172.最後の夜~1~
僕たちが転移した先に待ち受けていたのは、太陽を遮る際限ない木々の作り出す暗闇、帝国との国境である南の大森林だった。
「……帰ってきたな」
つい先ほど、僕とリル、そしてファムはこの森を出てテレーズの元に向かった。そしてジャスミンを救い出し、縁を手繰るという魔法道具の力でまたこの森に来た。
「ここは私にもエルにも縁のある場所だし、飛ばされる確率が高まっていたんでしょうね」
そういうものなのか。
「それにしてもリルがいるのには驚いたわ。会えたのはすっごく嬉しいんだけど、なんで?」
そう言って、ジャスミンは黄金色の瞳を輝かせた。本当に再会できたのが嬉しかったのだろう。ぴょんぴょんと子どものように跳ねながらリルの手を握っている。
「ジャスミンがテレーズに乗っ取られて、僕が逃がされた先がリルのところだったんだ。そこからずっと一緒に行動している」
「なるほど」
「私もまたジャスミンちゃんに会えて嬉しいです……!」
ジャスミンは頷き、リルは微笑んだ。
正直な話、このままことが全て済んでくれたら一番いいのだが、現実はそう甘くはないだろう。
「とりあえず、アルルさんのところに向かおう。森の中でこうしているのもあれだし」
とは言ったものの、その家の方角が分からないわけだが。
南の大森林は、本当に広い。歩けど歩けど道があるわけでもなく、同じような景色が延々と続いているだけだ。
今まで迷子にならなかったのがすごい。
「……で、どうやって行くの」
「それが問題なんだよ」
道はないし立ち並ぶ木々は方向感覚を狂わせる。森の中から探すのはダメだ。
「ジャスミン、絨毯を出せ。また上から探す」
僕はそう言ってジャスミンを見た。
僕とジャスミンが初めてこの大森林を訪れたとき、アルルの家――つまりは僕の母の実家を探すのに空から探した。
それでまあ見事見つけることができたわけだ。だとするなら、今回もその方法がいいだろう。
「ないわ」
「は?」
「だから、ないって言ってるのよ。魔法の絨毯」
僕は自分の耳を疑った。
「ない? 魔法の絨毯が?」
「ええ、ないわ。私の服装を見てみなさいよ」
そう言われ、ジャスミンの姿をつま先から観察する。
足先は黒のパンプスで覆われ、真っ黒いワンピースドレスの下からは白いタイツを履いた彼女の細い足が顔を覗かせている。茶色い頭の上には、これまた黒いカチューシャを付けていた。
なんというか、子どもが精一杯のおめかしをしたような感じの出で立ちである。まあ、そんなことを本人に言えばまた頬を膨らますだろう。
「で、その格好がどうした」
聞くとジャスミンは魂が抜け出るほどの深いため息を吐いた。
「あーっ、もう……言わなきゃ分かんない? 着替えてるのよ。今まで着てた服に入れてたものは全部持ってないわよ。ガラス玉は持ってないし、もちろん絨毯もないわ」
「……どうするんだ」
「私が聞きたいわよ」
これでは完全に手詰まりだ。いや、手が完全にないわけではない。
南の大森林は東西に伸びるように帝国との国境を隔てている。つまり南北の距離は短いのだ。南へ行けば帝国へ、北へ行けばゼラティーゼ王国の方に出る。これが大森林の中央であれば問題のない話なのだが、仮にもし、南側に近い場所にいたとしよう。二分の一の確率で北へ向かおうものなら、日が暮れる頃でも森を出ていることはないだろう。
先ほどのように運よくローランに会えるとも限らない。
「あの、エルさん」
「なんだ?」
思案に耽る僕の肩を、ちょいちょいとリルがつつく。
「私、覚えてます」
「……何を?」
「え? だからその、ここ、前に通ったなぁ、って……」
さすがに冗談だろうと僕は思った。隣で口を開けたままのジャスミンも心の中でそう思ったのだろう。だが僕も彼女も、リルが冗談を言えるような性格をしていないことを知っている。
真面目な彼女のことだ。絶対に嘘を吐いたりはしない。
「えっと……それ、ホント?」
疑いの拭いきれない目をしながら、探るようにジャスミンはリルに尋ねる。
「本当ですよ。ここ、さっきも通りました。結構お家に近いです」
信じるしかなかった。いや、別にリルのことを疑っているわけではない。藁にも縋る思いというか、実際成す術がないのは事実だ。リルが「こっちです」と言って案内するのであれば、それに従う他ない。
「……案内できるか?」
恐る恐る聞いてみる。するとリルは小さく頷いた。
「頼めるか?」
「任せてください。こっちです」
微笑み、リルは大森林の中の道なき道を歩みだした。
それにしても、この光景のどこをどう見て覚えたのか。正直僕にはどこを切り取っても同じ風景にしか見えない。無秩序に並ぶ木々。枝葉で覆われた地表に日差しの水たまりができることもない。
目印になるようなものもないし、いま彼女はどこを見て道案内をしているのか。
「でも、覚えてるってどうやって……?」
同じことを思ったのか、ジャスミンがリルに尋ねる。
「えっと、土の臭いとか、木の模様とか……植物って同じように見えて全然違うんですよ」
「……分からないな」
僕は周囲の木々に視線を配る。リルは同じようで全然違うと言うが、やはりどこを切り取っても同じようにしか見えない。
「すごい記憶力ね」
ジャスミンが関心の声を上げる。
確かにすごい記憶力だ。記憶力だけじゃない。認識力が常人のそれではない。この木々の特徴を判別できるのだ。並みの認識力では不可能だろう。
「着きましたよ」
そう言ってリルが前方を指さした。立ち並ぶ木々の隙間から、明るい日差しが照らす芝生が顔を覗かせる。
その建物はどこからどう見ても、以前訪れた母の実家、森の魔女の家だった。
「本当に着くとは……」
そう感心していると、後ろから聞こえていた足音が無くなっているのに気づく。
「ジャスミン?」
振り返ると四歩か五歩ぐらい後ろで、ジャスミンがぼんやりと突っ立っている。随分と放心した様子で、瞬きもせずに明後日の方向を見つめていた。
「どうした? 家に着いたぞ?」
あまりの様子に、僕はジャスミンに歩み寄った。依然ぼーっとしているジャスミンの目の前で手をひらひらさせてみたり、肩をつついてみたり。
それでも反応のない彼女に、僕は少し大きい声で、「おい、大丈夫か」としっかりと耳に入るように横から叫んでみた。
「へっ……? なに?」
「いや、だから家に着いたって」
「え、あ、うん。そうね。行きましょうか」
淡々とした口調でそう言いながら、僕を追い越してリルの隣に行った。
どこか様子がおかしかったが、何かあったのだろうか。
正直な話、もう事態は僕の知識や経験ではどうにもならないところまで来ている。テレーズのときもそうだったが、今度はファムですら手に負えない。僕にはどうすることもできない。今、何が起きても不思議ではないのだ。
ジャスミンのことについては後で本人に尋ねることとして、今はアルルやローランに無事を伝えるのがいいだろう。
そう思った僕は、扉の前で待っている二人に近づき、家の扉の取っ手に手をかけ、思い切り引っ張る。
開け放たれた扉の向こう側にはまるで待っていたかのようなアルルの姿があった。
アルルは僕たちを出迎えると、無言で手招きをして中に入るように促した。
「とりあえず、話を聞かせてもらおう。何があった」
歩きながら言うアルルに対して僕は事の事情を説明しようと口を開く。
「……いや、やはり今はいい」
アルルは手のひらを僕に向けて、制するように言った。
「とりあえず、腹ごしらえだ。それから色々と話を聞かせてもらおう」
言って、通された部屋のテーブルの椅子に僕たちを座らせる。
するとアルルは真っ直ぐキッチンに向かって行った。
「ちょうど、シチューを作ったところなんだ」
アルルはシチューをよそいながら、僕たちにそう話した。まるで準備されていたかのように、シチューの入った鍋の横にはお椀が三つ用意されていた。
「ありがとうございます」
リルが丁寧に感謝を述べる。
「なに、構わんさ。お前たちは私にとって子どものようなものだ。遠慮はいらん」
シチューをよそったお椀を僕たちの前に置くと、アルルは向かいに座る。
「さあ、食べなさい。お腹が空いているだろう」
微笑み、視線でも食べるように促す。
その視線に押された僕たちは互いに顔を見合わせ、朝から何も食べていない腹の中にシチューを流し込んだ。