124.リル・リヴィエール
その部屋はジャスミンから見ても随分とおんぼろに見えた。
そもそも、クエロルでの宿が良かったのだ。綺麗で大きなお風呂に蝋燭の暖色が揺らめく客室、そして何よりも美味しいクエロルのお茶。
宿泊客を迎え入れる分には文句なしの宿だった。
寝泊まりするだけだと、それこそハンメルンの宿でも満足できるのだが、一度クエロルの宿に泊まってしまえばそれ以外の宿をそれほど評価できなくなってしまう。
王都でさえもクエロルには及ばないと感じた。
そしてこの宿だ。
「掃除はしてあるみたいだな……」
部屋の扉を開けた途端、エルがそう口にした。
ジャスミンも隙間から顔を覗かせて中の様子を見る。
「そう、みたいね」
太陽の光を浴びた室内には埃が舞っている様子はない。部屋の隅にも塵が溜まっているようには見えなかった。
家具は小さなベッドが二つと小さめの丸テーブルが一つだけ。
本当に申し訳程度の設備だ。別に、一晩寝泊まりする分にはこれで全く問題はないのだが。
まあ、一言で簡潔に言ってしまえば何もない部屋だ。見た以上の面白みも何もない。
「私、ちょっと下に降りてくるわ。荷物部屋に入れといてちょうだい」
ジャスミンは自分の荷物を全て下ろすと、身に纏う茶色いポンチョを翻らせてくるりと向き直り、駆け足で階段を下りた。軋む悲鳴を上げる階段に少し怯えながらもテンポよく階段を下りる。
後ろで「おい、ちょっと待てよ」などと聞こえたが無視する。
どうにも、ジャスミンにはあの部屋で大人しく待っていることができそうもなかった。別段、あの部屋が気に入らなかったわけではない。
正直その辺りは気にしていないし、一晩過ごす分にはあれで充分だ。
「リル……さん?」
ジャスミンは黒髪の少女の名を呼んだ。
一階の台所にいるという話だったが、その台所がどこにあるのか分からないのだ。
そんなジャスミンの杞憂を悟ってか、まるで誘うように香ばしい香りが彼女の鼻をくすぐった。
その香りに誘われて足を運ぶ。
「どうされました?」
その香りの先、扉が少しだけ開いて茶けた黒髪と一緒に一人の少女が顔を出した。
艶やかな黒い髪を覆い隠すように頭に三角巾、それに加えて白いエプロンを身に付けたその少女――リルは不思議そうな顔でジャスミンを見つめた。
「あの、えっと、何かお手伝いすることはないかな、って思って」
隙間から中を覗き込みながらジャスミンが言う。
ジャスミンはお転婆ながらも母親に愛情をこめて育ててもらっている。そのおかげもあってか非行に走ることもなく、どちらかというと真っ直ぐな少女に育っていた。だからこそなのだが、礼儀だとか礼節といったことにジャスミンは気を配るようになっていた。
「さすがに泊めてもらうのに何もしないのはどうかな、って……それで何かお手伝いできないかなぁ、と……」
気にするようなことではないのかもしれない。実際、エルは気にせず今頃部屋で寛いでいるだろう。
しかしどうにもジャスミンには何かしなくてはという思いが芽生え、止まることなく成長したのだ。
「でもっ、お客さんに手伝ってもらうなんて……」
「いいんですよ。何かやっていないと私も落ち着かなくって」
少し苦笑いを浮かべながら、ジャスミンは言う。
それでもリルがそういうわけにはいかないと言えば、ジャスミンも諦めて引き下がろうと思った。
リルがそう言うのであれば、それが彼女の信念なのだ。それを蔑ろにするわけにもいかない。
リルは少しだけ悩むような表情を見せると、微笑んで口を開いた。
「そういうことなら、お願いしてもいいですか? 私も一人だとちょっと不安で……」
リルは向き直って黒い髪を揺らしながら中へ戻っていった。
その後に「入ってください」という声。
その声に答えるように「お邪魔します」と一言口にしてから、リルの後を追うようにして中へ入っていった。
§
リルには友達がいない。
それは決して誇張表現などではなく、本当に友達がいないのだ。そもそもの話、リルには友達という概念の定義が分からない。
本を読めば、友達とは仲のいい間柄を言うらしいのだが、それは一体どれくらいの仲の良さなのだろう。
そんなことを考えてリルはずっと一人で生きてきた。
いや、正確に言うと一人ではない。小さい頃は祖父に育ててもらったし、町の人にも色々と世話になっている。ただ、それを“友達”という括りで括ってしまっていいのか、リルにはよく分からなかった。
数多ある物語を読めば自分と同じぐらいの年頃の女の子は、同じような年の女の子と遊びに出かけたり、同じような年の男の子に思いを寄せたりと、そういった知識は頭には入っていたのだが、身の回りに当てはまる人物がいないこともあって、それはまるで夢物語のように感じていた。
だからだろうか。
その白髪の少年に声をかけられたとき、ドキリと心臓が脈打ち、その後ろの少女の綺麗な茶髪にときめいた。
年の近い男の子に、年の近い女の子。
どうやら二人は宿を探していたようで声をかけたらしい。
それを知った瞬間、運命だと思った。今の今まで友達を知らなかった自分に、神様が与えた機会なのだと思った。
リルはそう思ったときには白髪の少年の腕を引っ張り、自身が営む小さな宿屋、『リヴィエール』に向かっていたのだ。