168.魂の在り処
ファムが転移魔術を使用した直後、僕の視界に一番初めに映ったのは他でもないジャスミンの――いや、テレーズの顔だった。
見覚えのある室内。無駄に広いその部屋には天蓋付きのベッドと申し訳程度のソファとテーブルだけ。
そんな広い部屋の真ん中の、その天蓋付きベッドに腰かけるあどけない表情の茶髪の女の子。
「エルくん……?」
ジャスミンの声で、彼女が呼ばない呼び方で僕を呼ぶ。
「テレーズ……」
初めは驚いた顔を見せていたテレーズだったが、僕の顔を認識したとたんに、その黄金色の瞳を輝かせた。
「エルくん……! 自ら私のところに来てくれたのね! 嬉しい! 私と一緒になる気になったのね!!」
ベッドから跳ね下りると、テレーズは短い足音を立てながら笑顔で僕の方に走ってくる。が、徐々にその補足を緩め、僕の少し手前で止まった。
「……横にいるその女は誰?」
じっとリルの方を睨み、低い声でそう言う。
「ジャスミンちゃん……」
そんなテレーズの表情を見て、リルは悲しげに呟いた。
「ああ、あなた、この入れ物の知り合いなのね」
テレーズはリルから視線を外した。先ほどの一瞬で、リルに対する興味が消えうせたのだろう。まるで、小さな子どもが玩具を捨てるときのような冷たい目をして、彼女は僕に向き直った。
「あら、テレーズ。私の方には見向きもしないのね。妬いちゃうわ」
僕の左後ろ、ちょうどリルと僕の後ろにいるファムがくすくすと笑いながら、テレーズにそう話しかけた。
すると、僕に歩み寄りながらファムの方を見ることもなくテレーズは口を開いた。
「あんたみたいなおばさんにエルが奪われるとは思っていないわ」
「あら、おばさんだなんて。あなたも生きた年数はおばさんみたいなものでしょう。肉体を入れ替えてまで生にしがみつくなんて、なんて醜いのかしらね」
その言葉が、癇に障ったのだろう。テレーズは立ち止まるとファムの方に鋭い視線を送った。
「あなた、誰?」
「覚えていないでしょうけど、あなたを魔女にするように仕向けたのは私なのよ。あなたの誕生日の夜、あなたの元に訪れて、大森林まで運んだ。そのときの記憶、ないでしょう?」
「……で、あなたは何でここにいるの」
ファムはテレーズのその問いには答えなかった。代わりに、ファムはリルの右肩に左手を置き、クスリと笑うだけだった。
「……なに?」
眉を顰めるテレーズをファムとリルは真っ直ぐに見つめると、
「魂よ、汝の器はそこにあらず。汝に寝床を授けよう」
口をそろえて一つの呪文を言い放った。
もちろん、呪文の意味など僕には分からない。ファムと一緒に詠唱したリルも分かってはいないだろう。
ツルカから聞いたことだが、呪文というのは精霊に対する命令文らしい。呪文や魔法陣といった命令文を精霊に聞かせ魔術という現象を引き起こしているのだとか。
その命令文とやらが、ファム一人では精霊に聞かせるには少し力が足りなかったようで、リルが手伝うことになっているわけだが、果たして意味を理解していないであろうリルも一緒に唱えて意味があるのだろうか。
そうは思ったが、不思議なことに目の前では既に変化が起き始めていた。
「何を……したの」
僕の目の前でテレーズが倒れている。まるで床を抱きしめるように、重力に負けているのではないかというほどに、全身にその冷たそうな床を抱いている。
「動けないでしょう? それはその体があなたのものじゃないからよ」
「……まさか!」
見下ろすファムをテレーズは歯を食いしばりながら見上げる。どこか苦しそうな表情で、目には少しずつ涙が溜まっている。
「さようなら、テレーズ。あなたが自由に動かせる体なんて、もうこの世のどこにもないのよ」
「嫌……嫌よ……まだ、まだ消えたくない。消えたくない……。エル……助けて……助けてよ……。なんで、どうして私ばかり、私ばかり苦しまなきゃいけないの。奪われなきゃいけないの」
きっと、なけなしの生命力を振り絞ったのだろう。床を這い、僕の足元まで辿り着くと弱々しい握力で僕の足首を掴み、
「レヴォルなら……私を助けてくれるわよね?」
僕を見上げて、父の名前を呼んだ。
それが彼女の、テレーズの最後の言葉だった。
「これで、テレーズの魂は人形に移り、彼女はジャスミン・カチェルアに戻ったわ。今は気絶しているみたいだけど、そのうち目を覚ますわ」
言いながら、ファムは振り向くと僕たちの後ろに横たえられた一体の人形を見下ろした。
真っ黒い髪の美しい顔立ちの人形だ。今はこれが『テレーズ』なのだろう。
「この人形、どうするんですか?」
「燃やすわ」
リルの疑問にファムは間髪入れずに答えた。
「テレーズの生への執着は異常よ。この人形の身体で動き出さないとも限らないわ。そうなる前に燃やす必要がある」
そう言って、ファムが人差し指を真っ直ぐ人形に向けたそのときだった。
「そうはさせないわ」
聞き覚えのある声がした。
まるで冷やしたナイフのような鋭い声。
「ツルカ様……?」
耳を疑った僕は声のした方に振り向いた。どうにもその声が幻聴の類ではないようで、視界に映ったのはいつも姉面をしてくる女王様とその従者である騎士長アウリール、そしてなぜかマイクロフトだった。
「ギリギリ間に合ったわね。さ、その人形を渡してちょうだい」
「ツルカ様……なんで……」
「エルの疑問に答えている余裕はないわ。というよりジャスミンを連れて早く逃げなさい。その女の目的はジャスミンよ」
「……は?」
一向に、状況が理解できない。テレーズが人形に移ったのはよしとしよう。そのつもりで僕は動いていた。
こうしてジャスミンも僕の腕に抱かれているわけで、めでたしめでたしというはずだったのだが。
「ファムの目的が……ジャスミン?」
「ええ、そうよ。これあげるから、ネーヴェに戻りなさい」
そう言って、ツルカは僕に丸められた大きめの紙を投げてきた。広げてみれば描かれていたのは一つの魔法陣だった。
彼女の言動から察するに、転移魔術の魔法陣なのだろう。
「えーっと、そこの知らない女の子も。ここは危ないから彼らと一緒に逃げなさい」
「えっ、へ?」
リルも状況が分かっていないようだ。というか、僕とリルだけ話に置いていかれているような気がするのだが。
いや、別に置いていかれているわけではない。僕の現在の情報で判断できる。ツルカはファムの目的はジャスミンだと言った。そしてファムはワルプルギスの夜を再現したいという。
そこから導き出される答えなど、容易に想像できるではないか。
僕は急いでツルカから渡された魔法陣を床に広げた。
「リル」
僕が手をこまねくと、おろおろとした落ち着きのない様子で僕の元に歩み寄ってくる。
「逃がさないわよ」
その声と共に、床に広げた魔法陣が火を吹き上げた。それはもう跡形もなく綺麗さっぱりと燃え尽きた。
驚いた僕はファムの方を見た。
彼女は無表情でこちらをじっと見つめている。その刺さるように視線に僕は嫌な寒気を感じた。
まるでこの世のものとは思えないような威圧感。氷漬けにされているのではないかと錯覚するほどの圧迫感だ。
「ジャスミンを渡しなさい」
「嫌だ」
僕はファムの言葉にそう返した。当然だ。やっと助けたのだ。これで長い旅がようやく終わろうというのだ。
だというのに、彼女と国に帰れないなんてことがあってたまるものか。
「……エル?」
鈴のような声が腕の中からした。視線を下げると僕の腕に抱かれたジャスミンが半開きの目でこちらを見つめている。
「目が覚めたか!」
まるで寝起きのような表情をするジャスミンだったが、僕のその声を聞いて目が覚めたのだろう。半開きだった目を大きく開けて、黄金色の瞳で僕を見つめ、
「なっ、えっ、どっ、どういう状況!?」
紅潮した。
「あー、えっと、色々あった」
「色々って何よ!?」
正直、今は話している時間が惜しい。今すぐにこの場所から離れなければいけない。
「今は……ジャスミンはそのまま何もしなくていい」
「何もしなくていいって……」
僕は肩から掛けた鞄に手を突っ込んで、あるものを取り出した。
「それって……」
「あの木札だ。今すぐにここから逃げる。リルも一緒にだ。逃げるだけなら、とりあえずどこかに行けるこれが一番手っ取り早い」
僕はリルの方に視線を配り、小さく頷いて木札を握る手を差し出した。
僕の意図を読み取ってくれたのか、リルは頷き返すと差し出した僕の手を握った。
「……あとで色々聞くからね」
「ああ」
腕に抱かれているジャスミンを見下ろしながらそう相槌を打つと、僕は手の中の木札を握りこんだ。
ジャスミンとリルが不安げに見つめる中、僕の手の中でパキリと木札が折れる音がして、そして、視界は闇に包まれた。
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