140.白い意志と赤い感情
ジャスミンが部屋に帰ってくるのと同時に、僕は風呂に向かった。風呂で汗と疲れを洗い流し、ゆっくりと長時間湯船に浸かる。
少しのぼせてきたぐらいで湯船から出て、のぼせた頭を休ませるために少しだけ夕飯をとった部屋の椅子でぼんやりとしながら休んでいた。
「湯加減はどうでしたか?」
天井を眺めていると後ろの方から聞き覚えのある声がした。
「ローランさんか。まあ、熱すぎず温すぎず、いい湯加減だったよ」
「それはよかった」
まだ頭がぼんやりとしているせいか、どこかどっちつかずな回答をしてしまう。
「何か飲みますか?」
「え?」
キッチン台でなにか作業をしているローランがふとそんな問いを投げかける。
「コーヒーと、紅茶がありますが」
「あー……コーヒーで頼む」
そう答えると、首を少し傾けてローランの方に視線を向ける。
ローランは戸棚の所でしゃがみ込み、扉を開けてコーヒーが入っているであろう筒状の容器を取り出していた。
「王子殿下……いや、失礼。あなたの父君はいまどのようにしてお過ごしですか?」
「部屋で、籠ってる」
ありのままの今の父の姿を伝える。実際、間違いではない。診療所の手伝いももちろんするのだが、それ以外の時間は基本自分の部屋に籠っている。
「部屋に籠っているのですか?」
「魔術のことを調べているらしくてな。妹さん――この国の女王様を救うとかなんとか」
なるほど、と呟くローランの声に続いてコップに湯を注ぐ音が耳に届く。
「実に彼らしい考え方です。昔からそうでしたから」
「昔の……子供の頃の父はどんな人だった?」
僕は父のことをそれほど詳しく知らない。というか全くと言っていいほど知らない。ただ、ローランは小さい頃の父を知る数少ない一人だ。ここで父のことを聞いておかなければ、今後知る機会はないだろうと思ったのだ。
「そうですね……やんちゃな人でしたよ」
「そうなのか?」
あまりにも予想外な回答に、僕はどこか拍子抜けな声を出した。
「ええ。頻繁に城を抜け出していましたから。ただ、それでも多くの人に信頼されておりました」
確かに、城を抜け出すというのは従者であるローランからすればやんちゃだろう。なにせ仕事が増えるのだ。
それでも、人に信頼されていたというのは一体どういう事だろうか。
「人望があったのか?」
「殿下と、その兄であるランディ元陛下は良き王になると誰もが思っていました。あなたのお父上は国民と共に歩む王に、ランディ元陛下は国民を導く王に。
先ほども言いましたが、あなたの父君は城を抜け出しては町に繰り出しておりました。そこで多くの人と交流を持ち、国民と同じ視線で物事を見つめ、兄を支えようとしていたのですよ」
その話を聞いて、どこか納得がいった。
父は温厚で、優しい性格をしている。誰かのことを大切に思える人だ。そんな人が王子という身分のもとに生まれたのであれば、必ず国民のことを第一に考えだすはずだ。
国を治めるうえで大事なことだ。
しかし父のことを考えると、それだけなのだ。威厳だとか、多くの人を導く力だとか、そういうのは向いていないように見える。
いや、実際は違うのかもしれないが。
きっとそこは話に出てきた父の兄、僕にとって叔父にあたるランディという人物が担っていたのだろう。
「コーヒーが入りましたよ。さあ、どうぞお飲みください」
「ありがとう」
コーヒーカップを受け取ると、未だ湯気が立ち上る中、カップの中で揺らいでいる黒い液体に口をつける。若干の苦みと酸味を感じながら、ゆっくり味わって喉に通す。
「私からも、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「別に構わないが」
僕がそう答えると、ローランは丁度僕の目の前に座る。一息ついてコーヒーを少しだけ飲んでからこちらを見据えて口を開いた。
「あなたは何がしたいのですか?」
「……は?」
質問の意図が一瞬理解できず、聞き返すでもなく黙り込むでもなく、ただそれだけの吐息が漏れ出した。
「あなたは、彼女に付き合わされているだけだといいました。それでこの旅をしていると。もちろん、他に目的があるのはアルルから聞いています。しかしそれはこの旅の目的であって、あなたの本当にやりたいことではないでしょう」
図星だった、と思う。僕が自分の置かれた環境に甘えてなんとなく生きてきた。薬学を勉強しているのは、もちろん診療所を継ぐためだが、果たしてそれが僕の本当にやりたいことかは分からない。
ジャスミンは、きっと今やりたいことができているのだろう。
ローランはそんな僕とジャスミンの違いに気づいて、この問いを僕に投げかけたのだろう。
「……何がしたいのか、っていうのは僕にはまだよく分からない。ただ、今回のこの旅でそれが見つかれば、とは思っている」
答えて、唾を飲み込む。じっとこちらを見つめてくるローランに視線を返す。
「それなら良かったです。あなたのやりたいこと、見つかるといいですね」
そう言って、少し笑った。
その笑顔の意味は、僕にはよく分からなかった。
§
ローランに挨拶をしてから部屋に戻ると、ジャスミンが何やら怪しげな光を放ちながらベッドの上で何かを作っていた。
「何をしているんだ?」
「あ、エル、お帰り。随分と長風呂だったわね」
「ローランさんと話してたんだ」
「そう」
落としている視線を変えることなく手元の木札のようなものに手をかざしながら生返事をする。
「それで、何をしているんだ」
もう一度尋ねると、すうっと光が消えていく。真っ暗な部屋でジャスミンの翡翠色の瞳だけがまるで光を放っているかのように輝いている。
「これ、あげるわ」
そう言って、その木札を僕に差し出してきた。
「……魔法道具か?」
「ん。まあ、そんなところ」
そっけなく答える。
「で、これはどう使うんだ?」
木札を裏返してみる。暗くて分からないが、どうやら普通の木札だ。なにやら文字が書いてある以外は本当に何の変哲もない木札だ。
「というか、明かりつけ……」
ぐいっ、と袖を引っ張られる感覚。引っ張られた方向に目を向けると、顔を俯かせたジャスミンの姿。
「……どうした?」
「その木札は、持ってるだけでいいわ。お守りみたいなものだから」
「お守り?」
聞き返すとジャスミンは顔を俯かせたまま、どこか話しづらそうに口を開いた。
「その……エルに何かあったら嫌だし、私は一応護衛っていう名目でこの旅をやっているわけだから、その……」
そこまで口早に言うと今度はぐっと黙り込んでしまった。
「……何か言いたいことでもあるのか?」
ジャスミンの様子を見るに、何か恥ずかしくて言えないようなことであるように見えた。先ほどのよく分からない寝言のせいもあってか、僕の鼓動は勝手にその打ち鳴らす速度を上げ始めた。
「……いつも……ありがとう」
しかし僕の期待とは反対方向で(いや、別に期待していたわけではないのだが)発せられたのはたったそれだけの感謝の言葉だった。
「なっ、なんで笑ってるのよ!」
僕は笑いを抑えきれなかった。今までどこか不愛想で可愛げのなかったジャスミンが、こうも恥ずかしげに感謝の言葉を述べているのがどこか可笑しかった。
「いや、なんだろうな。お前にそういう風に言われると思っていなかったんだ」
「私だって、感謝の一つや二つぐらいするわよ。ただ、今までちゃんと言ったことなかったなって思って。多分私、エルに会ってなかったら旅にも出てないし、ただ夢を見て妄言ばかり吐いてる女の子になってた」
今でも十分妄言ばかりだと思うのだが、それはこの際言わないでおこう。
「それと、その、もう一つ言っておきたいことがあるんだけど……」
「なんだ?」
ジャスミンは一度深く深呼吸をして、じっとこちらを見据えて。
「私、その――」
僕だって馬鹿じゃない。このお転婆少女の先ほどの寝言が、もし本当ならば。彼女が言おうとしていることは大体想像がつく。まあ、つい先ほどは外してしまったわけだが。
「……ごめん、やっぱりなんでもない」
顔を真っ赤にしているのが暗い部屋でも分かった。
「……そうか」
そう言うしかなかった。僕はきっと彼女の気持ちに気づいている。そういう感情を知っている。知っているがそれは知識だけの話だ。様々な物語で、身近な人物で、そういう感情を持っているものを知っている。
ただ、それを自分に向けられることになるとは思ってもいなかった。
暗い部屋に、ただただ沈黙が流れる。僕の袖を握った彼女の手は、ゆっくりと力を抜いてその手を離した。
「……明日も早いから、もう寝ろ」
「そう、ね。そうするわ」
僕は気づいてしまった。それ自体には何も問題はない。彼女が僕のことをどう思おうが、それ自体で僕に迷惑がかかるとか、僕に不利益が生じるとか、そんなことは決してないからだ。
ただ、一つだけ問題が発生した。
ドクリ、ドクリと、確実に早くなった鼓動を僕は押さえつけることができずにいた。こればかりは僕にもどうしようもなかった。
それを何と呼称するのか、僕は知っていた。知っていたから目を背けることにした。速まる心臓を無理矢理にでも押さえつけて、顔に出ないように表情を保って、相手にバレないように。
これは、僕にとっての問題だ。それも難問だ。
僕は確実に、この翡翠色の瞳の少女に惹かれ始めている。