154.確認と表示
日が沈み、夜になった。
昼食をとった場所で同じように夕飯を食べると、ギルバートは「湯船に浸かって疲れを流すといい」と先にお風呂に入ることを提案してくれた。
僕たちはそんなギルバートの好意に甘えて、一人ずつ温かなお湯で今日の疲れと汗を流した。
そして今。
僕とジャスミンは隣の部屋、つまりはジークハルトとマイクロフトの部屋にいる。マイクロフトが「今後について話そう」と言ったのが彼らの部屋を訪れた理由だった。
「さて、これからどうするか。大まかな方針を決めておこうじゃないか」
僕やジャスミンに対面して座っているマイクロフトがそう切り出す。
「とりあえず、〝アンネの灯火〟の居場所は正確なものではないが見当はついている。そこで、だ」
マイクロフトは一つ咳払いをすると、僕とジャスミンの顔を交互に見てこう言った。
「目的を一つに設定する。まずはこのまま〝アンネの灯火〟を追うか否か。そして、仮に〝アンネの灯火〟と対面した場合の対処法だ」
「なぜ、そんなことを聞くんです?」
ジャスミンが不思議そうな顔をしてマイクロフトに尋ねる。彼女からしてみれば、何を今更といった感じだろう。
しかし、いつだって大人には子どもに見えない『大人の事情』というものがある。
「いや、まあね、私たちがこれから向かうのは言わば犯罪者集団のアジトだ。そんなところに……言っては悪いが君たちのような年端のいかない子どもたちを連れて行くのは大人として正しい選択ではない。
君たちが〝ウィケヴントの毒事件〟を追って旅をしているのは知っている。この旅に出ているということはそれなりの覚悟があると私は考えているが、それでも、だ。本当にこの危険な事件に首を突っ込む覚悟があるのか、改めて確認したいんだ」
そんな説明をジャスミンの問いへの答えにして、マイクロフトはじっと彼女の双眸を見つめた。
「君は、君たちはどうする?」
さて、どうしたものかと考える。
確かに危険なことだ。下手をすれば命を落とす可能性だってある。相手は子どもを誘拐して、さらには大量殺戮を目標としている超がつくほどの危険な集団だ。そんなやつらのいる場所になんて、正直に言うと行きたいとは思えな――。
「行きます」
僕の思考を遮るようにジャスミンが自分の答えを口にする。
「今更、引き下がるつもりはないです。もともとの目的が別の事件と繋がっていて、犯人が犯罪組織だって分かっただけなんです。やることは変わりません」
その二つの翡翠に、マイクロフトが何を見たのかは分からない。ただ、彼は「そうか」と一言呟いて小さく頷いた。そして今度は僕の方に視線を向けると、
「それで、エル君はどうだね? この事件に首を突っ込むか?」
そう問いを投げかけた。
「僕は――」
ちらりとジャスミンの方を見やる。
僕の目には、こちらを向いてじっと僕の答えを待っているジャスミンの顔があった。少しだけ唇を噛みしめて、何か伝えたいかのような緑色の瞳でこちらを見つめている。
ジャスミン・カチェルアのことを多少は理解しているつもりだ。彼女の図々しい性格も、人見知りが激しいところも、若干寂しがり屋なところも、僕に好意を抱いていることも。
僕の「自分はこうあるべきだ」という答えをそのまま口にしてしまえば、彼女はきっと肩を落とすだろう。そしてきっと「ありがとう、またね」と寂し気な口調で別れを告げるのだろう。
そんな彼女の表情を想像したとき、僕は答えを言うべくその口を開いていた。
「僕も行きます。ジャスミンを行かせるのは少々不安が残るというか、まあ、お目付け役みたいな」
これは、真っ赤な嘘だ。
どうにも僕は正直にものが言えないようで、こうして適当な理由をつけてこの答えを選んだ。
「そうか、分かった」
そう言ってマイクロフトは小さく頷いた。
これはきっと、僕の「犯人の顔を拝みたい」という好奇心ではなく、ただ単に、「彼女のことが心配だから」という理由でついていくと決めたのだろう。
なんとも滑稽な話だ。もともと乗り気ではなかった犯人探しで、ジャスミンが突っ走らないよう後ろから手を引いてやろうと思っていたのに、気がつけば僕が前を走るジャスミンに手を引かれてしまっている。
「子どものやりたいことを応援するのが大人の役目だと私は思っている。まあ、道徳に反しない限りだがね。君たちが私たちについてくるというのなら止めない。ただ、命の保証はできない。それでもいいね?」
マイクロフトの最期の確認に僕とジャスミンは無言で頷いた。
「決まりだ。それじゃあとりあえず君たちも〝アンネの灯火〟のアジトと思われる地下に行くということで話を進めよう。その前に、もう一つ確認だ」
まだ何かあるのだろうかと思い、身構える。横のジャスミンも固唾を飲んでマイクロフトの次の言葉を待っている。
「僕たちの目的は二つの事件の究明だ。ここで〝アンネの灯火〟をどうするかが問題になってくる」
「というと?」
僕が聞き返すと、マイクロフトの代わりにジークハルトが口を開いた。
「ここは僕たちにとっては外国で、僕たちは一言で言ってしまえば旅行者のようなものだ。そんな旅行者が外国で犯罪組織を見つけたとして、何ができるのか、ということだ」
「ああ、なるほど……」
つまり、僕たちが〝アンネの灯火〟を仮に見つけたとして、彼らを見逃すか見逃さないか、という二択が生まれる。事件の究明だけであれば前者を選んでも問題はない。必要な事柄だけ漁ってネーヴェ王国に持ち帰ればいい。
「見逃すか、見逃さないか、ってことですね」
「そうだ」
「見逃さない場合はどうなるんですか?」
今度はジャスミンがジークハルトに問いを投げかける。
「その場合はこの国の然るべき機関に情報を伝えて対処してもらうしかない。他人がこの国の司法制度に口出ししていいものでもないからな。見逃す場合は必要な事実だけ持って帰るだけだ。事件の解決までは行かないが、究明はできる」
「私としては事件の究明ではなく解決まで行きたいところだがね」
ジークハルトの説明にマイクロフトはそう付け加えた。
「安全なのはもちろん見逃す方だ。見逃さない方となるとそれ相応の機関を動かす確固たる証拠が必要だ。それを確保するのも容易じゃない。見逃すのであれば、その証拠は多少の不十分があっても真実に近い何かを知ることができれば十分だ」
「で、その選択も僕たちに委ねる、と」
「そういう事だ」
マイクロフトが頷く。
実にずるい大人である。こういった決断を全て子どもに押し付けるというのはどういう神経なのか。
「なぜ僕たちばかりに決断を迫るんですか?」
「エル君は狼の習性を知っているかね?」
突然の無関係な話題に僕は首を傾げた。
「いえ……」
「狼は群れで隊列を組むときに、年寄りの狼を先頭、次に体の弱い狼、その次に強い狼や他の狼、最後にリーダーの狼の順で隊列を組む。これはリーダーの狼が歩速の遅い狼に合わせて進行するからだ。それと同じだよ。君たちはまだ子どもで、私たち大人は君たちを守る義務がある。私たちが君たちに歩幅を合わせねばならないんだ。だから全ての決断を君たちに委ねているんだよ」
「……」
マイクロフト・ワーカーは僕の憧れの人物だ。聡明で表現力の豊かな推理小説家。どのような人物だろう、会ってみたい、と長年思っていた。少し前までは面倒な大人の印象だったが、こうも真っ当なことを言われるとなるほど確かに人気の出る小説家の言うことは違うなあ、と思ってしまう。
「私は」
じっと話を聞いていたジャスミンが突然口を開く。
「私は、見逃したくはないです。やっぱり、許せないっていうか……」
彼女のこの回答は予想できた。つい先ほど、引き下がるつもりはないといったジャスミンが、ここで見逃すという選択を選ぶわけがないのだ。
「僕は……正直に言うと見逃してしまってもいいと思っています。〝アンネの灯火〟はこの国を中心に活動しているのであれば、僕らが表立って干渉する必要はない。ただ、それでも僕たちも被害を被った側の人間です。『見逃したくはない』という意見にも賛成はできます」
「つまり、エル君はジャスミンと同じ意見という解釈で構わないかい?」
「ええ、まあ」
僕からしてみれば、誘拐事件の犯人としてではなくウィケヴントの毒事件の犯人として〝アンネの灯火〟を見ている。一人の薬師としてあの事件は真相を知るだけでは我慢できなかった。
確かに死人は出ていない。これだけは不幸中の幸いだったと母も語っていた。ただ、それでもあの毒に苦しんだ人がいる。苦しむ家族を見て涙を流した人がいる。そんな話も母から聞いていたし、実際に毒に侵されてしまった人もこの目で見た。だから僕は「見逃さない」という選択を選ぶ気になったのだろう。
「君たちに確認すべき事項は終わりだ。他のことはまた明日考えよう。ギルバート氏もしばらくはここに滞在することを許してくれるみたいだし」
マイクロフトは、「それじゃあお開きだ」と付け加えながら立ち上がって部屋の扉を開けた。
「夜ももう遅い。君たちも自室に帰ってゆっくり休むといい」
マイクロフトが促す。
「それじゃあこれで」
「おやすみなさい」
マイクロフトとジークハルトにそう告げると、僕たちは彼らの部屋を後にして、すぐ隣の自室に戻った。
§
趣味は種蒔きだ。
種が芽吹き、茎を伸ばし、枝葉を増やし、花を咲かせ、そして散る瞬間は実に素晴らしい。
今夜もまた一つ種を蒔こうと思う。その花は、一体どんな花を咲かせるのか。名前に見合った白い花か、それとも――。