163.信じてあげて
どうやったら元気を出してくれるのだろう。
リル・リヴィエールはそんなことを思いながら〝無名の町〟の寂れた街路を歩いていた。
正直、エルが突然現れたときは心底驚いた。それと同時に嬉しかった。また会いに来てくれたのだと。
ただ、様子は普通ではなかった。酷い熱で宿の前に倒れているし、何よりジャスミンの姿がなかったからだ。彼の手の中には、半ばで折れた木札のようなものが握りこまれていた。
とりあえず、どうにかこうにか引っ張り上げて宿の一室で看病していたのだ。
そして目を覚ました彼の口から聞かされた衝撃的な言葉。
「……私、できる事ないのかな」
エルの言葉を思い出し、ぼそりとそんなことを口にする。
こういうとき、どうするのが正解なのか、リルには分からなかった。
友達なんてもの、それこそエルとジャスミンが初めてだし基本的に人と深くかかわるような生き方もしていない。
だからこそ、こういうときはどう行動するのが最適なのかが分からなかった。
エルはジャスミンがいなくなって意気消沈してしまっている。きっとそれではダメなのだ。彼がそんな状態ではジャスミンも彼自身も救われない。
ただ、そう思うリルにもどうしようもないのが現実である。
彼女にできるのは温かい寝床とご飯を提供するぐらいだ。ただそれでエルが元気になるとも思えなかった。
「なんて言葉をかけるのが正解なのかな」
ありきたりの励ましの言葉はかけた。自分は無力だと言い張るエルに、「そんなことはない。私は救われた」と。
ただそれでもエルの心は変わらなかった。
そのとき、エルからジャスミンを女王に奪われ、自身が何もできなかったことを悔いているその感情ががひしひしと伝わってきた。それと同時に、自分ではダメなのだとリルも思った。彼が求めているのはリル・リヴィエールではなくジャスミン・カチェルアだ。
そうだと分かった瞬間、心のどこかがズキリと痛んだ気がした。
「……人って、難しいなあ」
そんな事をぼやきながら歩くリルの目にあるものが入った。町の掲示板だ。普段なら目の前を素通りするそれだが、今回ばかりは立ち止まらずにはいられなかった。
無名の町は既に廃れた町だ。未だに人が住んでいるのが不思議なくらいに。そんな町の掲示板は、一年ぐらい前から更新されていない。
だからこそ、リルはそれに釘付けになった。
「……張り紙?」
掲示板に張り紙がある。それ自体、町である以上普通のことだが、この〝無名の町〟では異常なことだ。
内容を確認しようとリルは掲示板に近づく。
そしてその掲示板の内容を見た瞬間、嫌な悪寒と冷や汗が滝のように溢れ出した。
「なに、これ」
その張り紙にはよく知った顔が精巧に描かれていた。
そしてその下に「エル・ヴァイヤーをここに連れてきなさい。連れてきたものには恩賞を与えるわ。欲しい物なら何でも与える。なんとしても連れてきなさい」と書かれていた。
状況はすぐに分かった。この国の女王、テレーズ・ゼラティーゼがエルを捕まえようとしているのだ。
「早く帰らなきゃ」
この掲示板を見る人は少ないかもしれない。ただ、「恩賞」という言葉につられてエルを探し始める人は必ず出てくる。まるで懸賞金をかけられた重犯罪者のような扱いだ。
とりあえず、今自分にできるのはとにかく彼が見つからないように匿う事だけだ。
そう考えながら、リルは冷えた街路を自身の営む宿めがけて一直線に走り抜けた。
§
ぼんやりとした僕の頭の中に届いたのはバタン! という大きな扉の閉まる音と、ミシミシと今にも壊れそうな階段を駆け上がる音だった。
「エルさん!!」
盛大に開かれた扉から顔を覗かせたのはつい先ほど「出掛けてくる」と言って出て行ったリルだった。
「そんなに慌ててどうした」
肩で息をするリルの様子を見て、なにか焦ることでもあるのかと思い、そう尋ねる。
「……この町から、いえ、この国から逃げましょう」
「……は?」
突然の提案に、僕は戸惑った。
「逃げる?」
「はい。テレーズ女王は既にエルさんを捕まえようと動き出しています。町の掲示板に張り紙がしてありました。捕まえた者には恩賞を与える、って。きっとこの国にいたら必ず見つかります。そうなる前に……」
「……好都合だ」
「はい?」
僕のその一言にリルは怪訝そうな顔を顕わにした。
「何が好都合なんです? 捕まっちゃうんですよ?」
「好都合以外に他ならない。僕はジャスミンを助ける必要がある。捕まれば恐らく彼女のもとに連れて行かれるだろう。これが好機でなければなんなんだ」
「なんで……」
「それが分かれば後は僕が捕まりに行くだけだ。安心してくれ。君に害が及ぶような手段はとらない。これは僕とジャスミンの問題だ」
僕はベッドから出ると、最低限の荷物を持ち、部屋を出るべくドアの取っ手に手をかけた。
「ありがとう、リル。短い間だったが世話になった」
彼女に背を向け、僕は扉を開けた。そのときだった。
「エルさんのバカっ!!」
リルの口から飛び出したとは思えない単語に驚き、僕はまるで確認するかのように振り返った。
振り返って分かった。先ほどの罵倒は間違いなくリルが僕に対して放ったものだ。
「……リル? どうし」
「エルさんのバカ! 鈍感! 分からずや!」
「なっ……」
繰り返される侮辱的な単語に、僕は腹が立ったのだろう。体ごと向き直り、リルに向かって僕は口を開いた。
「馬鹿とは何だ! 必死に何かを成そうとしている人間に対して使っていい言葉じゃないぞ! 大体君には関係のないことで」
「その考え方がバカだって言ってるんですよ!」
怒鳴りながら、リルは半開きの扉の前で突っ立っている僕に詰め寄った。
「大体、捕まってどうするつもりだったんですか? どうやってジャスミンちゃんを救い出そうと思っていたんですか? 相手はこの国で一番偉い人なんですよ?」
「それは……」
問い詰められた僕は口籠った。
何も考えていなかったのだ。だが、それでも――。
「それでも、ジャスミンは僕が迎えに行くのを待っている。だったら早く行くべきだ」
ぷつん、と。
何かが切れた音がしたような気がした。実際、そんな音がしたわけではない。そんな感じの音が、目の前の少女から感じ取れた。
「エルさんは……ジャスミンちゃんのこと何も分かってない」
「そんなことはない」
「何も分かってませんよ!! ジャスミンちゃんがなんでエルさんを逃がしたのか分からないんですか!?」
「それは、テレーズの目的が僕だからで……」
「そうじゃないんですよ!!」
ぐっと下を向き、リルは少し震えながら言葉を続ける。
「ジャスミンちゃんはエルさんが思っているよりずっと大人なんです。ずっとずっといろんなことを考えているんです。ジャスミンちゃんはエルさんに『待っている』って言ったんですよね? きっとそれは、エルさんに早く迎えに来てほしくて言ったんじゃありません。エルさんなら必ず迎えに来てくれると信じているから、その言葉が言えたんです。時間が掛かっても、どれだけ待たされてもエルさんなら迎えに来てくれるって。そんなジャスミンちゃんの思いをよそに、焦って迎えに行って、もし何もできなかったらまた出直すんですか? そんなにチャンスは巡ってくるんですか?」
「だが、チャンスというのは積極的に行動しない限り巡ってこないぞ」
行動しない限り、チャンスは生まれない。これは母に教わったことだ。失敗を恐れていては成功を掴めないと。母はそうやって多くの経験をして多くの知識を得てきたと、そう言っていた。
僕だってそれに倣って今まで薬学を勉強してきたのだ。
だが、リルには僕の言葉が腑に落ちなかったようで、首を横に振った。
「そういう話じゃないんです。チャンスがあるということは失敗の可能性があるってことなんです。もし取り返しのつかない失敗をしたとき、エルさんはどうするんですか? 人生はくり返しが利きません。同じようなチャンスはそうそう巡ってくるものじゃないんです」
「……失敗を恐れろ、と?」
僕が尋ねると、リルは小さく無言で頷いた。
「いろんな物語を読んでも、〝逃げるな〟とか〝恐れるな〟とかっていうセリフが出てきますけど、私はそうは思わないんです。失敗を恐れるのは自然なことです。エルさんがジャスミンちゃんを助けたい気持ちは分かります。けれど考えなしに失敗を恐れずに立ち向かうのはただの〝無謀〟にすぎません。
だったら、ちゃんと準備して、失敗のないような体制で挑むべきだと思うんです。エルさんならそうしてくれると思ったから、ジャスミンちゃんは『待っている』って言ったんです。ジャスミンちゃんはエルさんを信じているんです。だからエルさんもジャスミンちゃんのことをもっと信じてあげてくださいよ」
「……」
信じて、いなかったのだろうか。
思い返せばそうだったのかもしれない。
僕はいつまでも彼女を子どものように扱い、いつの間にか自分が見張っていなければ何をしでかすか分からないお転婆少女だと思っていた。いや、実際そうだとは思うのだが。
確かに、旅に出る前よりは子どもっぽさは抜けたような気がする。いつまでも子ども扱いをして、僕はジャスミンを〝庇護対象〟だと勝手に認識していた。
そうではなかったのだ。
「……僕の認識が間違っていた。考えを改めるよ」
「エルさん……よかった」
リルの言う通り、僕は焦っていたのだろう。隣にいた心地よい笑い声が聞こえなくなって、気を揉んでいた。
確かに、冷静さを欠いての行動はよろしくない。失敗の可能性を高めるだけだ。失敗を恐れずに挑むのは勇敢でも何でもない。ただの〝無謀〟。リルも先ほど言ったことだ。
「……手伝ってくれないか?」
細い声で僕はリルに向かってそう言った。
僕が無力なのは周知の事実だ。だからといって、縮こまって怯えているわけにはいかない。人にはできることとできないことがある。できることは全力で、できないことは他人に任せればいいとジャスミンに行ったのは他でもない僕だ。
自分のこととなると、答えを持っていても正しい選択ができないのだなと改めて思う。
「僕は無力だ。だから一人でジャスミンを救うことはできないだろう」
だから。無力な僕に。
「リル、僕に手を貸してくれないか? 今は……人手が多い方がいい」
僕の言葉を聞いたリルは目を輝かせて大きく頷くと、その小さな両手で僕の手を握りこんだ。
「ぜひ、お手伝いさせてください! ただ、私も無力な人間です。魔術の知識もないし、お役に立てるか分かりません。それでも、私もジャスミンちゃんを助けたいです。私でも、いいんですか?」
「君は、僕にはない感性を持っている。きっと一人では気づけないことに気づかせてくれる。僕からお願いしているんだ。ダメなわけがないだろう」
僕がそう伝えると、リルは少し俯かせた顔を持ち上げて、まるで花を咲かせるように微笑むと、
「はい!」
そう返事をして頷いた。