169.ただの魔女
「わざと逃がしたわね」
エルとジャスミン、それともう一人の女の子が消えるのを確認した後、ツルカは同じ場所に視線を向ける黒髪の女にそう声を掛けた。
「ええ、だって彼らが逃げるのは知っていたもの」
「未来視の加護ね」
「そうよ。今朝のあれだけでそこまで読み取るのね」
「全部彼から聞いた話よ」
ツルカは後ろの男性――マイクロフト・ワーカーに視線を向けながら言う。彼を助けてジークハルトをネーヴェ王国に送った後、マイクロフトから彼が見てきたものを全て聞いた。アンネの灯火のこと、ハンメルンのこと、教会が燃やされたこと。
ただ、どうにもツルカの視界にいる黒髪の女の記憶だけが思い出せなかったようで、その話だけはあやふやになっていた。
ただ、そのあやふやが魔術によるものであることが分かれば、ツルカには手があったのだ。
ツルカは『氷の魔女』なんて二つ名だが、別に氷を使った魔術を大得意としているわけではない。彼女の得意な魔術は精神魔術だ。他人の精神に干渉する魔術。
ツルカの腕にかかればマイクロフトの消された記憶を覗き見ることも容易だった。
「忘却の加護にも気づいたのね。さすが、私が目を付けた魔女なだけあるわね」
黒髪の女が不気味に笑う。
「……それで、どう呼ぶべきかしら。ファム? エラ? それとも『無名の魔女』?」
「どれでも好きに呼ぶといいわ。私はその全てでありどれでもないもの」
「ならあえて『エラ』と呼ばせてもらうわ。エラ、あなたはジャスミンを使って〝ワルプルギスの夜〟を再現しようとした。これで合っているわね?」
するとエラは一度頷き、「ええ」と短い相槌を打った。
「……私からも質問いいかしら、氷の魔女さん」
「なにかしら」
ツルカは少し驚いたように眉を上げる。エラの方から質問を投げかけられることを予想していなかったのだ。
「あなたは……テレーズの入った人形をどうする気?」
ツルカはもっともな疑問だと思った。エラからしてみればテレーズはただの障害に他ならない。それに、テレーズによる被害はツルカ自身も被っている。それなのに、危険性の塊であるテレーズを回収しようというのはどういう魂胆なのか。それが疑問なのだろう。
「……私は全ての魔女を救いたいと思っている。少し前までは、テレーズにとっての救いは〝死〟だと思ってたわ。それ以外に方法がないと思っていた。けれど、今はその方法が一つ増えている」
「この人形?」
「ええ。それは『傀儡の魔女』が作ったものなのでしょう? だとしたら、魂の入れ物にはうってつけ。だからあなたも利用したんでしょうけど。私はテレーズに人生をやり直してほしいの」
ツルカの言葉を聞いて、エラは眉を顰めた。
「やり直す?」
「ええ。彼女は幼少から辛い思いをして育ってきた。もちろん、彼女が奪ったものは多い。嘘を吐き、人を騙し、自分の私欲を満たすためだけに生にしがみついた愚かな少女。とても許されることじゃないわ。でも、彼女をそうしてしまったのはきっとあなた」
「私が?」
「そう、きっとあなたがテレーズを唆さなければ、魔術を知ることもなかった。コレットから視力を奪うことも、手を血で染めることも、欲望の塊になることもなかった」
「……さっきの話、聞いていたのね」
「ええ」
ツルカがこの決意を固めたのはつい数分前。ちょうどこの場所に着いたときに、テレーズの部屋には彼女とエラ、エルと知らない女の子が一人だった。
その様子を見ていたのだ。テレーズを魔術の世界に連れ出したのがエラだということもそのときに知った。
そして決意したのだ。テレーズには普通の人生を歩んでほしい、と。
「でも、魔女になりたいと言ったのはテレーズよ。この結果は彼女の意志ではなくて?」
「そうかもしれない。けれど、彼女はあのとき一人じゃなかったでしょう? 兄がいた。ランディとレヴォル、二人の心優しい兄が。そこから引きはがせば、テレーズが独りぼっちになるのは明白じゃないの」
「……だから私を殺すと?」
エラの言葉にツルカは黙って頷いた。
するとなぜかエラが大声を上げ、腹を抱えて笑い出した。
「随分と面白いことを言うのね! 久々におなかから笑ったわ。あなた、言っていることがめちゃくちゃよ? 全ての魔女を救いたいのに私という一人の魔女を殺すだなんて。どんな冗談かしら」
ツルカは自分の発言がおかしなものではないと自覚していた。だから冷静だった。だって彼女は――。
「だってあなたは――」
人差し指を真っ直ぐにエラに向ける。
「魔女じゃないんだもの」