155.魔女は嗤う~1~
夜も深まり、辺りを包むのは深夜独特の静けさと、やせ細った月が照らす弱々しい月明かりだけだった。
そして現在、僕は非常に困った状況に陥っている。
ひと言でいうと拘束されている。白い両腕ががっちりと僕の腹部に巻き付いて、放そうとしない。
頭のすぐ後ろでは気持ちよさげな寝息だけが聞こえてくる。時計の針は二時過ぎを刺していた。
つい、一時間前のことだ。いや、僕が最後に時計を見たときは一時だったから、一時間前のはずだ。まあ、それはそれとして、僕は一時間前に眠りについた。
いつもの図々しくベッドを寄越せと言うジャスミンの姿はなく、あっさりと「使っていいよ」というジャスミンの言葉に甘えて、僕はベッドで体を横にした。疲れていたからか知らないが、僕はすぐに眠りについた。
そして、感じたことのない寝苦しさに目を覚ましてみればこの状況だ。
「ジャスミン……」
僕の体に腕を回して眠りこけている茶髪の少女の名前を呼ぶ。
返事はない。小さな寝息を立てているだけだ。
はてさて、なぜこうなったのか。
僕が眠っている間にジャスミンをベッドに連れ込んだ? これは違う。もし僕がそんなことをしているのであれば、今頃僕の頬には真っ赤なモミジが浮かんでいるはずだ。
となると逆である。ジャスミンが僕のベッドに入り込んだのだ。彼女の僕に対する感情を鑑みれば、まあ、頷けなくもない。
それにしてもこんな風に抱きつかれると、僕としてもどうしようもない気持ちになる。僕だって男だ。若い女の子にこんな風に抱きつかれては心臓が脈を速めないわけがない。
「ジャスミン、頼むから起きてくれ。それでいったん離れてくれ。頼むから……」
僕の腹に回っている手を軽く叩きながら、ジャスミンを起こそうとする。
「んん……」
しかし僕の思いとは裏腹に、彼女の回す腕の力が少しだけ強まった。より密着した状態に、僕は背中に伝わる温もりを感じてか、全身を火照らせていた。
なんとかして彼女を引き剥がさねばならない。でなければ男として道を違えてしまう気がしてならない。
こうなってしまっては強行突破である。
僕は横にしている体を無理矢理起こそうとする。
するとどうだ。体に回された腕が力なさげにするりと抜け落ちるではないか。
僕の動きに目を覚ましたのか、
「エル……?」
と目を擦りながらジャスミンは横になりながらこちらを見上げている。僕は彼女の寝ぼけた顔を一瞥して顔を逸らした。
「……そういうことをするのは、今後はよしてくれ。心臓に悪い」
「へ?」
もう一度ちらりとジャスミンの方に視線を向ける。
そこには何がなんやらといった表情のジャスミンの寝ぼけた表情があった。
そして直後。
「あっ、えっと……」
全てを思い出したのか、ジャスミンが顔を紅潮させた。
「えっと、これはその、違くって……ちょっと一緒に寝たいなって思っただけで、別にそれ以外は特に何も考えてなかったっていうか気がついたら寝てたっていうか別にやましいことは何もないといいますか」
ものすごい早口で弁明するジャスミンは、自分でも気づいていないのか全部の感情を漏らしていた。聞いているこちらが恥ずかしくなる。
「……いや、だった?」
不安げに視線を送ってくる。
「嫌というか……」
嫌かと聞かれれば、まあ、まんざらでもない。こうして好意を向けられるのは嫌ではないし、僕自身が彼女に惹かれている手前、盛大に突き放すなんてこともできない。
「……ごめん。ちょっと外を散歩してくる」
このなんとも言えない空気に耐えられなくなった僕は、自身の火照った体を何とかしようと外に出ることにした。いったん頭を冷やしてこなければ、朝までこのことで頭を悩ませかねない。
「わっ、私も行く……!」
てててっ、と小走りで部屋を出た僕の後ろをついてくる。
「いや、でも外は寒いし……」
こうなっては本末転倒である。今は少しでも彼女から距離を置いて頭をスッキリさせたい。彼女が一緒となると冷めるものも冷めない。しかしだからといって、今の僕に「部屋で待ってろ」なんて冷たいナイフを突き立てるような自信はなかった。
「まあ……好きにしろ」
僕は言い放って顔を逸らした。
返事の代わりに届いたのは僕の少し後ろを歩く小さな足音だけだった。夜中だからとか思ってゆっくり歩いているのがよく分かる。
教会の外に出ると、穏やかな風が草木を揺らして音を奏でていた。中にはフクロウの鳴き声も混じり、室内で感じていた静けさが嘘のようだ。
「なんで、急にあんなことを?」
少しだけ冷えた頭の中に思い浮かんだ疑問を一つ、ざわめく草木の中にぽつりと吐き出した。
いくらジャスミンが僕に好意を抱いているからといっても、急である。彼女の中にどんな心境の変化があったのか、少し気になったのだ。
「……怖くなったの」
「怖くなった?」
「うん」
ジャスミンが小さく頷く。
「それは……〝アンネの灯火〟のもとに向かうのが?」
ジャスミンはまだ十四歳だ。ひとことで言ってしまえばまだ子どもで、少なくとも僕が彼女と同じぐらいの年の頃にはこんな風に危険なことに首を突っ込むなどあり得ない話だ。
恐怖心が行動力に勝るのが普通だ。
「違うの」
ジャスミンは首を横に振る。その回答は僕には少し意外なものだった。
「私が感じてる恐怖は多分それじゃないの。〝アンネの灯火〟がすごく危ない組織なのは理解してる。けど、私が本当に怖いのはそれが理由でエルと離れ離れになるんじゃないか、ってことで……」
「離れ離れに?」
「……もし、エルに何かあったらどうしよう、って思って。大けがしちゃったりとか、最悪死んじゃったりとか。それが怖くって、少しでも一緒にいたいなって……」
それはきっと、僕が心の片隅に抱いていた感情だ。これから歩む道はいばらの道だ。とても危険な道なのだ。怪我をするかもしれない、最悪死ぬかもしれない。もしそれが彼女に降り注いだとしたら――。
「それは確かに……怖いな」
この旅を始めてから、ジャスミンが隣にいるのが当たり前になっていた。その当たり前が崩れ去ることを想像して、僕はきっと彼女と同じ感情を抱いたのだろう。
「じゃあ……」
今、彼女はどうしたいのだろう、と考える。
「僕はいつも通り布団で寝るから……」
次いで、僕はどうして欲しいのだろう、と考える。
「お前は……好きなようにしたらいい」
ただ、それを口に出すのは恥ずかしくて、こうして彼女に委ねるしかなかった。
「……うん」
僕の意志を汲みとってくれただろうか。俯く彼女の表情は確認できない。ただ、彼女の手が僕の袖を掴み、逃がしたくないと言わんばかりに強く握っていることだけはわずかながら感じ取ることができた。
「……冷えるから、そろそろ戻ろう。風邪を引きかねない」
「そう、ね」
頷くジャスミンを引っ張るように、僕は教会に戻ろうとした。
そのときだった。
「!?……なんだ!?」
突然響き渡った爆発音。
目の前で踊るのは立ち上る炎。
「かっ、火事!?」
ジャスミンが叫ぶ。
僕たちの目の前で何が起きているのかは明白だった。メルテルン教会が、燃えているのだ。
「……っ!! とりあえず火を!!」
「分かってるわよ!」
僕が叫ぶとジャスミンは両手を燃え盛る教会に向けてかざした。
「水魔術!!」
呪文を唱えるジャスミンの両手から、水が勢いよく飛び出す。どうやら炎の勢いよりもジャスミンの消火活動が勝っているらしく、闇夜に踊り狂う炎は徐々になりを潜めていった。
「僕は中を見てくる。また火が出るかもしれないから、ジャスミンはここで待っていてくれ」
「あっ、危ないわよッ!!」
ジャスミンが叫んで警告する。
「すぐ戻るから」
僕はそれだけ吐き捨てて、炎の勢いが少し弱まった教会の中に足を延ばした。