143.夢が示すものは
これは夢だ。
夢を見ているのだ。
ツルカはその異質な場所で、真っ暗な空間でその答えを導き出した。
足元に目を向けると、あるはずのない床をしっかりと踏みつけて立っていることが分かる。
なにもかも、覚えている。
十八歳のときに見た業火も、柱の崩れていく音も、こびりついて離れない、人の焼ける臭いも。
つい先ほどまでテレーズと命のやり取りをしていたことも、大切な人たちがまた殺されたことも。
彼女から大切なものを奪ったことも、逆に彼女自身の命を奪えなかったことも。
明晰夢、というヤツだ。
ツルカは精神魔術を最も得意であると自負している。だからその手の話――夢だとか幻だとか、そういったことも自分で調べて研究している。
夢というのはなんとも曖昧なもので、目が覚めると大抵の場合は忘れてしまう。本人が夢を見ていることすら自覚していないのだ。
記憶の整理、雑多なイメージの集合体。それこそ強烈な印象を刻まれない限りは記憶に残らなくて当然だ。
しかし明晰夢は違う。
(ここは……どこかしら)
明晰夢は自分が夢を見ていることを自覚している。もちろん、眠る前の記憶を保持しているし、ごく一般な夢とは違って自分の意志で体を動かせる。
ツルカは周囲に視線を向ける。後ろから右、左まで。上ももちろん確認した。
「真っ暗ね……」
自分の喉を震わせて、声を出してみる。
声は全く響かない。その空間が壁のない空間であることはすぐに分かった。
「ツルカ様」
ふと、どこかから声が聞こえた。
「誰?」
まるで全方位から放たれるような呼び声に、不安げに見渡す。
「ツルカ様、こちらですよ」
微かに感じる気配。ツルカにはずっと後ろからのように感じた。
振り返り、目を凝らす。
視線を向ける先に、薄っすらとした白い光が見える。その光が徐々に広がる。
その様子を見ていると、その光が光ではなく単なる白い靄で、ついでに言えばずっと後ろだと思っていたそれは、すぐ目の前にいたことが遅れて理解できた。
まるでだまし絵だ。真っ暗なせいか、近くにある小さなものが遠くにあるように見えていたのだ。
「あなたは、誰?」
白い靄に尋ねる。
「お久しぶりです、ツルカ様」
未だ明瞭さを欠いているその靄の声が答える。
「……どこかで会ったことがあるかしら?」
「もちろんです、ツルカ様」
ツルカの言葉に答えた靄は、次第にその姿をあらわにしていく。
靄の中から現れたのは人だった。一人の男性。鎧に身を包み、右手には刃毀れの酷い剣を力なくぶら下げている。
「……アーロント?」
その姿はツルカの記憶にある彼の最期とほとんど変わらなかった。
ツルカの愛した騎士――アーロント。約八十年前にネーヴェ王国を一度滅亡に追い込んだ反逆者で、ツルカのかつての従者で、彼女が恋心を抱いた最初で最後の男。
「そうです、あなたの騎士、アーロントにございます」
「あなた、どうしてここにいるの?」
つい先ほどから疑問符を投げかけてばかりだなと思いつつ、ツルカはアーロントに尋ねる。
彼は死んだ人間だ。この世には存在しない。もちろんこれは夢であるから故人が出てきても何ら不思議ではないが。
「これは……明晰夢よ。そこにあなたが出てきているのはどういう事かしら? 私の妄想の産物? それとも幽霊のあなたが私の夢に入り込んできたの?」
「どちらかというと後者が正解に近いですが、私は幽霊なんてものではありませんよ」
「じゃあ、何?」
もう一度問いただす。
「私は、ツルカ様の〝負の感情〟です」
「アーロント、随分と面白い冗談を言えるようになったわね。昔のあなたはもっと堅物だったはずよ。そこが好きだったんだけれど」
少し笑って言うがアーロントは一切表情を崩さず、ツルカの方をじっと見つめているだけだ。
「……仮にあなたが私の〝負の感情〟であるとしましょう。それはきっと、八十年前のあの日に私の瞳を紫色に染めた感情よね。それが今更、何をしに来たというの?」
ツルカはアーロントに少しだけ近づきながら尋ねる。
「忠告と、お別れを言いに来ました」
「忠告とお別れ?」
アーロントが静かに頷く。
「……それは、〝アンネの灯火〟に属しているアーロントの言葉? それとも、私の従者である騎士アーロントとしての言葉?」
「そのどちらもです」
どちらか一つだと思っていたツルカは眉を顰める。アーロントはアンネの灯火の一員として、ネーヴェ王国を戦火に包んだ。
もしこれから発せられる言葉がアンネの灯火の一員であるアーロントの言葉であれば、ツルカは根掘り葉掘り聞きだしてやろうと思った。
未だ足のつかない宗教組織〝アンネの灯火〟。ジークハルトやマイクロフトが追いかけてくれてはいるが、それが実を結んでいるかどうかはツルカには把握できていないし、仮に何か情報を掴んでいるとしても、こうして当事者たるアーロントに尋ねる方が精度は高い。
「それで、忠告というのは?」
忠告と言うからには何か助言をしてもらえるのだろう。となるとこの忠告は逆賊アーロントの知ることを騎士アーロントが伝える形だ。
きっとこれが先ほどアーロントが「そのどちらもです」と言った理由なのだろう。
「目を覚ましたらすぐにゼラティーゼ王国に向かい、テレーズ・ゼラティーゼを殺してください。あれはもう、手に負えない怪物と同じです。
彼女はまだ不完全だ。だから混ざってしまう前に片方を殺さなくては」
「片方……?」
「申し訳ありません、ツルカ様。これ以上のことはお教えすることができません。騎士アーロントとしての言葉だと、どうやら制約があるようで」
アーロントが申しわけなさそうに頭を下げる。
「……分かったわ。教えてくれてありがとう」
ツルカは言葉の全てを汲みとったわけではない。不完全だとか片方だとか、引っかかった言葉はある。だが、分からないことに頭を悩ませても今は仕方のないことだ。
ひとまず、テレーズを殺さなければならない事だけははっきり分かっている。それはもともとのツルカのすべき事であった。
つまり、眠りから覚めた後もやるべきことは変わらないということだ。
「それで、お別れというのはどういうこと? あなたの口ぶりからするとあなたはずっと私の中にいたってことよね?」
「はい。ですからこれでお別れです。彼女は俺を必要としなくなった。極上の器と、そして質の良い燃料がある。これも、アンネの灯火のお導きなのでしょう。
元々彼女はあなたを器にしようとしていた……いや、色々なところで種は撒いていたのだ。両親を殺されたひよっこ魔女にも、治癒魔術しか使えない凡愚な魔女にも、恵まれた家庭に生まれた無垢な少女にも。しかしどれも失敗だ。だが、次は成功するのだろうな……」
「さっきから何を言っているの、アーロント。私にも分かるように言ってちょうだい」
「私は、あなたの騎士です。ですから、これ以上何もお伝えすることはできない。お伝えすれば、それこそあなたは無事では済まない。テレーズを殺すこと自体はあなたの目的としては変わっていない。それだけでいいのです。これ以上は、首を突っ込んではいけない」
どこか厳しい表情を見せるアーロントに、ツルカは口を閉ざした。
これ以上問い詰めても何も彼は喋らない。口を開かない。アーロントに頑固な部分があることを、ツルカ自身の記憶が知っていた。
「まとめると、あなたと私はその誰かさんにとっては必要ないってことでいいのかしら?」
「それだけ分かれば十分です。ツルカ様。どうかご自身の身を第一にお考え下さい」
アーロントがそう言うと、はらりと空から何かが降ってくる。ひらひらと降ってきたそれを手で掴むと、掴んだ掌を開いて確認する。
それはまるで黒い紙片のようだった。思わず天井に視線を向ける。
ぱらぱら、ぱらぱらと真っ黒な空が崩れ、光が差し込んでくるのが目に入った。
「そろそろ時間切れです。さようなら、ツルカ様。いつまでもお元気で……」
「……さよなら、アーロント。愛しているわ。今までも、これからも」
その直後に、ふわりと体が宙に浮かぶ感覚がした。周りを見るとすでに暗闇は消え失せ、光に包まれた空間に姿を変えていた。
その眩しさに、ツルカは目を閉じる。
次の瞬間、ツルカの青色の瞳に映ったのは彼女の自室の天井だった。
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