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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第11章~アンネの灯火~
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158.魔女は嗤う~4~

 テレーズ・ゼラティーゼ。確かに目の前の女はそう口にした。


 何一つ理解できない彼女の言葉の中で、唯一理解できる言葉はたったのそれだけだった。


「テレーズ……ゼラティーゼ?」


 呆然とする僕の代わりに聞き返したのはジャスミンだった。


「無理して喋らないで。入れ物が壊れちゃう」


「うっ……かはっ……!」


 テレーズの言葉の後、ジャスミンはまた大量の血を吐き出した。糸のように口から垂れていた血は徐々にその量を増している。テレーズの腕が貫く腹部も、血が滲んで彼女の衣服を赤く染めはじめている。


「何が目的だ……」


 アイラ――もといテレーズは嘘を吐いた。嘘を吐いて僕とジャスミンに近づいた。いつからだ。いつから僕たちに近づいて来ていた。


 あのとき、南の大森林で遭遇したのは偶然だったはずだ。あの時点ではお互いのことを知っているはずがないのだ。


「目的、ね。あなたなら分かるでしょう、ジャスミン・カチェルア。自分に何が起きているのか、魔術の才があるあなたなら」


「テレーズ……あなた……!!」


「無理して喋らないでって言っているでしょう。(わたくし)の入る大事な入れ物なのよ。壊さないでよ」


「入れ物……?」


 僕は魔術に関しては無知だ。精霊だとか魔法陣だとか、そういうのは分からない。ただそれでも、テレーズの言葉が指すものが何なのかは何となく理解できた。


 テレーズはジャスミンのことを「入れ物」と言っている。入れ物は文字通り物を入れる容器だ。そして彼女はこうも言った。「(わたくし)の入る」と。


「その腕を……今すぐ引き抜け! テレーズ・ゼラティーゼ!!」


「嫌よ」


 僕の叫びに帰ってきたのは冷たく短いそれだけの拒絶の言葉だった。


「ジャスミンの中には既に半分以上(わたくし)が入っているのよ。今引き抜けば(わたくし)と彼女が混ざってぐちゃぐちゃになるわよ」


「……お前!!」


「そんなに怒らないで。ジャスミンの身体はあなたのものでもあるのだから」


「それは……」


 どういう意味だ、と尋ねようとしたそのとき、テレーズの体がその場に崩れ落ちた。膝をつくように崩れ落ちたのではない。文字通り()()()()()のだ。


 まるで岩が砕けるように。テレーズの体は跡形もなくその場で砂のような、灰のようなものに変わった。


「エル君の疑問の答えはこういうことよ」


 目を丸くする僕の耳に、ジャスミンの言葉が届く。何が起きているのか理解はできなかった。しかしそれでも、ジャスミンの声が聞こえ、目の前でテレーズの体が消滅したことが分かれば十分だった。


「ジャスミン! 無事……」


 次の瞬間に僕のその言葉を塞いだのは、驚くほど柔らかな唇の感触だった。


 呆気にとられた僕はそのままソファに押し倒される。頭の中は真っ白で、ねじ込まれる舌の感触だけが感じ取れた。


「……っ!!」


 ぴったりと吸い付くように僕を抱きしめ、ねっとりと唇を合わせてくるジャスミンを僕は腕に力を入れて突き放すように引き剥がした。


「ジャスミン、急にどうしたんだ」


 口元を押さえながら尋ねる。唇と唇は合わさっていないはずなのに、なぜかその感触だけは居座り続けている。初めてだったせいもあってか、余計にその感触は消えてなどくれなかった。


「あら、あなたは(わたくし)がまだジャスミンだと思っているのね?」


「……は?」


(わたくし)はテレーズよ。テレーズ・ゼラティーゼ。あなたの大切な女の子は、もう消えちゃった」


 そう言ってジャスミンは不敵に笑った。


「……冗談はよしてくれ」


「冗談じゃないわよ。ジャスミン・カチェルアは消滅した。ここにあるのはジャスミン・カチェルアの形をした入れ物で、その中に入っているのはテレーズ・ゼラティーゼの魂よ。証拠と言ってはアレだけど、(わたくし)の身体が崩れたでしょう? あれは(わたくし)の身体がもうとっくに死んでいたから。魂という楔が無くなって、ついに崩れてしまったのね」


「……嘘だ」


「嘘じゃないわ。何度言ったら分かるの」


「嘘だッ!!」


 嘘だ、と。そう叫ぶしか僕には出来なかった。目の前でジャスミンが――いや、テレーズが言っていることが嘘のようには聞こえなかった。ジャスミンであればこんな冗談は言うにしても、僕の反応を楽しんだらネタ晴らしするはずだ。だから彼女は、目の前にいるこの女の子は、ジャスミン・カチェルアではないのだ。


「あなたも分かっているでしょう? 嘘だと叫んでも彼女は帰ってこないわよ」


「……!」


 僕は崩れるように床に膝をついた。


 絶望という言葉を当てはめるのであれば、きっとこの気持ちのことを言うのだろう。


「返してくれ……」


 そう、きっと僕は絶望しているのだ。えもいわれぬ喪失感に、虚脱感に、欠落感に。まるで心に穴でも開いたかのようで、ずっと感じていた心地よい重みがどこかへ消えてしまっている。


「彼女を返すのは無理。でもその分、(わたくし)がエル君を愛してあげる。あの人の種を……ずっとずっと残していきましょう? (わたくし)とエル君だけで、ね?」


 膝をつく僕の頬に、彼女の冷たい手が触れる。なんの温もりも感じない手が、逆に僕から温もりを奪っているようで――。


「私はまだ……消えてない……!」


 頬に触れる手が、若干温かくなった気がした。その感覚に僕は俯かせていた顔を持ち上げる。


 そこにあるのは幼げな表情の、いつも隣にいた翡翠色の瞳の少女だった。


「エル、私よ、分かる!? ジャスミンよ!!」


「ジャス……ミン……?」


 その名前を口に出したとき、僕は目の前で今喋っているのがテレーズではないと確信した。太陽を込めたような翡翠色の瞳、跳ねるように揺れる茶髪、子供らしさの残るむっつり顔。間違いなく目の前にいるのは普段のジャスミンだ。


「なんで……」


 尋ねると、ジャスミンは自分の鞄に手を突っ込んだ。そして小さくて白くて細いものを取り出す。


「お父さんにもらった杖が楔の代わりになって、ギリギリのところで踏みとどまれたみたい。折れちゃったけど、これのおかげで完全に消えずに済んだんだと思う」


「……じゃあ!」


「でも時間はあんまりないから、エルだけでも逃げてほしいの。この女の目的は私の身体とエルよ。だからあなただけでも逃げて」


「そんなこと……」


 できるはずがない。できようはずもないのだ。ずっと一緒にいて、旅をして、今更ここに置いていけ、と。そんな言葉を素直に飲み込めるほど僕は大人ではなかった。


「できない」


「……エルなら、できないって言うと思った。でもそれでも、エルには逃げてほしい。いつもみたいに私の我儘を許してほしい。そう、これは私のただの我儘なの。だから、ね?」


「……できない」


 一体自分は今どんな顔をしているだろうか。きっとぐしゃぐしゃに泣いているのだろう。ぼやける視界ではジャスミンがどんな顔をしているのかも分からない。


「往生際が悪いわね……」


 時間ないって言っているのに、とぶつくさ文句を垂れるジャスミンの声が聞こえる。


「じゃあ、こうしましょ?」


 涙で目を腫らす僕にジャスミンは顔をゆっくりと近づけ、優しく口づけをした。


 先ほどとは対照的なまでの子どものようなキス。本当に唇と唇を合わせるだけのものだ。感触はさっきと変わらないはずなのに、何もかもが違っている。


 一瞬のキスを済ませ、ジャスミンは顔を離すと、少し赤らんだ顔を真っ直ぐこちらに向けた。


テレーズの(さっきの)を無かったことに……っていうのはできないかもしれないけど、私の唇を預けるから、その、ね?」


 ジャスミンは腕を僕の首元に回し、息が止まるほどギュッと抱きしめ、僕の耳元でこう囁いた。


「預けるから、ちゃんと返しに来なさい。待ってるから」


 ジャスミンはそれだけ言うと腕を緩めた。肩から掛けている自分の鞄をとって、僕の方に差し出す。


「その中に縁を手繰(たぐ)る木札が入ってるわ。それを折れば、エルに縁のある場所に飛ばされる。これを使って逃げて」


「……いいんだな」


 僕は鞄を受け取るとジャスミンに確認をした。


「今更何言っているのよ」


「……絶対に助けに来る」


「ええ」


 微笑むジャスミンの顔を瞳に映しながら、僕はジャスミンの鞄の中から木札を一本取りだした。それを右手に握りこんで――。


 パキリ、と。木札が折れる音と一緒に僕の視界を一瞬にして闇が包み込んだ。



§



――待っているわ。私の王子様。


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