149.心の答え
ジャスミンは簡素な喫茶店の中で悶々とした気持ちを抱えながら、トマトとベーコンと申し訳程度のレタスを挟んだサンドイッチを頬張っていた。
つい先ほど、つまり今朝のことだ。
いつも通り、朝独特の明るさが瞼を刺激し、脳を叩き起こした。活動を始めた脳が真っ先に行うのはいつだって瞼を持ち上げることだ。
朝の眠気にうーんと唸りながらも、重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
ここまでは良かったのだ。
次の瞬間、ジャスミンは思い切りエルの頬をぶん殴っていた。しかも平手で。
さて、なぜそうなってしまったかだが、別に、エルが眠っている間にジャスミンの顔面を殴ったわけでも、横腹を蹴り飛ばしたわけでもない。
というよりエルは何もしていない。
何かしてしまっていたのは一方的にジャスミンなのである。
年頃の女の子が朝になって目を覚まして、瞼を持ち上げて、超至近距離に意中の相手の寝顔が転がっていたらどう思うだろう。
ジャスミンの場合は当然のように恥ずかしがった。そして不器用なジャスミンは、あろうことか咄嗟に距離をとるでも、寝返りを打って顔を背けるでも、ましてや何事もなかったかのように起き上がることもしなかった。
ただ一度、べちんと。エルの頬を打ったのだった。
その行為とエルの寝顔のせいで、なんというか、食事に集中できていないのが現在のジャスミンである。
どこか上の空になりながら、サンドイッチを流し込むように温かい紅茶を飲む。
今回ばかりは自分に非があるとジャスミンも自覚していた。早々に謝るべきだと思っている。ただ、どうにも謝罪の言葉が出てこないのと、顔を見ることができないのだ。
喫茶店のカウンター席。ちらりと視線を横に動かすと、似たようなサンドイッチを食べるエルの手元が目に入る。横を向いて、少し見上げれば顔が見える距離であるはずなのに。
(どうしよう……)
どうしてもその単純な挙動ができなかった。
なぜか思い浮かぶのは今朝の寝顔ばかり。
自分でもよく分からない現象に、どうしていいのか分からなくなっていた。
「ジャスミン、僕が何かしたのなら謝る。すまん」
突然、何の前触れもなく隣に座るエルが謝罪の言葉を口にした。
「へ?」
その予想外の言葉に、一瞬気が抜けたような声をあげながら、固まったかのように動いてくれなかった首がようやくエルの方に向いた。
そこには少し暗い表情の、どこか寂しげなエルの横顔があった。
「あっ、あのっ……」
詰まる言葉を押し出そうとして、それだけの息が先に零れ落ちる。
「私の方こそ、ごめんなさい。その……いきなり殴っちゃって……」
そしてようやく、頭を下げて謝った。
「ほんとに、その、エルは何も悪くなくって……むしろ私の方が一方的に悪くって……その、ほんと、ごめんなさい!」
自分が一方的に悪いのだと、エルは悪くないのだと、身振り手振りで説明にもならない説明をしながら、もう一度その言葉を伝えた。
頭を下げ、誠心誠意謝った。今回ばかりは完全に自分に非があると、ジャスミンも理解している。謝った程度でエルが許してくれるとも思っていないが、それでも謝罪の気持ちはあるということを伝えたかった。
ちらりと視線を上に向けて、エルの表情を確認する。
そこには、暗い表情から一転してきょとんとした呆け顔のエルがいた。
そしてまるで何かを思い出したかのように、
「ああ」
と呟いた。
「そうか、てっきり僕がジャスミンを怒らせたと思ってた。良かったよ、怒っていなくて」
これまた予想外の言葉にジャスミンは少し驚きながら下げていた頭を持ち上げた。
先ほどからエルの口から放たれるエルらしからぬ言葉に少し困惑しながらも、彼が開こうとしている口に耳を傾ける。
「僕も別に怒ってないから、そんなに謝るな。今朝のあれは……何が起きたのか僕には分からないが、『事故』だった。それでもうこの話は終わりにしよう」
コーヒーを飲みながら、いつもの彼からは想像もつかない柔らかい声でそう言った。
事故。
そう、事故なのだ。エルを殴ったことに関して、非はジャスミンにある。これは間違いない。ただ、ジャスミンがエルをひっぱたいてしまう状況を作り上げたのはエルでもジャスミンでもないのだ。
寝ている間の不可抗力。誰も抗えないし誰も干渉できない。つまりこれは『事故』だと。
「……そう、ね。うん。あれは事故ね。きっとそうなんだわ」
まるで自分に言い聞かせようとしているかのように、うんうんと頷きながらその言葉を繰り返した。
決して、寝ている間の自分が無意識的に彼に近寄りたくて寝返りを打ったわけではないのだ。
しかしまあ、殴った事実は変わらないわけで。
「でも、殴ったことは事実だし。そのことだけでもちゃんと謝りたいの。本当にごめんなさい」
朝っぱらから謝罪の言葉を三度も口にしていることにも気づかず、もう一度謝った。
「別に気にしてないから。もう痛みもないし、そんなに申し訳なさそうな顔をするな。お前に似合わないぞ」
そうだろうか、と疑問に思う。直後に、そうかもしれないと考えを改める。
謝罪の言葉には慣れていた。まだジャスミンが魔術学校の生徒だったとき、虐められるたびに、まるで魔術の呪文を唱えるように「ごめんなさい」を繰り返していた。
その言葉が、謝罪を口にした顔が自分に似合わないと言われるのは初めてで、どうにもしっくりこなかった。
謝罪はジャスミンにとって唯一穏便に物事を終わらせる方法であり、自分が謝れば場が治まる、それこそ呪文だった。
かつて、その言葉に深い意味はなかった。いじめっ子に恐怖しながら繰り返すその言葉は自分の心を守る役割しか持っていなかった。
その言葉に慣れすぎて、自分がどんな顔をしているのか、分からなくなっていたのかもしれない。
「似合わない、かな?」
「似合わないな。いつもみたいに子どもっぽく笑った方がお前らしい」
子どもっぽく、というフレーズが若干引っかかるが、まあ、そうかもしれない。確かに子どもみたいにはしゃいでいるときの方が素の自分に近い気がする。
「一言余計だけど、そうかもしれないわね」
「いつもの調子が戻ってきたな」
「……なんか、エルに乗せられた気がしてきたわ」
「別に僕は何も特別なことは言っていないぞ。勝手に乗ってきたのはジャスミンだ」
お互いに、自然と笑みが零れていた。きっと自分は彼のこういうところに惹かれたのだろう、と改めて思う。
年の近い相手で、初めて自分のことをしっかりと見てくれた人。不器用で無鉄砲な自分を相手してくれる人。自分でも気づかなかった表情に気づかせてくれた人。初めて優しく接してくれた人。
このときになって、エルに強く惚れているのだと、なんとなく好きになっていたわけではないのだと、ジャスミンは気づいた。
「……エル」
「なんだ?」
「ありがとう」
ただ、好きだと伝えるのが恥ずかしくて。
申し訳なさそうな顔が似合わないのならと、満面の笑みで「好き」の代わりを感謝の言葉に詰め込んだ。