことだというのに。
「子ども……出来ちゃうじゃん……」
「は?」
「え? 違うの?」
アイラがさっきよりも深いため息をついた。
「それ……誰から聞いたの?」
「おばあちゃんから」
またもやため息。
「あのね、コレット。キスぐらいじゃ子どもは出来ないわよ?」
「ええ!? そうなの!?」
「あなた本当に知識が偏ってるわね」
「……すみません」
何となく謝っておく。
それにしても、なぜ祖母は本当のことを教えてくれなかったのだろう。それにダイナだってキスのことを聞いてきた。あの時も同じことを言ったはずだ。まさかとは思うが知っていて教えてくれなかったのか。
「謝らなくていいわよ。これは完全にあなたのおばあさまが悪いから」
確かにその通りだ。
本当のことを教えてくれれば、こんな恥ずかしい思いをせずに済んだだろうに。
「ねぇ、コレット。今、あなたは私の前に座っているのよね?」
穏やかな声でアイラが尋ねてきた。
「うん。そうだけど」
「もう少し近くでお話がしたいわ。……私の隣に来てくれるかしら?」
特に断る理由もない。椅子から立ち上がってアイラの右隣りに座る。
「これでいいかな?」
「ええ。ありがとう。それと、もう一つお願いがあるのだけれど……」
「なに?」
「あなたのお顔に触ってみてもいいかしら?」
ちょっとびっくりした。そんなお願いを人にされたのは初めてだ。
仕方がないかもしれない。彼女は目が見えない。見ることが出来ないなら、触れて確かめるのが手っ取り早いだろう。一体なぜ触りたいのかは分からないが、彼女のお願いだ。無下にする必要もなかった。
「いいよ」
アイラの手を取り、自分の頬に触れさせる。
「好きなだけ触っていいよ。くすぐったいから……早めに終わってくれるとありがたいけど」
「ありがとう。コレット。やっぱりあなたはやさしいわね」
言いながらアイラは私の顔を撫で始めた。
「ここが、口ね。それとこれが鼻。目は……ここにあるのね。耳……ふふっ。あなた、とてもお肌がすべすべね」
知ろうとするように、その存在がここにあることを確かめるように、隅々までアイラは私の顔を触った。一通り触り終えるとアイラは手の位置を頬まで戻した。
「本当にありがとう。コレット。あなたとお話しできた時間、とても楽しかったわ。本当に……お友達になれたらどれだけ楽しかったことか」
「何言ってるの、アイラ。私たち、もう友達でしょ?」
すると突然アイラが黙り込んだ。
「アイラ?」
「ごめんなさい。私はもう、あなたとは会えないわ。ここでお別れ。さようなら、泥棒猫さん?」
「泥棒猫って……私なにも盗んでないよ? それに、そんな悲しいこと言わないでよ。確かに、私はあと少ししたらここを出ていくつもりだけど……また、帰ってくるから」
アイラが下を向いてプルプルと震えだした。
「でもあなたは……奪おうとしているでしょ……?」
震えながらアイラが言う。
「なにも盗まないって」
「嘘よ」
「え?」
なんだかアイラの様子がおかしい。さっきより一層ブルブルと震えている。
「ねぇ、コレット。私から……奪おうとしているわよね……? だったら、私があなたから奪っても、文句は言わないわよね?」
何を、言っているんだろうか。先ほどから意味の分からないことをアイラはしゃべっている。私が、奪おうとした? 何を? 私から奪う? いったい何を?
「アイラ……いったん落ち着……」
「コレット」
私の言葉を、アイラが遮った。
「コレット。お願いがあるの」
そう告げると、アイラの口元が不気味に歪む。
「あなたの瞳を、私にちょうだい?」
アイラが顔を近づけてきて、耳元でそう囁いた。
次の瞬間、私の視界は真っ黒になった。