170.終焉の魔女
「魔女じゃないんだもの」
ツルカのその一言に、ぴたりとエラの笑い声が止まる。
「……さすが、察しがいいわね」
「魔女は必ず二つ名を持つわ。本人がどれだけ拒もうがそれは呪いのように染みつく。それがあなたにはない。だから名乗る二つ名がない。それだけで、あなたが魔女ではないことは分かるでしょう?」
「……確かに私はあなたたちのような魔女ではないわ。けれど不正解」
その刹那、エラの姿が消えた。いや、正確に言うと消えてなどいない。隼のごとく猛烈な速さでツルカの懐に潜り込んだのだ。
「私は〝魔女〟そのものよ。私に魔女という名前があるのではなく、魔女という存在が、概念が、私なの。さあ、問答の時間は終わりよ。さようなら」
そう言って、エラはツルカの胸元に懐から取り出した短剣を突き立てた。突き立てた、だけだった。
「あなたも不正解。あなたの目の前にいる私は幻覚よ」
「……」
エラが殺したと思ったそれはまるで崩れ去るかのように音もなく霧散した。
「もう一度言うわ。私はあなたを殺す。テレーズのためにも、ジャスミンのためにも」
その声はエラの後方、人形がある場所からだった。そこでツルカは人形を見下ろし、手をかざす。
すると、人形の周りには透明な壁ができ、人形全体を覆ったのだ。加護魔術の一種だ。防壁の類である。ファムにテレーズを傷つけさせないためのものだ。これで完全に大丈夫だとはツルカも思っていない。しかし気休め程度にはなる。
「私に勝てるとでも?」
「勝つわ。だって私、天才なんだもの」
地震の溢れた言葉を吐いたツルカは、エラを挟んだ向こう側にいる男二人の名前を叫ぶ。
「マイク! アウリール!」
それを合図に、マイクロフトとアウリールはエラに向かって走り出した。
「まったく、化け物相手はしたくないと言ったんだが……」
そうぼやくマイクロフトは正真正銘丸腰である。手には剣も、弓も、槍すらも持っていない。
対するアウリールは両の手に一本ずつ、剣を握っていた。左手には彼の持ついわば業物である剣だ。騎士長であるアウリールは他の騎士とは違い、名のある鍛冶師によって打たれた剣を所有できる。
右手には年季の入った小汚い剣。刃は酷く刃毀れを起こし、全体的に傷だらけだ。一ついい点を挙げるのであれば、鍔に埋め込まれた蒼い宝石ぐらいだろうか。
「もうっ! 文句言わないで! 身体強化でも何でもやってあげるから!!」
文句を垂れたマイクロフトにツルカは叫んだ。それと同時に二人に向かって真っすぐに手を伸ばす。
すると仄かな橙色が二人の身体を包み込む。
「おお、これはすごいね。体が温まるようだよ」
そんな風にマイクロフトは感心した。ネーヴェ王国は魔術大国だ。そこに住むマイクロフトももちろん魔術の恩恵を日々受けていたわけだが、自分の肉体に魔術が作用する感覚というのは初めてだった。
「……剣や拳で私がどうにかなると思っているのかしら」
エラはため息と一緒にその台詞を吐き出した。
もちろん、この女が剣や拳でどうにかなる相手だなどとツルカも、当然アウリールやマイクロフトも思っていない。
この状況で、エラを倒しうる力を持っているのはツルカだけなのだ。
「ハァッ!!」
アウリールが二振りの剣を同時に振り下ろす。雷のごとき速さで振り下ろされた剣はしっかりとエラの肩辺りを捉えていた。
「むっ……」
捉えていた、はずだった。
「当たるわけがないじゃない、鉄の板切れ程度が」
アウリールの剣は虚空を掻っ切っていた。虚しく地面に剣先が触れると、アウリールはエラの方を睨んだ。
「では、こういうのはどうかな?」
マイクロフトの声と共にエラは床に倒れた。しかしマイクロフトの姿はどこにもない。
「認識阻害……」
エラはぼそりと目の前の事象を説明する言葉を口にした。
「そうみたいだね。私は詳しくは知らないが」
依然、マイクロフトの姿はない。声だけがエラの耳に届く。だが、どこにいるのかはエラにはすぐに分かった。いや、視えたのだ。
エラには全部で十の加護がついている。一つは忘却の加護。次に未来視の加護。そして姿が見えないはずのマイクロフトの姿を視ることができたのが、可視の加護。視えないものを視えるようにする力。それは魔術による隠蔽だけでなく、本来見えるはずのない精霊の姿、風の流れ、音までも可視化する力だ。
その力をもってすれば、姿を隠した人間を視認することなどエラにとっては容易なことだった。
だが、彼の姿を〝視た〟ときには既にエラは体を動かすことができなくなっていた。
「……空間固着ね。次から次へと、随分と芸の幅が広いようね。氷の魔女さん」
「伊達に百年生きていないわ。まあ、あなたはもっと長いでしょうけど」
ツルカはカツリ、カツリと床を踏み鳴らしながら倒れたエラに近づく。
「少し、お話をしようかしら」
「お話?」
「ええ。誰も覚えていない悲劇のお話」
エラ顔の横でしゃがむと、まるで子どもに物語を聞かせるように語りだした。
「むかしむかし、ある村にユースティアという少女がいました。ユースティアは村で農業を営んで暮らしていましたが、あるとき、神様の声を聞きました。
神様は言いました。『魔術の力で人々の暮らしを豊かにしなさい』と。ユースティアはそうして魔術の力を手に入れたのです。彼女はその力を使って、日照りのときには雨を降らし、疫病が流行ったときは病魔を追い払い、人々が怪我をすればその傷を癒しました。
そうしているうちに、少女の村は大きな町になっていました。人々のために生きる少女でしたが、あるとき、魔術の力を羨んだ男性が少女はペテン師だと噂を流しました。その噂は病原菌のように瞬く間に広がり、町の人々は少女を疎むようになり、やがて石を投げ始めました。そして最後には少女は火刑台に処されてしまいましたとさ。そのあと、なぜか町は灼熱の炎に包まれ、跡形もなく消え去ったとか。
このお話、本当はもっと小難しく書いてあったんだけど、私なりに分かりやすく解釈させてもらったわ」
語り終わったツルカは立ち上がり、エラを見下ろした。
そんなツルカを見上げて、エラはツルカを睨みつける。
「そのお話にはどんな教訓があるのかしら」
「教訓……ね。そんなのは知らないわ。これは誰かが紡いだ物語ではなくて、実際にあった出来事なんだもの。あなたでしょう? 町を炎で包んだのは」
「……」
「エラっていうのはその物語にも出てくるユースティアの親友よ。彼女が火刑台に処されるそのときまでずっと彼女の味方だった。だからこそ、エラは町の人々に憤った。違う?」
ツルカは横たわるエラに確認するように尋ねる。
するとエラは一つため息を吐いて目を閉じた。
「……それ関連の書物は全部燃やしたと思っていたけど、どこで知ったの?」
「昔、『森の魔女』の家の図書館にあるのを読んだわ」
「ああ……あそこね」
ツルカからすれば、もう七十年も昔の話だ。一度だけ当時の『森の魔女』――アデライド・ヴァイヤーの家に訪れたことがあった。
そのときに、家の中の図書館の本を見せてもらって、一冊の古びた本を見つけた。誰が書いたのかも、製本したのかも分からない。
そんな本に書いてあったのが、その昔話だ。当時のことが事細かに書かれていた。ユースティアやエラの名前、噂を広めた男の名前。当時の状況までもが。『原初の魔女ユースティア』の名前は、魔女であれば誰もが知る名前だ。
だがそれに関する文献は数少なく、詳細を知る者はいない、はずだった。
「それで、その昔話を持ち出して、私をどうする気なの?」
「ただの事実確認よ。あなたが何のために動いているのかの、ね。あなたはその一件で〝人〟そのものに不信感、憤り、恨みを募らせた。結果、負の感情による呪いを作って自分で世界を滅ぼそうとした。けどそれはできなかった。失敗した。強い感情を伴う魔術は失敗もしくは強い副作用、あるいはその両方がある。結果、あなたは呪いの発動にも失敗し、副作用で人の身を捨てることになった。私同様に……っていうのが私の推測だけど」
するとエラは不敵に頬を吊り上げ、嘲笑するように小さく笑った。
「大正解よ、ツルカ・フォン・ネーヴェ。私は失敗した。いえ、もとより成功するとも思っていなかったのかもしれない。だからこそ、私個人ではなく『魔女』そのものに呪いを付けた。その副作用が現在の私、名前のない魔女よ。もともとあった二つ名は記憶に靄がかかったように思い出せない。だから今まで〝ただの魔女〟として生きてきたのよ」
エラはその言葉を吐いて、自分自身を嘲笑うような表情を見せた。そしてツルカは口を噤んだ。エラというこの女はツルカにとっても、世界にとっても癌のような存在だ。存在してはいけない、生かしていてはいけない。
そうは思うものの、彼女の語り口調はどこか寂しげに聞こえた。彼女の行いは復讐だ。それは変わらないしあり得ないほどの罪を彼女は抱えている。
それでも、エラは親友のために命を一度捨てようとしている。親友のために大事な何かを捨てようとしている。その姿にツルカは既視感を覚えていた。だから、真っ向から攻め立てられなかった。その姿勢を自分の大切な友に重ねてしまったから。
「それで、真実を知ってどうするの? 同情するの? そして助けるの?」
エラの言葉に、ツルカは首を横に振った。
「……いいえ。確かに同情はするけど、私の決意は変わらない。あなたを殺すわ。もう、復讐から解放されなさい」
ツルカは人差し指を真っ直ぐにエラに向け、感覚を指先に集中させる。
「さよなら」
そう告げて、彼女を永遠の眠りにつかせようとした、そのときだった。
透明になっていたはずのマイクロフトがなぜか姿を現し、天井に向かって吹き飛ばされたのだ。
「なっ……」
続けざまに、アウリールもまるで蹴り飛ばされたかのように壁に向かって飛んでいく。
「復讐を諦める? 馬鹿言わないでちょうだい。あなたの決意が変わらないように、私も私を曲げるつもりは微塵もないわ。ここであなたを消してジャスミンを捕まえる。そして彼女を使って世界を、ユースティアを死に追いやった人間という種を滅ぼす」
その言葉の直後、ツルカを囲むように円状に炎が熾きあがった。いつの間にか目の前で横たわっていたエラの姿がなく、その姿を探すように周囲を見渡す。目につくのは天井から落下してくるマイクロフトと壁にもたれて気を失っているアウリールだけだ。
エラの姿がなぜかどこにも――。
「ここよ、お馬鹿さん」
突然後ろからした声にツルカは慌てて振り向く、と同時に目の前を裂くように通り過ぎた雷を間一髪のところで躱す。
「よく動くわね。なら、これはどう?」
また姿を消したエラの声だけが室内で響き渡る。それを合図にしたかのように、ツルカを囲んでいた炎たちが一斉にその勢いを増し、天井まで届く一つの火柱を作り上げた。
「……熱っ」
「熱いでしょう。苦しいでしょう。それがユースティアが味わった痛みよ。私の友達が見た景色よ。それに加えて炎の向こう側からは罵声が聞こえるの。それでも、あの子のための復讐をやめろというの?」
「……舐めないでちょうだい」
相手は千年前の、原初の魔女が生きていた頃からずっと生きている相手だ。百年ほどしか生きていないツルカなど足元にも及ばない。普通であれば諦めるところだ。
それでもツルカは抗うことを選んだ。屈することを彼女のプライドが許さなかった。
ツルカは右の手のひらを広げ、じっと目を閉じた。広げた手のひらに意識を集中させる。本来、魔術を使うには呪文か魔法陣、もしくはその両方が必要だ。
だが、どうやら長く魔女として生きることで、呪文を介さずとも精霊に命令を伝達できるようになるらしい。
ツルカを襲うように盛んに燃えていた炎たちがツルカに吸い寄せられるように集まっていき、手のひらの上に収束していく。
「あら、生きてたのね」
完全に消えた炎の中から姿を現したツルカを見て、エラは少し驚いたような表情を見せた。それと同時にツルカの右手を指さす。
「それ、どうするつもり?」
「さて、どう使おうかしらね」
ツルカはそう言い捨てると右手を強く握りこんでエラに向かって走り出した。姿が見えていれば攻撃する手段はいくらでもある。
そしておそらく彼女はこの戦い方には慣れていない。
「はぁっ!」
一つの賭けだった。右手を大きく振り上げ、意識を集中させる。イメージは……一振りの剣。
そのイメージができたとき、すでにツルカの右手は一振りの燃え盛る剣を握っていた。それを思いっきり振り下ろす。
その炎の刀身がエラに当たった感触はない。だが、それ自体は予想通りのことだった。
「……やっぱり、白兵戦には慣れていないのね」
「魔女が剣の扱いを覚えている方が不思議じゃない?」
そう言うエラは、炎の剣を握るツルカを見ても余裕そうな顔をしていた。
「随分な自信ね」
「当たり前でしょう。だって私が勝つんだもの」
ツルカは炎の剣を低く構え、エラに向かって突進した。
相手が白兵戦に慣れていないのに気づいたのは、先ほどのアーロントとマイクロフトの攻撃のときに、彼女の足が若干もたついていたのを見逃さなかったからだ。
そしてその予想は的中した。そうなれば戦い方は決まる。
「やぁっ!!」
エラの傍まで来ると炎の剣を振り上げた。ツルカも剣術は得意ではない。だが、彼女の傍には剣の腕が立つアウリールがいる。彼の手ほどきのおかげか、それなりには動ける。
「はぁっ! せいっ!!」
剣を振るいながら、というか振り回しながら避け続けるエラを追い回す。避けるのに精一杯なのか何もしかけてこない。
そしてエラが逃げ惑う事こそが、ツルカにとっての勝機だった。
避けたエラが足を付けた場所。
一瞬のまばゆい光と共に、エラの出した炎のおかげで温まっていた部屋が一瞬にして冷え始めた。
「かかったわね」
ピキピキと音を立てながら、氷の蔓がエラにまとわりつく。
「……」
エラの身体を絡めるように、彼女の身体を氷の蔓は這い、動きを封じ込める。
「こんどこそ、さよなら……!」
炎の剣を横薙ぎに振るう。これで彼女の命を絶やす。これで全ての元凶が消え去る。勝つ。そう思ったのは、思えたのは、一瞬だけだった。
「……え?」
「あらあら、どうしたの? そんなに驚いた顔をして。私がわざと罠にかかったのがそんなにびっくりした?」
エラはうふふと不気味に口角を吊り上げる。それを見て、ツルカは戦慄した。目の前の女は、魔女は、全てにおいてイレギュラーだ。存在も、強さも。そんなこと、少し考えれば分かるはずだ。それなのに。
「そんな……」
まるで巨大な岩にでも立ち向かっているような感覚だった。炎の刀身はエラの腕のあたりで止まり、それ以上進もうとしない。どれだけ力を入れても、どれだけ踏ん張っても、エラの身体を切り裂けない。
「さて、そろそろあなたに現実を伝えてあげましょうか」
「現実……?」
聞き返すツルカの細い首にエラの腕が伸びる。
「ぐっ……うぅ……」
宙に浮いた足をジタバタさせながら、ツルカは視界の下に移るエラの顔を睨みつけた。
「離せ……!」
声を絞り出すツルカをエラは嘲笑うように見つめ返す。
「そもそも……私を殺してジャスミンを助けたところであなたはどうすることもできないのよ」
「どういう……意味よ」
「ジャスミンはもう助からないわ。近いうちに呪いを発動させて自分も、そして周囲の人々も町も、国も、飲み込んで燃やし尽くすわ。彼女の瞳を見たでしょう?」
「ひと……み……?」
ツルカはつい先ほど見たジャスミンの顔を思い出す。ジャスミン・カチェルアは他の人とは変わった容姿をしていた。茶色い髪に翡翠色の瞳。
そんな彼女の先ほどの姿。あまりしっかりと見てはいないが、茶色い髪は変わらなかった。瞳の色は――。
「黄色……」
黄色、というより黄金色だった、記憶がある。
「正解よ。混ざったの。ジャスミンとテレーズが」
「混ざった……?」
「ええ。あの子は今、体の中にワルプルギスの夜の可能性を秘めている。これはテレーズが抑え込んでいた負の感情ね。それが今、ジャスミンの中にある。
ジャスミンは特殊な子よ。あの翡翠色の瞳はアンネと同じ。だからきっとワルプルギスの夜を引き起こしてくれるわ。そして、一つあった問題もテレーズのおかげで解決された。ジャスミンは魔女じゃないから、本来ならば呪いは発動しない。けれどテレーズが混ざったおかげで、あの子は半分魔女になっている。二つ名がないからまだ不完全だけど。だから私は……あの子に二つ名を与えようと思うわ。私ならここでもジャスミンの居場所は分かる。居場所が分かれば名付けるのは難しくないわ」
「……そんなこと、できるわけ……」
「できるわ。だって私は……普通ではないもの」
ニヤリと笑って、エラは一つの魔女の名前を口にした。
「『終焉の魔女』。それがジャスミン・カチェルアの二つ名よ」