165.鬼ごっこ
「それで、どうやって助けるんですか?」
リルのその言葉に、僕は返答を用意できなかった。
「えっと……どうしようか」
これが精一杯の返答である。
少し暗い、どこかひんやりと湿った室内で、僕とリルはお互いに首を捻っていた。
本当に、打つ手がないのである。いや、あったとしても僕たちにそれを知る手段などない。
こういうとき、真っ先に頭に浮かぶのがあの姉面をしてくるどこぞの女王様の顔だというのが実に悔しい。
彼女なら――『氷の魔女』ツルカならどのような手段をとるだろうか。
「……まず、現状の整理からだな」
これはなんにでも言えることなのかもしれない。現状を正しく把握できていなければ、正しい行動というものは取れようもない。
「ジャスミンはテレーズに体を乗っ取られている……」
「どういう風に乗っ取られているんですか?」
リルの言葉に僕は次に言うべき言葉を頭の中でガサゴソと探してみる。
「……分からん」
絞り出せたのはそれだけの意思表示だった。
八方塞がりである。手も足も出ない。本当に、情報そのものが欠落しているのだ。僕たちが現状知りえることは「ジャスミンがテレーズに体を乗っ取られた」の一つ限りだ。
「まいったな、これは……」
「えっと、どなたか魔術に詳しいお知り合いとか……」
魔術に詳しい知り合いならいる。いるにはいるが誰に会うにもネーヴェ王国まで帰らなければならないわけで――。
そう思いながら思い浮かべる魔女の顔の中に、割とごく最近知り合った魔女の顔があった。しかし正確に言うと彼女は魔女ではない。『元』魔女だ。
「……南の大森林に一人いる」
「ほんとですか! じゃあ早速そこに……」
目を輝かせるリルの言葉を遮るように、バタンと大きな物音がした。一階からだ。まるで扉を蹴破るかのような激しい音だ。
「……誰か来たのか」
「かもしれないですね」
リルはそう言って僕の方を見ると、
「エルさんはここに隠れていてください。もしエルさんを捕まえに来た人だったら大変ですから」
そう言いながら立ち上がると、落ち着いた様子で部屋を出て行った。
ぎしぎしと古めかしい階段の軋む音。トタトタと廊下を走る短い足音。そして、耳を澄ます僕に届いたのは「きゃっ」というリルの短い悲鳴だった。
その後に続いたどこか騒がしい話声に、僕は部屋を飛び出し、壊れそうな階段に気も留めずに駆け下りていた。
「リル、どうした……」
「エル、さん……逃げて……」
そう言うリルは苦しそうな表情をしている。見れば後ろに体つきのいい男が一人、リルの首を絞めるような形で捕えていた。その男の横にもう二人、ニタニタとした表情を浮かべてこちらを見ている。
「本当にいやがった。あの坊主を女王サマに差し出せば何でもしてくれるんだってな?」
「そういう話だ。とりあえずひっ捕まえてそこら辺の柱にでも縛っておけ。その間に俺らはこのお嬢ちゃんで楽しもうじゃねぇか」
「それで女王サマにも相手してもらおうってんだろ? 欲張りだなぁ、お前は」
ニタニタと不気味な笑みを浮かべ、下劣な言葉を男たちは口にする。そんな言葉を聞いてか、リルの表情は引きつり、恐怖の色に染まっている。額を汗で滲ませ、持ち上がっている足をジタバタとさせているが、そんなことはお構いなしにリルの首を片腕で抱く男はにたりと笑う。
「暴れたって意味ないぜ。こんな細腕で敵うわけがないだろ」
「……リルを放せ」
様々な感情が込み上がっていた。もう誰も失いたくないという気持ち。目の前の光景に対する怒り。リルに手を出そうという男たちに対する嫌悪。
それらが一緒になって僕の口からその短な言葉を紡ぎだした。
「そう言われて放すとでも思ってんのか」
男はそう呟くと両隣の男に顎で指示を出した。
それを合図に二人の男が僕に向かって静かに歩み寄ってくる。
「おっと、気絶させるつもりはないぜ。目の前で大事な女が犯されるのを指をくわえて眺めてな」
ケラケラと笑う男。その足取りからは余裕そうな態度が滲み出ていた。僕のような弱そうな男ならすぐに縛り上げられる。そんな風にどうせ考えているのだろう。
「……」
僕は無言で自分の肩に掛けている鞄に手を伸ばした。ジャスミンの鞄だ。その中にあるものが入っている。
とても小さなもの。ほんのりと淡い青色をした小さなガラス玉だ。僕が知っている彼女の作った魔法道具。
ジャスミンは「護身用だから人には投げるな」と言っていたが、まあ、緊急時だし護身には変わりない。
僕はそれをぎゅっと握りこみ、少しだけ腕に助走をつけて下から男に向かって投げた。
「ん? なんだぁ?」
男は立ち止まり、自分の腹に当たって下に転げ落ちたガラス玉を目で追いかける。
――その直後。
まるでその場所に滝が生まれたかのように、大量の水が溢れだした。
「なっ、なんだよこれ!!」
突然の出来事に男たちは動揺を隠せていない様子だった。明らかにあたふたし、突然現れた大量の水に足をとられている。
「リル!!」
僕は叫んだ。すると目の前の状況に頭が追いついていないのか、きょとんとしたリルが慌てるように緩くなった男の腕から抜け出した。
僕に向かって走ってくるリルの手を取り、
「裏口はあるか!?」
「台所にっ……!」
答えを聞くと急ぐように台所に向かった。
後ろを振り向き男たちが追いかけてきているのを横目に見ながら、台所の外に繋がる扉を開けて、リルを引っ張るようにして外に出た。扉を思いっきり閉めて、リルの手を握って走り出す。
「とりあえず今はひたすら走れ。僕が手を引くから」
そう伝えるとリルは無言で頷いた。
それから、僕とリルは飛ぶように走った。とにかく走った。〝無名の町〟の寂しい街路を、切り裂くようにひたすら走った。
後ろからは「待てや」「どこに逃げるつもりだ」などという男たちの声が届いてくる。
「リル、キーリングス医師のいる場所は分かるか?」
「えっ、先生っ、ですかっ」
半ば息を切らしているリルが聞き返す。
「ああ。知っているなら案内して欲しい。しんどいかもしれないが、今頼れるのは彼のところだ」
「……こっちです」
ずっと真っ直ぐだった道を曲がり、今度は僕がリルについていくように走った。
キーリングス医師は、先日この〝無名の町〟でウィケヴントの毒の症状が確認されたときに知り合った医師だ。
僕は彼に〝真っ当な人間〟という感想を抱いた。この見立てがあっている自信はない。ただ、今この町で頼れる人は彼以外思い浮かばなかった。
他の町民ではダメだ。この町は廃れている。それはきっと、町としての機能ではなく人が廃れているのだ。国が国だから仕方のないことかもしれない。だが、この町でリルのような優しさを、キーリングス医師のような誠実さを持つ人物がいないのはウィケヴントの毒がこの町で出たときに確認済みだ。
この町の人々は自分のことにしか興味がないのだ。自分の欲を、感情を優先していた。別にこれは人間の本質だ。他人本位で生きている方が普通ではないかもしれない。ただ、この町は度が過ぎている。
あのとき、ウィケヴントの毒で人が倒れときに誰も助けようとしなかった。誰も医者を呼ぼうとしなかった。
「ここ、です……」
リルが立ち止まる。その目の前に、白い小さな建物があった。擦れた文字で「キーリングス診療所」と書かれている。
僕は無言でリルの手を引くと診療所に立ち入った。
「キーリングス医師はいますか」
肩で息をしながら診療所の受付にいる女性に尋ねる。
「先生なら奥の部屋にいらっしゃいますが……」
「合わせてほしい。追われているんだ」
短く説明すると、女性は眉をひそめた。
「……お名前を伺っても?」
「……エル・ヴァイヤーだ」
名前を名乗ると、何かを察してくれたのか女性は「どうぞ」と小さく言って僕とリルを奥に通してくれた。
通された部屋の白いカーテンの奥に、見覚えのある人影があった。僕はカーテンをめくり、中に入る。
「お久しぶりです、キーリングスさん」
椅子に座る一人の男性に向けて、僕は小さく会釈をした。
「……エル君か。掲示板を見たよ。随分大変なことになっているね」
キーリングスが座ったまま言う。
「ええ、それで追われていて……少しの間匿ってもらうことはできますか?」
「もちろんいいだろう。追手がどんな者かは知らないが、追い払ってあげるよ。そこに隠れていなさい」
そう言って、薬品棚の横の縦長の物入れを指さした。
「物音を立てないように気をつけて」
言われるがまま、僕とリルは物入に入った。どうやら掃除用具入れだったようで、何本かの箒と一緒だ。
「リル、狭くないか」
小声で尋ねると、彼女は最小限の動きで頷いた。走ってきたせいか、お互いにまだ少し肩で息をしているようだ。リルにいたっては顔が真っ赤だ。そんな息遣いが物入の中に静かに響く。
そうして物入に入って一分経ったときのことだ。
ドタドタとした聞き覚えのある足音と一緒に、
「おい、おっさん。ここに白い髪の坊主と黒い髪の女が来なかったか?」
つい先ほどまで僕たちを追い回していた男の声が聞こえた。低くのしかかるような声。リルの首を絞めていたやつだろう。
「さて、見たこともないね。その二人がどうしたのかね?」
「なんだよおっさん。知らねえのか。その白い髪の坊主を捕まえたら女王サマに恩賞がもらえるんだよ。女王サマが捕まえろって言うんだからよっぽどの罪人だ。おっさんも協力してくれや」
「なるほど、そういうことか。ありがたく協力させていただくよ。ただ、私もまだ状況を把握しきれていなくてね。その白髪の男とやらを見かけたら教えるよ。少なくとも私たちは見ていない。恐らく別のどこかに逃げたんだろう」
「そうか、手数かけたな。ま、なんか見たら教えてくれや」
バタバタバタ、と。先ほどよりは少し静かな足音が遠のいていく。
「……もう出ても大丈夫そうだ」
キーリングスの言葉と一緒に、物入の扉が外から開け放たれた。
「ありがとうございます、キーリングスさん」
「これくらい、どうということはない。君には恩がある。それを返しただけだ。詳しいことは聞かない。君が罪を犯すような人間には私には見えない。この国の女王のことだ。きっと私欲のために君を捕まえんとしてるのだろう。この町から早急に逃げなさい、と言いたいところだが」
「何か問題でも?」
表情を曇らせるキーリングスに僕はそう尋ねる。
「本当に、人間とは浅ましい生き物だ。自分のこととなればいくらでも行動できて、いくらでも知恵を絞れる。それが善行ならばまだいい。大抵の人間はその欲からくる悪行だ」
「どういう、ことですか?」
リルがまだ少し荒い息を深呼吸で整えてから聞き返す。
「君がどうやってこの町に入ったのかは知らないが、この町の町民が道を塞いでいるという噂があった。恐ろしく早いね。まだ張り紙がされてから半日も経っていないのに。どこかに逃げようものなら彼らに捕まってしまうだろう」
「そんな……」
行くべき場所が、成すべきことが明確になった途端にこれだ。神様とやらがいるのならば、どうやら相当酷い性格をしているらしい。
「……ほとぼりが冷めるまでここに匿うことはできる。逃げるというのであれば止めることはしない。ただ、警告はした。判断はエル君に任せるよ」
「……」
さて、どうしたものか。この四面楚歌の状態に果たして打つ手はあるのか。あると言えばある。例の木札だ。ジャスミンが作った魔法道具。縁を手繰るというヤツだ。実際、その魔法道具の力で僕はリルのもとに飛ばされた。逃げるだけであればそれを使っても構わないかもしれない。ただ、欠点がある。それはどこに飛ばされるのか分からないということだ。
次の目的地が決まっている以上、下手にこの木札を使えば全く違う場所に飛ばされる可能性だってある。王都に引き戻されるかもしれないし、ネーヴェ王国に飛ばされるかもしれない。
この状況でそんな賭けに乗っている場合ではない。
「お困りのようね」
後ろから下声に振り返る。部屋の入口、そこに黒い服を着た女性が一人、開け放たれた扉の扉枠に縋っている。
「……誰だ」
突然現れたその女性に、キーリングス医師は険しい表情を浮かべながら低い声で警戒しながら女性に尋ねた。
「通りすがりの魔女よ。隣の帝国に嫌気がさしてこっちの国に逃げてきたんだけど、どうやらお困りのようだから、助けてあげようと思ってね」
「……魔女?」
僕が聞き返すと女性は小さく頷いた。
「ええ、魔女よ。魔女のファム。大体事情は聞かせてもらったわ。魔女の気まぐれに感謝しなさい。私があなたたちを助けてあげる」
「……エルさん」
不安げな表情でリルがこちらを見上げる。
この女性の「助けてあげる」という言葉は嘘ではないように感じた。ただ、彼女の正体が不明確な以上、はいお願いしますと素直に頷くこともできない。
あまりにも不自然だ。この時期に帝国から来たこと、この無名の町にいること、魔女であるのに魔女の二つ名を名乗っていないこと。
「……なぜ僕たちを助ける。それによってあなたにどんな利益がある」
「あら、さっきも言ったでしょう。ただの気まぐれだって」
ふふふと笑ってファムは言う。
「ならば魔女の二つ名を教えてくれ。魔女にとって二つ名は仕事をする上で大事なものだ。それを名乗らないのであれば簡単にあなたを信用できない」
ファムの目を見て僕はそう言葉にした。彼女の回答次第ではその申し出を断る。そう決めての言葉だ。
確かに、美味しい話ではある。助けてあげるということはこの町から逃げ出す手段を用意してくれるということだろう。
「……魔女の息子らしい言葉ね。舐めてかかった私が悪かったわ」
一つため息をつき、ファムは扉枠に縋る背を放すとこちらに少しずつ歩み寄ってくる。
「何を隠している。何が目的だ」
「ただの利害の一致よ」
「……もう一度問う。何が目的だ」
「あくまで私が素性を話さない限り話には乗らないといった感じね。なら教えるわ。でないと私も動けないから」
僕の前で立ち止まるファムの次の言葉を僕は固唾を飲んで待つ。
彼女が何者なのか、何が目的なのか。
「私は〝アンネの灯火〟教祖。魔女のファム。目的はテレーズ・ゼラティーゼを殺すことよ」