15.脱出~4~
――寒い。
排水路と聞いてそんな気はしていたが、それでも寒い。どこからともなく吹く風、それに加えて水路を流れる水のせいもあってか余計に寒く感じる。
「もう少しの辛抱だ。寒いかもしれないが耐えてくれ。僕だって寒い」
「あとどれくらい歩けばいいんですか?」
「あと四百メトルほどだ」
四百メトル。良かった。この苦痛もあと少しのようだ。
「ここから先はその脱獄しようとした奴が掘ったところだ。足場が少し悪くなるから気を付けてくれ」
見ると足元はただの土に変わっている。それに加えて少し勾配もついている。
地上に向かっているからだろう。
それにしても人が通れるほどの大きさの穴をどうやって掘ったのだろうか。
人の手で、というのは考えにくい。魔術的要因があるように思える。
「出口が見えたぞ。あと少しだ」
そう言われて少し前を見てみる。確かに外だ。満天の星空が見える。
「わぁ! きれい!」
先を歩いていたミレイユが、穴から出ると星空を見上げて感嘆の声を漏らした。
ようやく出口から出る。
周りには何もなくただただ草原が広がっていた。少し遠くの方に城門が見える。
「あれ?」
星空を見て喜んでいたミレイユが、突然辺りをキョロキョロと見はじめる。
「どうしたの?ミレイユちゃん」
「あっ、いえ、騎士の人がいないな……と思って」
確かに、例の騎士が見当たらない。
「おかしい」
レヴォルが口を開く。
「彼は仕事ができる男だ。時間を間違えたりはしないはずだが……」
「どうかしたのか?」
後から来たアルルに聞かれる。
「それが、騎士の人がいなくて」
「何?」
アルルが少し考え込む。
「裏切りの可能性は?」
「ありえない。彼は僕が一番信頼している騎士であると同時に、僕に一男忠誠を誓ってくれている騎士だ。裏切りを起こすとは思えない」
――トスッ。
それは私の知らない音だった。初めて聞いた響きだった。
レヴォルの言葉に紛れて聞こえた音に振り返る。その音はちょうどミレイユの方から聞こえていた。
「どうしたの、ミレイユちゃん?」
そう言って振り返る。ミレイユがなぜか硬直している。
「……コレット……さん……逃げ……て……」
そう言葉を残し、ミレイユは地面に倒れた。
「え?」
声にならないような声がかすかに漏れる。理解ができなかった。突然のことだった。思考が追い付かない。ただその事実だけが目に焼き付き、脳に焼き付く。
口だけが反射的に動き。
「ミレイユちゃん?」
足だけが唯一状況を理解して動いた。
「ねぇ、ミレイユちゃん! しっかりして! ねぇってば!」
急いでミレイユのもとに駆け寄る。
「コレット! 伏せろ!」
アルルの叫ぶ声がした。
「え?」
声が届いたときにはもう遅かった。
目の前に何かが飛んできていた。先端が僅かに光ったのが見えた。
――矢だ。
それが自分の額に当たる寸前、自分の目の前で何かが矢の行く手を阻んだ。
赤い膜のような何か。突然現れて、矢を食い止めたかと思うと、崩れるように消えていった。初めて見たが本で読んだことがある。
「魔術防壁!?」
進路を妨害された矢は目の前に力なく落ちた。
「コレット! ミレイユの治療を! この状況は何かがおかしい!」
アルルの叫ぶ声が耳に入る。
そうだ。治療だ。早くミレイユの手当てをしなければ。しかし今この場には雨が降り出していた。それもただの雨ではない。どれも一つ一つが命を奪うための道具。先端をとがらせ、その温もりを奪わんとばかりに無造作に何本もの矢が空から降り注ぐ。
矢が届かないギリギリのところまでミレイユを引っ張って逃げるが、それでも足先をかすめる勢いでそれらは飛んでくる。
「治療って言っても矢が飛んでくる中どうやってやれって言うんですか!?」
「私と王子に任せろ!」
言いながらアルルは土で大きな人形を作り出す。ゴーレムというやつだ。
任せろというのだから任せるしかあるまい。こちらは治療に専念することにした。ミレイユをじっくり観察する。
傷口は一か所。矢が刺さっている背中のみ。確実な治療をするために手早く魔法陣を描く。月明かりがあって助かった。
目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
「草木草花に宿りし精霊よ。汝らから溢るるその命をもってして、この者の傷を癒したまえ」
呪文を唱えながら矢を抜く。
すると徐々に傷口が塞がっていき……やがて完全に塞がった。
ミレイユの口元に手を当ててみる。息はある。乱れもない。今は眠っているようだがそのうち目を覚ますだろう。治療は無事成功したようだった。
「アルルさん! 終わりました!」
声を上げる。
しかし返答はない。
見るとアルルもレヴォルも、あっけにとられたようにその場に突っ立っている。
「どうしたんですか?」
ミレイユを背におぶりながら二人のもとに近づく。
いつの間にか鋭利な雨は止み、辺りは静けさを取り戻していた。それは横に立つ二人も例外ではなかった。自然に溶けているように、一言も言葉を発さない。
アルルの腕のあたりをつついてみるが、やはり反応はない。
アルルとレヴォルはずっと一方向を見つめている。何だろうと思い、私もその方向を見てみる。
城門がある方、一人の男が何人かの兵士を連れて歩いてくる。
「兄上……」
レヴォルがぼそりと呟いた。
「やあレヴォル、わが弟よ。こんな時間にこんな場所で何をしているのだ?」
「……兄上こそ、ここで何をしている」
「見てわからんのか。脱獄者を捕まえようとしているのだよ。それより私の質問に答えろ。ここで何をしている?」
「……昔みたいに城から抜け出して遊んでいるだけだ」
「そんな嘘がまかり通るとでも思ったか?」
ふん、とその男が鼻で笑う。
「……なんで分かった」
「逆になぜ隠し通せると思った? お前の性格はよく理解しているからな。お前が何を思い、何を考え、どのように行動するのか、それぐらいの予想はつくものだよ。……さて、話はこれくらいでいいだろう」
男がスッと手を上げる。それと同時に周りの兵士が剣やら槍やら弓やらを構える。そして男が……挙げた手を振り下ろす。
「殺せ。魔女は全員だ」
兵士たちが波のように押し寄せてくる。後ろで弓を持った兵士が弦を引き絞る。
『死』という言葉が頭をよぎる。そうか、死ぬのか、短い人生だった、が、悪いことばかりではなかったと思う、などと悲観的な考え方に陥る。
そうするしかなかった。こんなもの、誰がどう見ても助かる可能性の範疇を越えていた。
「ちょっと待ったぁ!!」
少しの土煙を上げながら、目の前に一つの馬車が走りこんでくる。
「皆様! ご無事ですか!」
馭者席にまたがるのは見覚えのある姿。
「騎士さん!?」
馬車の手綱を引きながら、月の光を全身で受けて、それを反射する白銀色の鎧に身を包んだ騎士が、大声をあげながら私たちと多数の兵士の間に割って入るようにして駆けつける。
「全員無事……ではないようですね」
馬車から降りながら私が負ぶっているミレイユを見る。
「さあ皆様、馬車にお乗りください。ここは私が食い止めますので」
やってくるいくつもの剣撃を交わしながら、打ち返しながら、飛んでくる矢を切り落としながら器用にしゃべる。
その騎士がとてつもなく強いのはすぐに分かった。
「わ、分かりました。アルルさん、乗りますよ」
大人しく従うしかなかった。この状況で、この場を任せられるのは彼だけだ。自分たちがいても足を引っ張るだけなのは考えなくても分かった。
「……私も残ろう。騎士殿だけではさすがにこの数は厳しいだろう」
アルルが発したその意外な言葉を背中で受け止め、顔を振り向かせる。
「アルルさん、なに言って……」
確かにこの数はいくらあの騎士が強くとも厳しいだろう。ざっと三十人か四十人いる。
しかし……。
「……分かりました。では人形を使って弓兵の処理をお願いいたします」
「任された」
アルルは何を言っているのだ。
「アルルさん! 死ぬ気ですか!?」
するとアルルが前を見据えたまま小さな声で言う。
「言っただろう? もう十分に生きた、と。これからを担うのはお前のような若い人間だ。ならばその可能性が高い手段を私は選ぶ」
知らない。そんなことが聞きたいんじゃない。
「一緒に逃げるって言ったじゃないですか!」
自然と目から熱いものが溢れ、頬を伝う。
「じゃあ……」
アルルが小さく振り返る。
「私の分も長生きしてくれ。それが私の望みだ」
違う。そんなお願いを言ってほしいんじゃない。
私は、一緒に逃げたいだけなのだ。一緒に逃げて、逃げた先でいつもみたいに笑いあって……。ただそれだけなのだ。
それなのに……。
「そんなこと言われたら……断れないじゃないですか」
なおも涙は溢れ続けた。それをローブの袖で拭う。
「死なないで……下さいね。また、会える日を楽しみにしてますから」
目元を拭ったはずなのに、すでに視界は歪んでいた。
その向こう側でアルルが笑ったように見えた。
「レヴォル王子殿下!」
騎士の主君の名を呼ぶ声が響き渡る。
「……なんだ?」
「後は頼みましたぞ」
「しかし……」
「行きなさい。あなたはここで死ぬべきではない」
レヴォルがなにかを言おうとして、それをぐっと抑え込む。
「分かった。一つ命令だローラン」
「なんなりと」
「死ぬなよ」
「御意。……魔女殿、王子を頼みましたぞ」
突然声をかけられて少し驚く。その目に対して、私は何も言えなかった。首を横に振ることはできなかった。
小さく、こくりと頷いた。
馬車が動き出す。
少しずつ二人の姿が遠のいていく。その時、少しだけ強い風が吹いた。
§
「気をつけて、ですか」
一人の騎士が剣を構える。真っ直ぐに向けられる剣の先に、ちょうどランディの姿が重なる。
「まったくだ」
一人の魔女は騎士の言葉に同意した。少し呆れたように言いながらも、手を地につけ、はめた手袋の魔法陣を輝かせる。
「貴様が来ないようにわざわざ弟の部屋の時計を専門の技師にずらさせたというのに」
ランディは自身に剣を向けている一人の騎士、ローランを睨みつけた。
「だろうと思いました。王子殿下の部屋に入ったときに時計が進んでいるのに気づきまして、急いで来てみればこの状況、ということです。ところでその兵士の数は私対策ですか?」
騎士がにこりと笑う。
「その程度で私が止められるとでも思いましたか? 考えが甘い」
「黙れ。奴は反逆者だ。肉片も残すな」
「全員まとめてかかってきなさい。返り討ちにして差し上げましょう」
暗闇の中光を反射させながら剣と剣が、剣と槍が、時々土の塊と矢じりが、乱雑に交ざり合う。
それはまるで、長い夜に流れる刹那の流星の如く一瞬で、静かに消え入るように終わりを告げた。