171.彼の剣、私の剣、あなたの剣
魔女にとって二つ名は自身の存在を確立する上で非常に重要なものである。ただ、その二つ名のつけ方は様々だ。住んでいる場所から取るものもあれば、得意とする魔術の名前を付けられることもある。
その魔女ならではの特徴だったり特技だったりが二つ名になることもある。
だからその二つ名が何を意味するのかツルカにはすぐに分かったのだ。
「『終焉の魔女』……?」
「ええ、『終焉の魔女』よ。だってそうでしょう? 人が滅びれば自然と魔女も居なくなるわ。魔女も人なんだもの。つまりジャスミン・カチェルアが最後の魔女。全てに終焉をもたらす魔女。原初の魔女がいるくらいなんだもの。終焉の魔女がいてもおかしくないわ」
終焉。その二文字が意味するところはつまり人の世の終わり。魔女という存在の終わりだ。
「ジャスミンは今頃、心の中で溢れだした行き場のない負の感情を感じているはずよ。誰に対するものかも分からない怒り、悲しみ、憎悪、嫉妬。溢れ出したそれらが、彼女の心を蝕むわ」
口元に手を当てて、エラがふふふと不気味に笑う。
「そんなこと……させ、ない……!」
締め付けられる喉から、精一杯の抵抗の言葉を顕わにする。ただ、それだけで何ができるというものでもない。
「無理よ。あなたにはもうどうすることもできない。ここで私に殺されて、何もできない自分を悔やみながら死んでいくのよ」
「……それは、どうかしら」
ツルカはそう言って強がって見せた、わけではない。強がりでも、ましてやはったりでもない。
考えがあった。この盤上をひっくり返す駒が一つだけあった。彼女はまだ、それに気づいていない。
「……何を笑っているのかしら」
口元を吊り上げるツルカを見て、エラは眉を寄せてツルカを睨んだ。
「……いえ、ただ、私はやっぱり天才だなと思っただけよ」
ニカリと笑い、その白い歯を見せた。そのすぐ後だった。
ツルカのその白い歯の間から勢いよく血が飛び出たのだ。
「……なに? はったり?」
ツルカは無言で、震える手を伸ばした。そしてエラのみぞおちのあたりを指さして言った。
「あなたの、負けよ」
言葉の意味が分からず、エラはツルカの指が指し示している自分のみぞおちに視線を落とした。
そしてそれを視覚として認識した途端、焼けるような痛みがエラを襲った。
「なによ、これ」
みぞおちのあたりから、血が流れている。ぽたり、ぽたりと。ゆっくりとしたテンポで血の流れる傷口には、一振りの剣が、真っ直ぐに突き立てられていた。その剣をなぞって、視線をツルカの方に向ける。
剣はまっすぐ伸びており、ツルカの腹部さえも貫いていて、彼女の背後、恐らく剣を刺したであろう人物が少し下を俯いていた。
「……見えないところからなら、反応が遅れると思ったわ。あなたはどうやら既に勝った気でいたようだし。恨むなら、自分の慢心を恨みなさい」
「……こんなもの!」
エラは腹部を貫く刀身を強く握った。その手に傷が入ろうがそんなことは知ったことではない。
これ程度の小汚い剣、すぐに壊せる。そう思って強く強く握りこんだ。だが――。
「え……?」
折れない。折れる気配がしない。何もエラは自身の腕力で剣をへし折ろうとしているわけではない。もちろん、魔術を用いてだ。
物理法則変換魔術。そんな長ったらしい名前の魔術だが、これは単に物体の運動を止めたり加速させたりするだけのものではない。
物体の分解、生成がこの魔術の真の使い方だ。それが鉄であれば、鉄を分解するよう精霊に命令を送ればいい。ただそれだけのはずだったのに。
「なぜ……折れないの」
ツルカを貫き、そしてエラのみぞおちに剣を突き立てているアウリールの持つ剣は、ただの剣ではない。
アウリールは二振りの剣を持っていた。一つは彼の所持品である業物。そしてもう一つ。聖剣アーロント。
その小汚い剣にそんな大それた名前を付けたのはツルカだった。それぐらいの価値がある剣だと判断したのだ。
実際、その見立ては間違ってなどいなかった。
確かに、元は一兵士の手にしたただの剣だったかもしれない。しかし彼の死が、その剣に意味を与えた。主君を守るようにと。そしてその剣を握るアウリールは思いを込めた。主君を守れるように、と。
「その命を糧として輝け、我が剣よ……!」
魔法道具というのは基本的に魔術の使えない人のために作られるものだ。魔術の使えない人が魔術の恩恵を受けることができるようにするためのものだ。
故に、アウリールの唱えたその呪文に、彼の剣は応える。
「なっ……なによこれ……」
聖剣アーロントが貫くエラの腹部が徐々に氷に覆われ始める。まるで命を、温もりを刈り取らんとするように。冷たい氷は、エラの全身に手を伸ばし始めた。
「っ……こんなもの……」
だが、エラもやられっぱなしではない。それに、その剣が氷を発生させているというのであれば対処の仕方は簡単だ。
「氷程度で私がどうにかなるとでも?」
足元を濡らす水を見て、エラはツルカを嘲笑った。確かに、その剣の力は並みのものではない。命を吸い取る氷の膜。だが、所詮は氷だ。
しかし、氷が解けたからといってこれで終わりではない。剣は未だにエラの身体に突き立ったままだ。
「……彼の剣に宿りし精霊よ……」
エラが睨む先、ツルカは口元をわずかに動かしながら呪文を唱え始めた。
「それが切り札かしら? させないわよ」
エラはツルカの首を絞める手にさらに力を込めた。しかし――。
「させませんよ」
アウリールは剣を握る手に力を込める。
するとピキピキと音を立てて、剣がつき立ったエラの傷口から再び氷の膜が侵食を始める。
「我が主の邪魔はさせません」
「……汝、主の声に応えたり。その身をもって、意志と成せ……。任せたわよ、アーロント」
血を吐きながらツルカが唱えた呪文。
聖剣アーロントに宿っているのはいわばツルカの記憶の中のアーロントだ。そのアーロントが、鍔に埋め込まれた蒼い宝石に宿っている。
ツルカの見てきた、誰よりも優しくて、誰よりも強くて、誰よりもかっこいい、騎士アーロントの姿が。
ただ、ツルカが呼び出したアーロントはもちろん本物のアーロントではない。かといって幽霊のようなアーロントがそこに姿を現したわけでもない。
「おおおおおおおおおっ!!」
あくまで、アーロントは力を貸しているに過ぎない。その力を、剣を持つアウリールが一時的に宿しているだけだ。
アウリールの雄叫びと共に、聖剣アーロントのその刀身が冷気の刃に姿を変貌させる。その冷気が一瞬にしてエラを包みこんだ。
「あなた……あなたね……! 妹を殺された哀れな騎士!!」
「……千年生きたあなたなら、私の……この魔術の意味が分かるわよね。彼なら……、あなたの半生ぐらい、削ってくれるわよ……」
首を鷲掴みにしているエラを見下ろしながら、ツルカは薄笑いを浮かべた。
「……このッ!」
エラは睨み返し、ツルカの首を絞める手に力を込めた。エラにとって、テレーズ亡き今、天敵たり得る相手はツルカのみだ。
彼女を殺せば、正真正銘敵はいなくなる。
しかし、アウリールがその行為を見過ごすはずもない。
「させません……!」
叫び、剣を握る手に力を込めた。主君を守りたいと思うアウリールの思いに、騎士アーロントがその力を持って応える。
「なっ……」
エラを覆っていた冷気が、まるで蛇のように長く連なり、ツルカの首に伸びる腕に巻き付く。そしてそれはまるで千切ろうという勢いでエラの腕を縛り上げ始めた。
エラは徐々に腕から温もりが逃げていくのを感じながら、真っ青になっていく腕を眺めるしかなかった。既にツルカの首を掴む指先に感覚はなく、まるで、腕が本当に千切れてしまったかのような――。
「……は?」
ぼとりと音がした。依然、指先に感覚はない。それどころか肩から先の感覚がない。ただ、肩のあたりがうるさいぐらいに脈を打っているのだけが感じられる。
それと同時にぽたりぽたりと雫の垂れる音が耳に届く。
「腕が……」
腕が落ちている。ツルカの首を握っていた腕が、白い床に赤い海のある場所に力なく落ちている。
「……半分とまでは、行かないでしょうけど……二、三百年ぶんぐらいの命は……奪えた……かしら」
エラはの腕と共に床に落下したツルカは、そう言いながら指先だけを小さく動かした。
「さようなら、エラ。私たちはこれで……お暇するわ。あなたを殺せないのが本当に残念……」
ツルカが指先を動かしたその場所に描かれたもの。
「……魔法陣?」
エラがその存在に気づいたときには、ツルカはおろか、アウリールやマイクロフトの姿も消えてなくなっていた。もちろん、テレーズの入った人形も。
転移魔術の魔法陣だ。転移魔術の魔法陣は本来、何かに描いておいてそれを広げて使うものだ。その場で描くには時間が掛かるほど面倒なものである。かといって、呪文一つで成功するような代物でもない。
だというのに、ツルカはその場で魔法陣を描き上げたのだ。
「……なるほどね。これは一つ、負かされたわね」
腕の千切れた肩口を押さえながら、エラはその魔法陣を見て呟いた。そのとき、彼女が自分を「天才」だと自称した意味が理解できた。
「魔法陣の簡略化、かしら。よくもまあ、この陣を見つけ出したわね」
しかし、エラからしてみれば大した問題ではない。確かに、二百年分の生きた証である加護が二つ剥ぎ落されたのは事実だ。
それでも、未来の見えているエラからすれば、ジャスミンの元に向かうことができるのは分かっていた。邪魔は入ったが、結果は変わらない。ジャスミン・カチェルアを使って、人を滅ぼすだけだ。
さしものツルカも諦めて逃げかえったのだろう。それに、あの消耗具合ではしばらく身動きも取れないはずだ。
「……ジャスミンは、自分から来るわね。森の外で待っていようかしら。私も少し疲れたし」
そう呟き、エラは溶けるようにその部屋から姿を消した。
§
ツルカ・フォン・ネーヴェは人ではない。
強い感情を伴う魔術には強い副作用が生じる。そのおかげで、ツルカは老いのない肉体を得た。
ここで間違えないで欲しいのが、不老不死とは別である、ということだ。
「ツルカ様! 今コレット様が来られます! それまでどうかお気を確かに……!」
叫ぶアウリールの声は、ツルカにはどこかぼやけて聞こえた。不鮮明で、まるで豪雨の中で叫ばれているかのようだ。
ネーヴェ王国の女王たるツルカの居城、シュネーヴァイス城の医務室。ツルカの容態は決して良いものではなかった。腹部を剣で貫かれているのだ。大量の出血で生死を彷徨っている状態だ。もちろん、これはエラにつけられた傷ではない。
ツルカが精神魔術でアウリールに命令したことだ。自分ごとエラを貫け、と。エラは一言で言ってしまえば化け物だ。そんな化け物でも、死角からの攻撃であれば一瞬でも回避が遅れると考えての命令だった。
しかしそれは、自分の身を犠牲にすることと同義だ。
「……私が、彼女を殺さずに、逃げ出したこと……怒ってる……?」
ツルカが涙を目に溜めるアウリールにかけた言葉は、そんな確認の言葉だった。
「そんなはずがありません……! 私は、あなた様の御身が無事であればそれでよいのです! あなたからの命令に背くことも考えました。しかしそれでは、あなたは許してはくれないでしょう」
アウリールが何を言っているのか分からない。耳に蓋をされたかのように聞こえない。
「……私、ね。怖く、なっちゃったの。エラが……あの魔女が怖くなって……」
「何も言わないでください! 今は呼吸を整えて、コレット様が来るのを……」
「怖くなって……逃げちゃった。全部全部、子どもたちに、投げ出して……。あなたは、こんな私を……許してくれる? 今までみたいに……ついてきてくれる……?」
「当たり前です! いつまでも、どこへでもついていきます。私の身は、剣は、とうの昔にあなたに捧げております! あなたが世界から嫌われようが、全てを敵に回そうが、私はあなたをお守り致します。それが私の意志であり、彼の……アーロントの遺志でありますから」
「……ありが、とう」
そう言って、ツルカは静かに目を閉じた。




