161.残された者たち~3~
僕が目を覚ますと、見覚えのある天井がこちらを睨みつけていた。どうやらベッドの上に体を横たえているようだ。
「エルさん、目は覚めましたか?」
僕の名前を呼ぶ声に、ベッドに体を横たえたまま横を向く。
「……君は」
「お久しぶりです、エルさん。今お水持ってきますね」
立ち上がり、ぱたぱたと足音を立てて、声の主は部屋を出て行った。
彼女はリル。リル・リヴィエール。〝無名の町〟で宿を営む少女だ。
なぜ彼女が、という疑問を抱きかけた僕は、即座にその疑問が誤りであることに気がついた。逆だ。なぜ僕がこの場所に、彼女の営む宿にいるのか、ということだ。
「お待たせしました」
部屋の扉が開き、ガラスのコップを持ったリルが入ってくる。
僕は体を起こして、「ありがとう」と言ってそれを受け取った。
「えっと……なんで……」
たったそれだけの言葉だったが、リルは僕の聞きたいことに笑って答えてくれた。
「今朝、宿の前でエルさんが倒れていたんです。しかもすごい熱で……。頑張ってここに運んで、それからずっと看病してました」
「……世話をかけた」
申し訳なく思った僕は、未だに回りきっていない頭の中からその言葉を絞り出した。
「構いませんよ。お世話をするのは好きですから」
微笑むリルは「それで」と言葉を付け足した。
「ジャスミンちゃんは一緒じゃないんですか?」
「ジャスミンは……」
そこまで言った僕は、言葉の先が思い浮かばなかった。まるで道にでも迷ったかのように。まるで、ものを無くしてしまったかのように。
「彼女は……」
いつだって隣にいた。いつだって声が聞こえた。それなのに、今は彼女の姿はどこにも見当たらない。
「そうだ……僕は……」
僕は、彼女を救えなかったんだ。
「エルさん? 大丈夫ですか?」
笑いが止まらなかった。こんな自分が滑稽で仕方がなかった。小さい頃から勉強してきた。誰かの命を守れるように、母のような薬師を目指した。診療所が継げるように努力した。
結果はどうだ。
いざというときに大切な人すら守れない。この為体が可笑しくないはずがないだろう。
「……助けに行かないと」
僕は布団をめくり、ベッドから降りた。
ぼんやりとする頭を働かせ、足を動かした。
「エルさん!? 待ってください! まだ熱が……」
「君には……関係ない」
振り返り、リルに向かって僕は言い放った。
ジャスミンは「待っている」と言った。僕が助けに来るのを待っていると言ったのだ。こんな何もできない僕を待ってくれているのだ。ならば、その想いに応える必要が僕にはある。
「放っておいてくれ。君まで巻き込むことじゃない」
おぼつかない足を動かし、部屋の扉に向かって歩く。しかし扉の一歩手前で僕は膝から崩れ落ちた。
どさりと体は床に伏し、起き上がってくれない。
「……クソッ」
一刻も早く、ジャスミンを助けに行かねばならないというのに、どうしても体が言うことを聞いてくれない。足に力は入らないし、体は熱いのか寒いのかよく分からない。気怠さだけが全身を覆っているようだ。
脳も回転がいつもより鈍いように感じる。
「なんで、僕は……」
なんで僕はこんなところでうずくまっているのだろう。
「……何かがあったことはお察しします。でも今は体調を万全にするのが先決です」
顔の横に差し伸べられる手を、僕は一瞥して顔を伏せた。
「君を巻き込むわけにはいかない」
これは他人を巻き込んでいいことではない。相手はこのゼラティーゼ王国の女王だ。ジャスミンの言っていたことから察するに、テレーズの目的は残るは僕だけだ。
テレーズは僕個人に強く執着しているようだ。きっと僕の父が、彼女にとって大きな存在だったからに違いない。
いつか父と会話したテレーズのことを思い出しながらそんなことを思う。
「リルには関係のないことだ」
吐き捨てるように、僕はもう一度そのことを伝えた。
「……関係ないなんて、冷たいじゃないですか」
顔の横に差し出された手が、まるで何かを掴むようにぎゅっと握りこまれた。
「エルさんとジャスミンちゃんは私の大事なお客さんです。お友達です。そんなジャスミンちゃんに何かが起きて、エルさんが泣いている。私に関係ないなんてことはありません。少しぐらい、頼ってくれてもいいじゃないですか」
リルのことを、優しい少女だと僕は思った。それと同時にずるいと思った。
ここまで言われてしまえば、彼女の好意を無下になどできないではないか。
「……少し、頭を冷やさせてくれ。そしたら全部話す」
なんとか体を起こして僕はベッドに近づくと、まるで落ちるようにそこに腰かけた。
「それじゃあ、一時間したらまたここに来ますね。その間、朝ご飯を作ろうと思うんですが、何か食べたいものはありますか?」
「いや……特に……」
確かに空腹ではある。色々なことがありすぎて、昨晩の夕食が随分と昔のことのように思えてしまう。
ただ、だからといって彼女に「これが食べたい」と言えるほど僕は壮健ではなかった。
「分かりました。じゃあまた後程」
リルは部屋の扉に向かうと、扉の取っ手に手をかける。
「あ」
扉が半ば開いたところで、何かを思い出したように彼女が吐息を漏らした。
「この宿にあるものは自由に使っていただいて構いません。今だけはエルさんのための宿やリヴィエールですから」
にっこりと笑い、リルはそう言い残して部屋を出て行った。
§
メルテルン教会から少し離れた場所に、小さな町がある。活気があるかと聞かれれば、そんなことはない。ないかと聞かれれば別にそういうわけでもない。
そんな町の宿の中で――。
「先生、お遣いに行ってきます」
アスタという名の少年は、籠を片手に育ての親であるギルバートにそう伝えた。
「ああ、気をつけて行くんだぞ」
ギルバートはにっこりと微笑んで彼を見送った。
しかし、ゴシック調のフリフリとした黒い衣服に身を包むアスタを見送るギルバートの心中はそれほど穏やかなものではなかった。
「……さて、これからどうするかね」
少し顔を出した朝日の照らす街路を見下ろしながら、ギルバートは一人呟いた。
部屋の中では大勢の子どもたちが小さな寝息を立てて熟睡している。
不幸中の幸い、と言ってしまえばそれまでだろう。昨晩のメルテルン教会襲撃の際に、死人は出なかった。それどころか怪我人すらいない。子どもたち含め、ギルバートやアスタも怪我をしなかった。
ただ、エルやジャスミン、ジークハルトやマイクロフトがどうなったかまでは分からなかった。彼らのことを考えれば、無事生き延びているだろうとギルバートは信じたかった。
しかし今は、他人のことを考えている場合ではない。自分たちの身の振り方を考えなければならないのだ。
メルテルン教会は燃えた。全焼していないだけましではあるが、しばらくは住むことはできそうもない。
ギルバートはひとまず、教会の建物を建て直す方針で話を進めることにした。ゼラティーゼ王国の西に貴族の住まう都市がある。そこにギルバートの思想に賛同してくれる貴族がいた。
「とりあえず、彼のもとを訪ねるか」
頼ることができる人物は他にも何人か思い当たる節があった。ただ、資金的に見て、長らく世話になるとすると、彼のもとを訪ねるのが一番いいとギルバートは考えた。
「そうと決まれば出立の準備をせねばな。馬車は……このまま貸していただこう。また会う機会も訪れるだろう」
その言葉の直後、ギルバートはバタリとその場に倒れた。腹部に響く尋常ではない鈍い痛み。まるで内臓でも抜き取られたかのような――。
「あなたにはもうそんな機会はないわ。ギルバート・ダーク」
突如聞こえたその声に、ギルバートは聞き覚えがあった。
「……誰、だ」
聞き覚えはあったが、誰か分からない。聞いたことがあるはずなのに、どんな顔なのか、どんな名前なのかが思い出せなかった。
「久しぶり、ギルバート。私はファム。あなたを殺す、悪ーい魔女よ」
「……口封じか」
口から血を吐きながら、ギルバートはファムと名乗った女に尋ねる。
「ええ、まあそんなところよ」
「……貴様が、昨晩の」
「そう。私が命令した。ただ私の部下はちょっと失敗しちゃったみたいで、その尻拭い中よ」
溜息を交えながら話すファムの言葉は、どこか面倒くさそうな態度を含んでいるようにギルバートには聞こえた。
「……子どもたちには手を出すな」
「まさか」
ギルバートの言葉に、ファムはクスリと笑う。
「子どもたちは殺さないわ。小さな子どもたちは記憶の書き換えが簡単なの。わざわざ今殺す必要はないわ。殺すのはあなたと、もう一人の男の子だけ」
そこまで言うと、ファムは周囲を見渡した。
「あの男の子はいないのかしら。黒いフリフリの服を着た、女の子みたいな男の子」
ファムが言う人物は、つい先ほどお遣いに出かけたアスタのことだった。ファムの言葉から察するに、成長しているアスタでは記憶の書き換えとやらが困難なのだろう。
「……彼女は、死んだよ」
「……」
「昨晩のお前たちの襲撃のせいで、殺された」
「……そう。ならいいわ。あなたの息の根を止めるだけだから。抵抗はしないでね? 苦しめるのはあまり好きではないの」
「……一思いにやるといい」
言葉の後に部屋に残っていたのは寝息を立てる少年少女だけだった。ギルバートの姿はおろか、血痕の一つすら残っていない。
ファムはクスリと笑う。
「さあ、可愛い可愛い子どもたち。全部全部、忘れてしまいなさい」
そう言い残し、ふわりと溶けるようにその部屋から姿を消したのだった。