160.残された者たち~2~
遠のいていく絨毯を眺めながら、エラは下唇を噛んだ。
「……未来視逃れの加護、ね。あの子、随分と厄介な加護を身につけたわね」
エラは魔女だ。
無残に殺された友のために動く、人間から見たら悪い魔女。それが彼女だ。
目的を達成するために、三百年前にある少女を魔女にした。とてもいい器で、彼女は最期に国をも滅ぼしてくれた。
そしてエラはある組織を作った。それが〝アンネの灯火〟だ。信者を集め、各地で少女を集め、同じように魔女にした。何度も実験した。一番最初にエラが魔女にした少女、アンネ・ワルプルギスのような魔女を作り出すために。
ただ、どれも失敗ばかりだった。そのまま三百年の年月が経ち、ようやくジャスミン・カチェルアという最高の器を見つけたのだ。
エラは信者を使って彼女を回収しようとした。が、それも失敗に終わった。信者の失敗の尻拭いをしようとして、エラは昨晩の騒動――メルテルン教会の襲撃を目撃した二人の男を始末しようとした。
邪魔者は入らないはずだった。邪魔者は入らないと分かっていた。『未来視の加護』。それがエラについている加護魔術の一つだ。
加護魔術は他の魔術と比べて特異なもので、恒久的に効果を発する場合がある。ただそれには条件が一つあった。その条件が曖昧なものではあるが、『百年近く生きている』ことだった。それは百年ごとに一つ加護がつくシステムで、どうやらこれは『魔女』という概念ができたとき、つまり『原初の魔女ユースティア』が生きていた頃に生まれたモノらしかった。
つまり、千年近く生きているエラには全部で十の加護がある。そのうちの一つである未来視の加護で、邪魔者が来ないのは分かっていたはず、だったのに。
「ツルカ・フォン・ネーヴェ、ね。厄介なことこの上ないわ」
ツルカの身についた加護は『未来視逃れの加護』。文字通り、未来視から逃れる加護で、エラの『未来視の加護』を無効化するもの。
だからエラは、ツルカがやって来ることを予測できなかったのだ。
「……どうしようかしら。ジャスミンの回収。ツルカの行動は予測ができない。なら、あっちについた方がいいかしらね。その前に、ギルバートも殺しておかないと」
うふふ、と不気味に笑うエラは、その場でまるで空気に融けるように、姿を消した。
§
気がついたとき、目の前にいた白髪の男の子は姿を消していた。
たった数分だけ、気を許してしまった。それが間違いだったのだ。
手の中に握られるのは、魔術で小さくしたと思われる、半ばで折れた小さな小さな白い杖。
「……一本取られたわね」
テレーズ・ゼラティーゼは目の前の虚空を見つめ、自分を嘲笑った。
しかし目的は半分は達成した。
テレーズは見慣れない小さな手を握ったり開いたりしてみて、その感触を確かめた。ついでに壁掛けの鏡に目を向けてその姿を確認した。
艶やかな茶色い髪、張りのあるもっちりとした肌、あどけなさの残る幼顔。不満があるとすれば、なぜか黄色に変色した瞳と、それから虚しい胸元ぐらいだろうか。
「まあ、可愛らしい顔立ちではあるわよね」
自分の目に狂いはなかったと思いつつ、テレーズは自分の新しい体に見惚れていた。やはり壊れかけの熟れた肉体よりも、綻びのない新鮮な体の方がいいと改めて思う。
今までのテレーズの肉体は文字通り死んでいた。心臓は動いていないし、血管は血など流れていない。冷め切った体を動かしていたのはたった一つの野心だけだった。
つまり肉体は、人間をやめたテレーズからしてみればただの入れ物でしかないのだ。魂が零れ落ちないようにするための器。
「エル、どうやって捕まえましょう」
さて、達成されなかった目的をどうするか。まずはエル・ヴァイヤーを確保しなければならない。彼無しでは目的の達成など不可能だからだ。
「多少手荒なことをしても、許してくれるわよね。だって私たちだけの理想郷を創るためなんだもの」
テレーズの心にあるのは野心だけだ。テレーズは人間が嫌いだ。幼い頃、自分を虐げてきた人間が、裏切ってきた人間が、どうしようもなく憎く嫌いだった。
滅ぼしてやろうと、いつしかテレーズの思考は移っていた。
ただそれでも、生きてきた中で善い人間というのも少なからずいた。エルの父親であるレヴォルだ。
彼の優しさに、テレーズは惹かれた。その気持ちはレヴォルがコレットを選んだ今でも変わらない。彼は本当に優しいのだ。二十年前に、テレーズがコレットから視力を奪ったあの状況で、コレットのこれからの人生を奪ったあの状況で、レヴォルはそんな彼女を決して見捨てなかった。
正直、コレットが羨ましかった。その場所がもし自分ならとずっと思っていた。けれどあの行為はレヴォルの優しさ故なのだと、そう思ったのだ。
自分が一番レヴォルの優しさを理解しているのだと。ならばその優しさは、レヴォルの子であるエルにもあるはずなのだ。レヴォルを奪うことはできない。彼は頑固だ。一度そうと決めたら何が何でも自分を曲げない。それをテレーズは知っていた。
――ならば。
ならばその子であるエルを奪ってしまえばいいのだ。
彼に会えたのは本当に偶然だ。アセナを殺されて、悲しみに打ちひしがれるテレーズにとって、目に映ったレヴォルそっくりのその姿は一筋の光に見えた。
どうやって奪おうかと考えたとき、横にいたのが茶髪の少女だった。そのとき、テレーズの方針は決まった。どちらも奪ってしまえばいい、と。
そのうえで、エルと愛し合い、濃厚な時間を経て種を残していけばいい。そして人類を滅ぼし、たった二人だけの世界を創ればいいのだ。
エルも意中の相手と体を重ねられるのであれば本望だろう。自分がジャスミンの体を奪い、エルと愛し合う。誰にもデメリットなどないはずだ。ないはずなのに――。
「エル・ヴァイヤーをここに連れてきなさい。連れてきたものには恩賞を与えるわ。欲しい物なら何でも与える。なんとしても連れてきなさい」
独り言のように聞こえたその一言は、ただの独り言などではなかった。
テーブルの上に置かれた一枚の紙には、彼女が呟いたその独り言がそっくりそのまま印字されている。
「あとは……顔ね。顔が分からないと誰もエルを見つけ出せないものね」
紙に手をかざし、小さな声で呪文を呟く。
すると一人の少年の顔が紙に刻まれる。
「あとはこれをばら撒けばいいわよね。さすがに国外に逃げていることはないでしょう」
テレーズは紙を持って扉の方に近づいた。取っ手を握って扉を開ける。
「さあ、鬼ごっこを始めましょうか」
そう呟いて、テレーズは頬を不気味に吊り上げた。




