136.秘めたる思い
アルルに言われた部屋は、どこか母の面影を感じさせる部屋だった。
小さい部屋の中には壁際に勉強机、箪笥に本棚、そして窓際にベッドが一つだけ置かれていた。
机の上には木彫りの犬の置物が置かれ、本棚には薬学の教科書や魔術の教科書と思われるもの、誰かの書いた小説が丁寧にしまってある。
「晩飯ができたら呼ぶから」
扉の外の階段の下からアルルのそう呼びかける声がした。
さて、この部屋には問題が一つだけある。アルルの口ぶりからすると僕とジャスミンは今晩この部屋で泊ることになるだろう。そこで問題が発生する。
「ベッドは私が使うわ」
「ちょっと待て、次は僕が使う番だろう」
そう、この部屋にベッドは一つしかない。どちらかが床で寝なければならないという事だ。
「そんなにベッドで寝たいなら別の部屋を借りればいいじゃない」
「この家はでかいわりに生活できるスペースが少ないらしくてな。寝ることができるのはアルルさんの部屋とここだけらしい」
「えー……」
この大きな家のほとんどは図書館という話だ。かなりの蔵書数らしく、まるで迷路のようであるという事を母が言っていた。
「……男の子は女の子を労わる必要があると思うのよね」
またそんな戯言を言い出す。今まで存分に労わってきたつもりだ。絨毯で移動中にジャスミンが寝たら毛布を掛けてやったし、重たい荷物はなるべく僕が持ってきたし、十分すぎるほどだ。
「たまには僕を労わってくれてもいいだろう」
僕がそう言うと、ジャスミンはあからさまに嫌そうな顔をした。拗ねた子どものように頬を膨らませ、無言で圧力をかけてくる。
「……分かった分かった。僕が床で寝るから」
「意外と聞き分けが良いのね」
別に床で寝ることを許容したわけではない。わけではないのだがこういう時は自分が折れてしまったときの方が後々面倒なことにならないのはジャスミンとの今までの付き合いで分かっていたことだ。
子どもは子どもらしく好きにさせた方がいい。
「そんなにベッドで寝たいなら半分分けてあげてもいいわよ?」
「……は?」
少々得意げにそう話すジャスミンに、若干の苛立ちを含めたその一言を口から押し出した。
「……いや、だから、半分場所を空けてあげるって……」
徐々に声が萎んでいくのを耳で捉えながら、僕はそれに被せるように口を開いた。
「別に、そこまでしてベッドで寝たいわけじゃない。一人で使ってくれ」
僕はそう言うと部屋の扉に手を伸ばした。
「布団がないからアルルさんに場所を聞いてくる」
「あ、うん。分かったわ」
その言葉を背中で聞き流しながら、僕は扉を開けて部屋を出た。
§
エルがぱたりと閉じた扉をぼんやりと眺めながら、ジャスミンは深くて長いため息を一つ吐き出した。
「なんであんなこと言っちゃうかなぁ……」
布団のまだ敷いてないベッドに腰をかけると顔を俯かせる。
エルが優しいことをジャスミンは理解している。だからこそ、心の中にしこりのような罪悪感が残った。
ジャスミンがベッドを使いたかったというのは事実だ。床のような硬い場所で寝ると体が痛くなって朝の寝覚めが悪いのだ。それに硬い場所で眠ると高い確率で怖い夢を見る。お化けに追いかけられるだとか、真っ暗な場所をただひたすらに走り続けるだけの夢だとか。
そういった経験から、ジャスミンは床では眠りたくなかったのだ。
しかしエルはリルの宿で思いっきり床で寝ていたのだ。ここはエルにベッドを使ってもらいたいと思ったのだが。
「……なんであんなこと言っちゃうかなぁ」
もう一度繰り返すようにその言葉を吐き出して、両手で顔を覆った。
自分のことは自分が一番よく分かっているつもりだ。リルとも話したように、ジャスミンはエルを異性として意識している。それが分かった途端、自分の言葉をうまく絞り出せなくなったのだ。
さっきだってそうだ。
エルには床で寝てほしくはないし、かといって自分はベッドを使いたい。そうなると解決策は一つしかないではないか。
もしかしたらそのことに勝手に期待していて、それがバレないようにあんな言い方をしたのかもしれないと心の中で後悔する。
ひと言で言ってしまえば素直になれなかった。
こういう気持ちはもちろん初めてだし、どうしていいのか分からないだけなのかもしれないが、もっと自分の気持ちをそのまま言葉にできればいいのにと思ってしまう。
「素直に……なれるのかしら……」
少女のそんな秘めたる思いは今は誰にも届かない。