137.思い出話と寝言と
僕がアルルの前に顔を出した時の彼女の言葉は「寛いでいてくれと言ったのに」だった。
「布団が敷いてないから布団がしまってある場所を聞きに来たんだ」
「なんだ、そんなことか」
そう言ってアルルは僕から視線を外すと手元の鍋に戻した。
「隣の部屋の押し入れに入っている。好きなものを選んで持って行くといい」
視線をぐつぐつと音を立てる鍋に落としたまま、アルルは僕に布団のしまわれている場所を教えた。
「……なにか手伝うことはあるか?」
僕の突然のその言葉を、彼女は予想していたのだろう。間髪入れることなくアルルは口を開いた。
「寛いでいてくれと何度も言っているだろう。君たちは私にとっても、そして主人にとっても大事な客人だ。人の来訪のない家だからな。たまにはもてなさせてくれ」
アルルのその言葉に僕は口を噤むと、彼女は長いため息を吐いた。
「……何か聞きたいことでもあるのか?」
「父のことを教えて欲しいんだ。それと、あなたのことも。母との関係も、あの一言で片付くものじゃないように感じた」
母との関係を尋ねたとき、アルルは知人の孫、年の離れた妹のような存在と言ったが、母のことを気に掛ける彼女の口調や瞳からはそれ以上の恵愛を感じ取った。
「君は自分の母親のことをどれくらい知っている?」
僕はアルルの言った言葉に違和感を抱いた。僕は父のことを尋ねたはずだ。なぜ母のことを僕に確認するのか。
「一度視力を奪われた、ぐらいしか……」
僕がそう言うとアルルは顔をあげて目を丸くした。
「……これはお互いに擦り合わせる必要があるな」
どうやらその事実をアルルは知らないようだった。
とは言っても僕が母のことで知っているのは視力を奪われたこと、ゼラティーゼ王国で行われた魔女狩りから逃げてきた、それぐらいだ。
「とりあえず、私から私が知りえる彼女のことを君に話そう。隠していたのかなんなのかは分からんが、君も知っておくべき事柄だ」
今まで父や母に聞いても教えてくれなかったことを、この女性は知っている。二人がどんな人生を歩んだのか、魔女狩りが起きた時に何があったのか。
「……教えてくれ」
僕がそう言うと、アルルは一度だけ首を縦に振って口を開いた。
§
アルルは僕に僕の知らない母の、父の姿を語った。
過去にこのゼラティーゼ王国であった魔女狩り。そこで捕らえられた母。それを救い出した父。
まるで何かのおとぎ話でも聞いているようだった。
そして一番驚いたのが――。
「父さんが……この国の元王子……?」
「まあ、そんな反応をするだろうとは思ったさ」
どこかお金持ちの家の出じゃないかとは思っていたが、自分の父親が王族だなどと誰が考えようか。
確かにこれは父が自分の出自を言いたがらないのも無理はないだろう。
「私が知っているのはそこまでだ。君のご両親ともう一人魔女を連れて馬車で逃げた。それ以降のことは私にも分からない。……ミレイユ・エーデルシュタインという人物を知っているか?」
アルルが口にした名前に僕は心当たりがなかった。
「いえ……」
僕が首を縦に振ると、アルルはどこか寂しげな表情を浮かべた。
「そうか。まあ君のご両親が元気にしているという事を知ることができてよかったよ」
彼女の話を聞く限り、僕の両親をこの女性は身を挺して守ろうとしたのだろう。その結果、右腕と左足を失った、と。
「……それだけの大けがをして、どうやって生き残ったんだ?」
ふと心に浮かんだ疑問をアルルに投げかける。
「さっきも言っただろう。もう一人君のご両親を逃がすのに協力した人物がいると」
「例の騎士か?」
「ああ。彼が馬鹿みたいに強くてな。深手の私を抱えながら戦っていた。敵兵の勢いが弱まったころに命からがら二人で逃げ延びたんだ。私も死ぬのではないかと思ったが、目が覚めたときには彼の膝の上だったよ。生憎私の実家が〝魔女の家〟とのことで燃やされていてな、この家に逃げてきたのだ」
それが今の主人なんだがな、と付け加えてその重たそうな鍋を両手で持ち上げた。
「持とうか?」
「頼めるか」
アルル本人もこれは重たかったらしい。それもそうだ。アルルの右腕は義手で添えているようなものだ。その重さは左腕に降りかかっているのだろう。おまけに左足を引きずるように歩きづらそうにしている。
「その旦那さんは?」
「狩り道具の手入れでもしているだろう。そのうち帰ってくる。さ、晩飯の時間だ。ジャスミン……だったか。彼女を呼んできてくれ」
それだけ言うと、アルルはエプロンを外して玄関の方に向かった。おおかた、その旦那さんを呼びに行ったのだろう。
僕は湯気の立ち上る鍋をテーブルに置いてあった鍋敷きを取ってその上に置くと、ジャスミンがいるであろう先ほどの部屋に向かった。
「ジャスミン?」
声を掛けて扉を開ける。
少し開けた隙間から中に伸びていく一筋の光の先。
そこにはすやすやと気持ちよさげに寝息を立てるジャスミンがいた。
布団も敷いていないベッドに横たわり、自分の腕を枕にして気持ちよさそうに眠っている。
「ジャスミン、晩御飯ができたそうだ。起きろ」
近寄り、体を揺すってみる。
「……ん」
鼻で声を出しながらどこか居心地悪そうに閉じている目をさらにキュッと閉める。
「おい、起きろ」
もう一度呼び掛けるとジャスミンはその小さな体をゆっくりと起こした。
「んー……エル?」
「ああ、僕だ。晩御飯ができたんだ。下に降りるぞ」
どうやら寝ぼけているようだった。目は半開きだし口からは涎が垂れている。汚い。
「エル~?」
「なんだ、起きたならさっさと行くぞ」
「すき……」
「……は?」
僕は早々に部屋を出ようとする足を止めて振り返る。
そこには寝ぼけ眼でこちらをぼんやりと見つめるジャスミンの姿があった。
一瞬、頭が真っ白になる。その真っ白な頭にまるでペンで書きなぐるようにして黒く塗りつぶし、正常な思考に無理矢理戻そうとする。
――今のはきっと、聞き間違いだ。
正常な頭が下した判断は、自分の耳を疑う事だった。
「……僕は先に行くぞ」
聞き間違いだ。そうに違いない。
「僕は何も聞いてない。何も聞いてない……」
自分に言い聞かせるようにわざと口に出して言った。どうやらジャスミンは寝ぼけていっているようだし、このことは覚えていないだろう。
だったら、僕自身が忘れてしまった方が、なんというか……気が楽だ。
僕は部屋を出ると逃げるように階段を駆け下りた。