175.本当の気持ち
自分はどうなってしまうのだろう。
そんな思いを抱きながら、ジャスミン・カチェルアは真っ暗な木々の海の中を一人歩いていた。
この家に来る前のことだ。
女の声がした。「お前の二つ名は『終焉の魔女』だ」と。
その瞬間、どこから湧き出たのか分からない怒りが心を満たした。一体誰の、何に対する思いなのだろうとそのときは思ったが、風呂場で鏡に映った自分の黄金色の瞳を見て、その感情がテレーズのものだと分かった。
テレーズは「心が混ざっている」と言っていた。だとするならば、ジャスミン・カチェルアの心に巣食う憎悪や悲しみはテレーズ・ゼラティーゼの負の感情だ。そんなテレーズの感情を胸の内に抱いてしまったジャスミンは、近々〝ワルプルギスの夜〟を自分自身が起こしてしまうことを悟った。
そしてエルから聞かされたファムという謎の魔女の目的。彼女の目的をエルから聞いたときから、自分自身が動くことを決めていた。
そして、今に至る。
「やっぱり一人で来たのね。ジャスミン・カチェルア」
ジャスミンがいるのは大森林の外だ。森から出るのはそう難しくはなかった。きっとテレーズが使っていたであろう浮遊魔術のおかげで、簡単に森を出ることはできた。
アルルの言っていた結界のおかげか、目の前にいる女は中に入れなかったのだろう。森のすぐそばに立っているのを見つけて、降り立った。
「……あなたが、ファムさん?」
「ええ」
「あなたが私を魔女にしたのね」
「そうよ。大いなる目的のために。ユースティアのために。あなたには尊い犠牲になってもらうわ。まあ、人が全員滅べば犠牲も何もないけれど」
ジャスミンの目の前に立つ黒髪の女性――ファムはそう言ってフフッと笑う。
「それで、あなたは何をしにここに来たの? 私に連れ去られるため? それとも、私を殺すため?」
ジャスミンはファムのその問いに首を横に振った。
「あなたを、救うためよ」
「救う?」
聞き返すファムに、ジャスミンは無言で頷く。
するとファムはこらえきれないと言わんばかりに噴き出すように笑い出した。
「随分と上から目線ね。一体私を何から救うというの?」
「一つ、確認いいかしら」
ファムの問いには答えずに、ジャスミンはそう進言する。どうしても確かめたいことがあったからだ。それを確認しなければ、彼女を救うことなどできはしない。
「ファムさんは……二つ名がないのよね」
「ええ、そうよ」
「つまりあなたは、魔女だけど魔女じゃないってこと?」
ジャスミンのその言葉に、ファムは首を横に振る。
「逆よ。魔女ではないけど魔女なの。もっとわかりやすく言うと、魔女という概念そのものね。魔女が私なのよ。……言っていること分かるかしら」
「分かるわ。だって私、天才だもの」
ジャスミンはそう言って少し笑う。ファムのこの回答はジャスミンにとってはほぼ予想通りだった。
エルから、「ファムには二つ名がない」と聞いたときから何となく察しは付いていた。魔女ではないことに。しかしそれと同時に、本人が魔女だと名乗るのだから魔女ではあるということに。それだけまとめれば全く矛盾した事実だが、根本的にファムの指す〝魔女〟とジャスミンやエルの言う〝魔女〟が違うものを指していれば、ファムの言葉はどちらも真実になる。
「おしゃべりはこれくらいにしましょう? 私もあなたを早く捕まえたいの」
手を真っ直ぐにジャスミンに向けてファムはそう言うと、向けたその手のひらをぎゅっと握りこんだ。
その途端、ジャスミンの身体に巻き付くように光の輪が現れ、彼女を縛り上げた。
「……」
「あら、抵抗しないのね。救うといっていたけど、随分と諦めが早いのね」
否。ジャスミンは諦めてなどいない。抵抗しないのは、ファムの魔術など簡単に破れるからだ。
「ローイラ」
ジャスミンは花の名前を口にした。桃色の小さな花。エルと探したこの旅のもう一つの目的だったモノだ。
ジャスミンがその花の名を告げると、彼女を縛っていた光の輪はまるで溶けるように消え失せた。
「……知らない魔術ね。いえ、知っているけど、その呪文は何?」
眉間に皺を寄せるファムは、そう言うともう一度ジャスミンに光の輪をかけた。
「ローイラ……アルストロメリア……」
が、それもジャスミンには無意味だった。
「さっきから言っている、その呪文は何?」
ジャスミンは少しずつファムに歩み寄りながら口を開く。
「ローイラの花言葉は『私を守って』。アルストロメリアの花言葉は『持続』なの。この意味が、分かる?」
「……そういうこと。つまり私の手出しは全て無意味だと、そう言いたいのね」
小さく頷き、ジャスミンは近づいた先のファムの胸元に手を当てる。
「あなたがこのまま私を火にかけようが、氷漬けにしようが、雷を落とそうが、全部無駄。花に込められた言葉って、それぐらい強い意志を持つの」
「……それがどうしたって言うの? そんなもの、私ならすぐに解いちゃうけど」
そんなことは、ジャスミンにも分かっている。この魔術、呪文は違えど中身は普通の魔術と大差ない。ただ、難しい魔術が唱えやすくなるだけだ。
この得体の知れない魔女であれば、それに対応することも簡単だろう。だからこそ、彼女は今油断している。
「そうね。けど、私があなたに触れた時点であなたの負けよ。悪い魔女さん」
「どういう……」
ファムは油断した。自分の生きた年月を過信し、目の前の全てに終わりをもたらす小さな魔女を、侮った。
魔女の二つ名はその魔女の特徴を取ってつけられることが多い。ジャスミン・カチェルアの二つ名、『終焉の魔女』はファムがこの世界に終わりをもたらそうと付けた二つ名だった。
しかしジャスミンのそれは――〝終焉〟は、世界に対するものではなかったのだ。
「言の葉に宿りし精霊よ。汝の名のもとに、彼の抱きし想いを、改めたまえ……」
呪文というのは、命令文に過ぎない。大切なのは心情――意志なのだと、ジャスミンは先ほどエルに説明した。
「……あなたという存在を塗り替えてあげるわ。それでもう、ゆっくり休みなさい」
ただ、魔術には魔法陣という手段もある。もちろん、呪文と魔法陣を両方使えば、魔術の成功率は上がるし、魔法陣は魔術の対象を絞ることができる。
「あなた、まさかッ……!!」
ファムは胸に当てられたジャスミンの腕を掴み、手のひらを凝視する。
「もう、あなたの負けよ」
そう言うジャスミンの手のひらには血で綴られた魔法陣があった。その小さな手のひらに、丁寧な陣が描かれている。
「あなた……そんなことしたら私だけじゃない! あなたも消えるわよ!!」
「そんなこと知っているわ。〝魔女〟の概念を書き換えようだなんて、そんな大それた魔術を使えば無事で済まないのは分かっている。けどそれでも、私はやらなくちゃいけないの。あなた、さっき『ユースティアのために』って言ったわよね。原初の魔女ユースティア。彼女のために世界を滅ぼそうとしている。それだけであなたが誰なのか何となく察しがついたわ。あらぬ罪を着せられて殺された原初の魔女のために動くあなたは……復讐に囚われている。でもそれって、本当にユースティアが望んだこと?」
「……なにを言って」
「負の感情の呪いは、きっとあなたが作ったのよね。だったらその前にあった『原初の呪い』は? あれはユースティアが残したモノでしょう? 魔術が使えなくなる呪いをユースティアがなぜ残したのか、あなたには分からないの?」
「そんなの……」
なんだろう、とファムは思った。ユースティアがなぜ呪いを残したのか。思えば考えたことがなかったのだ。
「……あなたに、何が分かるの」
ジャスミンはその言葉に下を向いた。目に入ったのは足元から消え始めているファムの姿。
「……私の憶測だけど、あなたが消えてしまう前に言っておくわ。ユースティアはきっと、自分みたいな人を作らないために呪いを残したんじゃないかしら」
「……!」
ファムは――いや、エラはユースティアのことをよく知っている。誰よりも優しく強い女の子だった。恨みや妬み、嫉みなんかとは無縁のような人物だった。
だというのに、勘違いをした。
ユースティアが世界に対して憎しみを抱いたのだと勝手に思い込み、種すらなかった復讐心を芽生えさせていた。ユースティアが人々に恨みを持つような人物ではないことは、一番知っていたはずなのに。
「じゃあ、なに。私はずっと無意味に犠牲を増やしていたってこと? 一人で勘違いをして、人を殺していたってこと?」
「……無意味、ではないと思うわ。あなたのやったことは許されることじゃない。けど、その行動は誰かを思ってのことでしょ? だったらきっと彼女は、ユースティアはあなたに救われているわ」
この言葉は、もちろんジャスミンの言葉だ。ユースティアの言葉でも代弁でも何でもない。けれどもし、自分がユースティアと同じ目に遭ったら。誰かが自分のことを思って世界に復讐を誓うなら、きっと心の底で嬉しく思ってしまう気がしたのは確かだ。
そう思ってくれる誰かのその感情は、紛れもない自分の生きた証なのだから。
「……千年生きて、こんな子どもに諭されるとは思わなかったわ。いえ……もしかしたらアンネも、気づいていて言わなかったのかしら……」
「復讐は何も生まないかもしれない。けれど、その想いはきっと故人に届く……と思う。だからもう、おやすみなさい」
腰まで消えたファムに、ジャスミンはそう優しく告げた。
「私の負けよ。そう、ユースティアは……そうね、そうだったかもしれないわね……」
頷き、何かに納得するような口ぶりを見せて、ファムはその赤い瞳に涙を浮かべ……暗闇に散るように、完全に消滅した。
目の前から彼女の姿が消えるのを見届けたジャスミンは、ぺたりと地面に座り込んだ。
「……腰、抜けちゃった」
足に力が入らない。というより――。
「私も、消えちゃうのかぁ」
下半身がうっすらと消えかかっていた。そこはかとなく光の粒子のようなものが体から出て行っている気がする。これがきっと、精霊なのだろう。
「約束、守れなかったなぁ」
リルと交わした約束。絶対に帰ってくるというその言葉。こうして消えてしまえば約束を守るも何もなくなってしまう。
強い感情を伴う魔術は副作用を生じる。現在の状態が副作用だとすれば、一体どんな感情を込めたのだろう。どんな思いで、ファムにあの魔術を使ったのだろう。
「……自分のこと、分かってたつもりだけど、全然分かんないや」
誰に向けるでもない笑いがふと零れ落ちた。
そういえば、エルからキスを返してもらっていないなと思い出す。結局いろいろバタバタして、二人きりになる時間も作れなかった。
挙句の果てに彼に黙ってこんなところで消えかかっている。
「エル、怒るかな……」
いや、絶対に怒るだろう。なぜ何も話してくれなかったのだ、と。なぜ頼ってくれなかったのだ、と。
当たり前だ。頼れるはずもない。頼ればきっと彼は必死になるだろう。下手をすれば自分を犠牲にしかねない。そうなっては欲しくないのだ。なぜなら彼女は――ジャスミン・カチェルアは。
「好きだよ、エル」
それが彼女の残した最後の言葉だった。最後の言葉は、夜風にさらわれ森の中に溶け込んでいく。
§
瞼の向こう側からでも分かる朝日に僕は叩き起こされた。
随分とぐっすり眠っていたような気がする。
ふと体を起こしてみると、なぜか僕の身体はベッドの上にあって、室内には誰もいなかった。ジャスミンの姿もリルの姿も見当たらない。
時計に視線を巡らすと、針はちょうど九時を指していた。少し遅めの朝だ。恐らくジャスミンとリルは先に下に降りて、アルルやローランと朝食をとっているのだろう。
そう思った僕はベッドから降りると部屋を出た。
少し軋む階段を踏み鳴らして一階に行くと、テーブルにはリルとアルル、それからローランの姿があった。
そしてなぜか、ジャスミンの姿が見当たらない。
「おはよう。ジャスミンはどうした?」
僕の言葉に反応するものは誰一人としていなかった。リルの方を見ると、目元を赤く腫らしてこちらをじっと見つめてきている。
「……どうしたんだ」
「エルさん、これ……」
そう言ってリルは何かを僕に差し出した。手紙だ。別に封に入っているわけではない紙を折りたたんだだけの手紙だ。
僕はそれを受け取り、目を通した。
「……馬鹿野郎!」
目を通し終えたそのとき、僕は家を飛び出していた。ここが森の中だとかそんなことは関係がなかった。
ジャスミンに会いたいその一心で、足を動かした。森の中で木の根につまずいて転んだ。木の葉や枝に顔をひっかかれた。それでも僕は懸命に足を動かした。
上がる呼吸に気も留めず必死に、必死に。
いつの間にか僕は森を出ているようだった。周囲は開けていて、広大な平原が続いている。そして僕の足元より少し先に、見覚えのある鞄があった。
ジャスミンの鞄だ。彼女の鞄だけが、力なく地面に落ちている。それが意味することは、たった一つだけだった。
僕はその鞄に歩み寄り、その鞄を手に取ると抑えていた感情をすべて吐き出して、白い朝に、涙を流した。
§
『エルへ。
この手紙を読んで、君はきっと焦ってると思う。怒ってると思う。けれど一番には、涙を流してくれていると思う。
私ね、エルのこと最初はキライだったんだ。なんて冷たくて酷い人なんだろうって最初は思った。けど君は、私のやりたいことの背中を押してくれた。支えてくれた。私、それがすっごく嬉しかったの。だからここまで来れた。全部君のおかげ。本当だったらちゃんとお礼を言ってから出たかったんだけど、そうしたらきっとエルは私を引き留めちゃうでしょ。それだけは絶対にダメだと思って。エルが私のために頑張ってくれたのは知ってる。だから、エルも少しは休んであとは私に任せてほしいの。
大丈夫。きっと帰ってくるから。多分この手紙を読んでる最中ぐらいに『ただいま!』って言って。だから、待っててほしい。こう言わないとエルは私を探すためにまた頑張っちゃうでしょ。時には辛抱強く待てなきゃ、私、愛想つかしちゃうわよ。
だから、お願い。絶対に帰ってくるから私の帰りを待っていて。絶対よ。
最後になったけど、この世界の誰よりも、あなたを愛しているわ。
ジャスミンより』




