157.魔女は嗤う~3~
「エル君、大丈夫?」
女性のその声で僕は目を覚ました。
瞼を持ち上げ景色を瞳に映す。どうやらソファのようなものに体を横たえているようで、見えた景色はまるで外にいるのではと錯覚するほどの綺麗な青白い天井だった。
首を横に動かすと、ジャスミンが心配そうな顔をしてこちらを見ている。
「よかった……目、覚ました……」
胸を撫で下ろすようにジャスミンが言う。
「何が……?」
「あの女の人が転移魔術を使ったときに気絶しちゃったのよ」
「ああ……」
そういえばそんな感じだった気がする。
「えっと、ここは?」
僕は体を起こしてソファに座り直すとジャスミンに尋ねた。
「あの人の家、らしいけど……」
ジャスミンはちらりと後ろを振り向いて答える。そちらに視線を向けると、天蓋ベッドが一つ置いてあり、そこに女性が腰かけていた。
「……名前も分からない相手を警戒するのはごく自然なことだけど、そこまであからさまにされると傷ついちゃうわ」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
慌てるようにジャスミンが否定する。その様子を見て女性はクスリと笑った。
「でも、警戒しているのは本当でしょう? だから、そろそろ自己紹介をしようかしらね」
女性は一つ咳払いをすると、ベッドから立ち上がり、こちらにゆっくりと歩み寄ってきた。
「私はアイラ。魔女としての二つ名は『林の魔女』よ。隣の帝国からつい最近こっちの国に来たの。ほら、どこの国でもやっているでしょう? 『魔女狩り』を。だから逃げてきたの。でも、この国のこともよく分からないし、知っている人もいないから……それであの森の中をふらふらしていたのよね。そこであなたたちに出会ったの。だからこれは、きっと神様が結んでくれた縁なの。だから、ね? 仲良くしていただけるかしら?」
僕の座るソファの対面にあるもう一つのソファにゆっくりと腰かけながら女性はそう締めくくった。依然として目を瞑ったままのその顔を小さく微笑ませ、右手を差し出した。
握手を求めているであろうその手を一瞥してから、今度はジャスミンが口を開いた。
「えっと、ジャスミン・カチェルアです。魔術師……です」
「魔術師……ってことはネーヴェから来たのね。ジャスミン……とってもいい名前だわ。お母さんが付けてくれたのかしら?」
「いえ、父が付けてくれました……」
そうなのね、とアイラと名乗った女性は軽い相槌を打った。
「それで、そちらの男の子は自己紹介はしてくれないのかしら?」
そういいながらアイラは僕の方に顔を向ける。
「エル……エル・ヴァイヤーです」
「エル君っていうのね。私のお願い、聞いてもらえて嬉しいわ。少しだけ私の話し相手になってもらうわね。なにか私に聞きたいことはないかしら?」
聞きたいこと、と言われてもこの女性とまともにしゃべったのはこれが初めてだ。相手のことはもちろん分からないことだらけだが、逆に分からないことだらけで何も質問が思い浮かばない。
「アイラさんは……」
僕が何を聞こうかと考えていると、ジャスミンがおずおずとした態度で口を開いた。
「どうして私たちを助けてくれたんですか?」
「そうね……偶然といえば偶然だけど、私、あなたたちを探していたの。お話してみたくて。あなたも魔術を扱う人間なら分かると思うけど、縁って糸みたいなもので、それを手繰り寄せていたのよ。そうしたら襲われていたみたいだから助けた。それだけよ」
他に聞きたいことはない? と、にこにこしながら付け加える女性に、ジャスミンは首を横に振ると隣に座る僕の袖を軽く引っ張った。
ジャスミンの方を向くと顔の横に手が伸びてきて、僕の耳を乱雑に引っ張る。
「なんだよ」
「あの人、嘘吐いてる」
小さく耳打ちするように僕の耳元でジャスミンが囁いた。
「なんでだ?」
「なんでかは……分かんない。視ようと思っても霧がかかったみたいになってて視えないの。でも、嘘を吐いてるのは本当よ」
「……」
ジャスミンの言葉は事実だ。嘘を見破る魔術があるのは僕も知っている。それの信憑性が高いことも分かっている。だからこそ、彼女の言葉は信用に足るものだと判断できた。
ではなぜ、目の前で微笑んでいるアイラは嘘を吐いているのか。
僕とジャスミンの間には緊張した空気が流れている。目の前で微笑む女性は誰なのか。何が目的なのか、なぜ嘘を吐いているのか。その様はまるで暗闇の中で手探りで彼女の正体を掴もうとしているようだった。
「なぁに? ナイショのお話?」
嘘だと分かってからの女性のその一言が、まるで冷えたナイフのように感じた。
「あなたたち、とっても仲がよさそうね。恋人同士?」
「いえ……」
「あら、違うのね。とってもお似合いなのに」
いつもであればこんな発言にジャスミンは顔を赤らめる。そして否定する。しかし今ばかりはそれどころではないようだった。じっと女性の顔を見つめている。
「ジャスミン……あなた、エル君のことが好きなのよね?」
「なっ……!?」
突然のアイラのその言葉に、僕とジャスミンは開いた口が塞がらなかった。つい先ほどまで張り詰めていた空気が嘘のようにどこかへ飛んで行ってしまっている。
さすがにこの発言にはジャスミンも緊張をほぐさざるを得なかったようで、その顔をこれでもかと言わんばかりに紅潮させていた。
僕だってこれには緊張よりも恥ずかしさの方が勝る。
「分かるわ。エル君、いい子だもの。それにお顔も綺麗……そんな彼の隣にいられるあなたがとっても羨ましいわ。でも、別に恋仲というわけではないのね」
「私とエルは、一緒に旅をしているってだけで、ただ目的が同じなだけで……」
声を萎ませながら否定する。自分の心中がアイラにバレたこと、そして僕がそれを知ってしまったことがひどく恥ずかしかったのだろう。「たまたま一緒に行動してるだけで、エルの目的に私が必要なだけで……」と取り繕うように理由を探しては並べている。
「じゃあその場所、私に譲って?」
「え?」
ジャスミンがアイラの言葉に顔をあげたとき、僕の目の前では既に取り返しのつかないことが起きていた。
「ジャス……ミン?」
「あ、れ……?」
そう呟くジャスミンの口元から赤い糸が垂れる。その直後、咽かえったかのように真っ赤な血を吐き出した。彼女の腹部には深々と腕が突き刺さっている。
その腕が誰のものなのか、言うまでもなかった。
「あんた、何して……」
「あら、さっきも言ったでしょ? 場所を譲ってほしいって」
アイラはジャスミンの腹部に腕を突き立てたまま、冷たくそう言い放った。
僕の脳は、目の前で何が起きているのか、正常に処理できなかった。ただ目に映る事実をまとめるので精一杯だった。
アイラの右腕がなぜか腕二本分ぐらいに伸びていて、反対のソファに座ったままその腕をジャスミンの腹部に突き立てている。それしか分からなかった。
「嘘を吐いてごめんなさい。とは言っても気づいていたようだけれど」
アイラは僕に顔を向けるとクスリと笑う。
「……あんたはなんだ」
「あら、隣で女の子が苦しんでいるのに問答するつもり? こういうとき、レヴォルなら真っ先に苦しんでいる女の子を助けるわよ」
「……!?」
なぜ、なぜこの女が父の名前を知っている。
「なんで知っているのか、って顔をしているわね。特別に教えてあげる。だってあなたはこれから私と添い遂げる相手なんだもの。ちゃんと自分の名前を名乗らなきゃ、名前も呼んでくれないものね」
「何を言って……」
「私はテレーズ・ゼラティーゼ。この国の女王で『森の魔女』よ」