162.無力
リルが部屋を出て一時間後、僕は彼女を部屋に呼んだ。
休んだおかげか、体も幾分かは思い通りに動くようになっていたし、気怠さもどこかへ吹き飛んでいた。
リルを部屋に招き入れると、僕はベッドに腰を掛けて事の顛末をリルに話した。
アンネの灯火のこと、メルテルン教会であった出来事、テレーズに会った事、そしてジャスミンの体が乗っ取られたこと。
黙って話を聞いていたリルを一瞥して、僕は顔を俯かせた。
「……僕は無力だ」
自分でも真っ当な評価だと思う。僕は無力だ。どうしようもなく非力だ。教会ではジークハルトやマイクロフトのように自ら戦うことができなかった。テレーズの前では涙を流し、叫ぶ事しか出来なかった。挙句の果てに僕はジャスミンに逃がされてここにいる。教会でも大人の優しさに逃がされた。
「僕は、いつも助けられてばかりなんだ」
「そんなこと……」
「慰めはいらない。全部事実だ。覆しようのない現実は僕の力不足が原因だ。僕が小さい頃に大人しく剣を手に取っていれば、もっと他のことを学ぼうとしていれば、もしかしたら今の結果は違っていたのかもしれない」
全ての事柄を知ろうというのは傲慢かもしれない。それに、何もかも知っているなんて人間はこの世に存在しない。それでも、もし自分にもっと知識があれば、博識であれば、そう思わずにはいられなかった。
「それでも……」
突然、その声と共に体を温かいものが包み込んだ。リルが両腕を回すように、俯く僕をその胸に抱き寄せたのだ。
「リル……?」
「ごめんなさい。慰め方とか分からなくって……私がおじいちゃんにしてもらって安心したのが抱きしめてもらう事だったので……」
どこか恥ずかしそうにリルが言う。
「私は、エルさんに助けてもらいました。私が毒に侵されて、倒れて。目を覚ましたときにエルさんが傍に居てくれて、すごく安心したんです。あのとき、すっごく怖い夢を見てて……一生覚めそうにない、真っ暗な場所の夢。本当に怖かったんですよ。でも、エルさんがそこから引っ張り出してくれたんですよね」
「……僕は解毒剤を飲ませただけだ。君を助けられたのは、僕がたまたま解毒剤を持っていたからなんだ」
「でも、エルさんがいなかったらきっと私は、ずっと覚めない夢の中にいたんだと思います。助けてもらったのに違いはありません」
「僕は薬師として当たり前のことをしただけだ。何も特別なことはしていない」
「それでも、私にとっては特別なんですよ」
リルはそう言うと、僕を抱く腕の力を少し強めた。
「私を助けてくれるのはいつもおじいちゃんでした。こんな寂れた町だから、みんな他人に構っていられないんです。自分のことで精一杯で。だからおじいちゃんが死んじゃったとき、私はこの町で独りぼっちになりました。たまにやっている私の出店に来る人との関係は客と店主だけの関係で、それ以上にもそれ以下にもなりません。
そんなときにエルさんとジャスミンちゃんがきて、私を必要としてくれました。私を見てくれました。それだけで私にとってエルさんやジャスミンちゃんにしてもらったことは全部特別なんです。
エルさんは自分の行為を当たり前のことと言いました。でもそれって実はあんまり当り前じゃないんです。誰かを助けようと思えるその心は特別なものなんですよ」
「でも……僕は……」
リルの言葉を僕は素直に飲み込めなかった。リルがそう思っていたところで、ジャスミンを助けられなかった事実が覆るわけではない。
「……私、少しお出掛けしてきます」
するりと腕を解くと、リルは何も言わずに部屋を出て行った。
§
ゼラティーゼ王国王都の隣に位置するヴァイエス市のさらに隣にフィルラント市という都市がある。ゼラティーゼ王国の中でも四番目に大きい都市で、伝統工芸品が盛んな都市だったのだが。
「町が大きいわりに人が少ないね」
マイクロフトは窓の向こう側の、初めて見るその都市の印象をそのまま口に出した。街路は閑散とし、夕日の暖かな光だけがその街路を歩いているようだった。
「王都はそうでもないけど、この辺りの都市はかなり衰退しはじめているわね。この国の女王はもう国のことなんて考えていないわよ」
マイクロフトの言葉に、向かいに座るツルカは淡々とそう返した。
「ジークは……?」
「ついさっき本国に返したわ。今は多分コレット――『草原の魔女』が治療してくれていると思うわ」
「そうか……」
マイクロフトは友の顔を思い浮かべながら頷いた。
今朝のことだ。マイクロフト自身、その出来事をほとんど覚えていない。今朝、何者かに襲われた。その中でジークハルトが倒れ、そんなときにネーヴェ王国の女王であるツルカと騎士長アウリールが助けにやってきたのだ。
それ以上のことを、マイクロフトは覚えていない。
ツルカは相手が魔女だと確信しているようだが、その真偽のほどはマイクロフトには分からなかった。
「とりあえず、〝アンネの灯火〟について知っていることを、覚えている限りでいいから教えてちょうだい。事の次第によっては私もそれ相応の動きをするわ」
「私からも幾つか女王陛下にお聞きしたいことがある。だから情報交換と行こうじゃないか」
「ええ、そうね。あなたから聞いていいわよ。多分私の方がまだ状況を把握できているから」
白い湯気を立ち昇らせる紅茶を一口飲むツルカを眺めながら、マイクロフトは口を開く。
「ネーヴェ王国で何があった」
問うと、ツルカは手に持ったティーカップをソーサーの上に丁寧に置いた。そして少しため息を交えながら、
「テレーズが襲ってきたわ」
ただそれだけの事実をマイクロフトの問いへの答えにした。
「……『門番』を務める魔女は全員殺されたわ。……いえ、それだけで済んだというのが正しいかもしれない。セラもクルラも、ベッキーやトラバ、マリアにヘスナ、そしてサクラも」
「……」
「テレーズの目的は私の身体だった。テレーズの肉体はとっくに死んでいたから、ガタが来たんでしょう。もう保たない肉体を捨てて、私の生きている肉体を自分の魂の入れ物にしようとしていた」
「……それで、女王陛下に敗北したテレーズはジャスミンの身体を入れ物にした、と」
「ええ、そうよ」
マイクロフトの推測に、ツルカは小さく頷いた。
こうなることを、ツルカは予測できなかった。テレーズは確かに実力のある魔女だ。それは間違いない。
しかしテレーズとジャスミンには接点などないはずだ。それなのになぜテレーズはジャスミンに目を付けたのか。それがどうしても分からないし、どうやってジャスミンに近づいたのかも分からない。
「……大体そちらの状況は分かった。しかしそうか、サクラが……」
「……ごめんなさい。あなたの大切な人を守ってあげられなかった」
ツルカは申し訳なさそうに俯いた。
「いや、彼女らも自分の国を守るために死ねたのなら本望だろう」
マイクロフトのその言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
マイクロフトは何人かの門番である魔女と交流があった。その中でも、『吹雪の魔女』であるサクラと親密な関係を築いていた。
マイクロフトにとって彼女は初恋の相手だった。結果から言ってしまえば、お互い別の道を歩むことになってはいるが、それでも、熱い想いを抱いた女性が死んだという事実を素直に受け止めることができなかった。
遠い過去を思い出しながら、マイクロフトは窓の外に視線を向けた。
「葬儀は済んだのか」
「いえ、まだよ」
「……そうか」
どこか張り詰めた空気が漂う。それに耐えかねたのか、ツルカが一つため息をして口を開いた。
「なんだか、暗い雰囲気になっちゃったわね。さっ、マイクももっと何か注文なさい。今日は私のおごりよ」
「はは……その台詞で喜べるほど私は子どもじゃないよ」
「私から見たらみんな子どもみたいなものよ」
少し微笑みを交えてそう返した。ツルカの精一杯の慰めだった。マイクロフトと『吹雪の魔女』サクラの関係を詳しく知っているわけではない。ただ、ツルカにとってサクラが彼のことを話すときの表情が印象的だったのだ。
だから、二人がそれなりに親密な関係であることをよく理解していた。
もしこれで彼の気が紛れるなら、と。そう思っての言動だった。
ツルカ自身、門番が殺されたのは自分の失態であると思っている。テレーズの脅威度を見誤ったのだ。
もし、テレーズをもっと危険視していれば、自分がもっと先に前に出ていれば……。
そんな思いを抱いた。
「……それではマイクロフト殿、そろそろ本題に移りましょうか。あなたが見てきたものを私たちに教えていただけませんか」
今まで黙っていたツルカの隣に座る壮年の男性――ネーヴェ王国騎士団騎士長のアウリールが口を開いた。
「……そうだね。ではまず、ある町で聞いた預言をしたという少女の話から始めようか」
マイクロフトはそう前置きをすると、一口コーヒーを流し込んで目の前に座る二人に旅の全容を話し始めた。