122.無名の町
その町に僕とジャスミンが到着したのは太陽が南より少しだけ東に傾いているときだった。
「まさか本当にあるとはな……」
それが、僕がこの町に着いたときの第一声だった。
「あって良かったじゃないの」
名前のない町――仮に、“無名の町”とでも呼ぼうか。その町はなんとも静かで、寂れていた。
「なんだか、ハンメルンみたいね」
町を見渡すジャスミンが僕と同じ感想を持ったのか、そう口にした。
「そうだな」
その言葉は何ら間違ってなどいなく、例えとしては最適だった。ただ異なっているのは、ネズミの死骸が転がっていないことと、人がちらほらと見受けられることだろうか。
見て取れる建物はどれも吹けば飛ぶような見た目で、僅かに覗く壁と壁の隙間からは小さな丸机や台所など、中の様子が丸見えだ。
少し向こうの露店街は少し賑わっているようで、この閑散とした住宅街のような場所よりも人がいるように見える。
「とりあえず、宿に向かおうか。今日中に食料を少し買って、一泊だけしてこの町を出よう」
長居は無用だ。念には念をと思って王都で調達した食料は森についてローイラの花を集めた後、また王都まで行く分ぐらいはあるはずだ。どれも保存食で味気ないが。
「それもそうね。それで、その宿ってのはどこにあるのかしら?」
「それこそ、道行く人に話を聞いて回るしかない。それほど大きくない町だ、宿も一つや二つしかないだろう」
歩いて前方に見えてきている露店街に足を向かわせながら、誰か話を聞いてくれそうな人をその視界の中から探し出す。
目につくのは顔のやつれた男、その奥では口うるさく店主に文句をつけている女性、それにへこへこと首を垂れている店主。
反対側に目を向けると、いかにも意地の悪そうな店を出している男もいる。しっかりとは確認できないが、なかなかに質の悪い果物を売っているように見える。ここから見えるだけでも半分腐った林檎を棚に並べているのが窺える。
「碌なもんじゃないな、こりゃあ……」
「あんまり治安良くなさそうね」
「ああ」
見るからに乱れている。遠くでも聞こえていた、賑やかだと感じた声は彼ら彼女らの罵詈雑言だったようだ。
その中で、目に留まったのは一人の少女だった。やんわりと茶色がかった黒髪の少女。彼女もどうやら露店で何か売っているらしく、人々の罵声に紛れて何かを必死に叫んでいるようだった。
その姿はこの露店街では言葉通り真っ当な人間に見えた。
「あの子に聞いてみようか」
僕はそう言うと露店街の喧騒に足を踏み込んだ。
四方八方から飛んでくる怒鳴り声。別に自分に向けられたものではないが、ここまで耳に投げ込まれてくると不快に感じる。
「そこの君、ちょっと訪ねたいことがあるんだが……」
少女の前、彼女がやっているであろう露店の商品棚の前に立つと、少女の青い瞳をじっ、と見据える。
「なんでしょうか?」
少女は胸元まで伸びている茶色がかった黒髪を揺らして、顔を上げた。
「宿を探しているんだが、どこにあるか分かるか?」
「宿?」
少女は露店街の喧騒に紛れて聞こえないぐらいの声の大きさでそう呟いた。
「宿だ。一つか二つはこの町にもあると思うんだが……」
僕は少女の呟きに、不安を感じるように口元に手を当ててもう一度繰り返す。
まさか、この町に宿はないのだろうか。だとしたら、食料を少し調達してこの町を出ることになる。
別に魔法の絨毯の上で寝るのは嫌ではないのだが、それでも移動というのは疲れが溜まる。どこかに身を置いて休んでおきたかったのだが。
「宿をっ! 探してるんですか!」
突然、少女はその青い瞳を太陽のようにキラキラと輝かせ、口元に添えられた僕の手を引っ張って両手で握りしめた。
「あ、あぁ」
突然のことに戸惑いつつも返事を返す。
「ついて来てください! 案内します!」
少女は僕の手をいったん離し、自分の露店から回るようにしてこちら側に出てくる。そしてまた僕の手をギュッ、と握りしめて、引っ張るように歩き出した。
「えっ、なに?」
後ろから一連の様子を見ていたジャスミンの声がする。振り返ってみると駆け足でついて来ていた。
周囲の喧騒で会話があまり聞こえてこなかったのだろう。状況を把握しているような、していないような、そんな表情を浮かべて小走りで追いかけてきている。
この露店街は意外と人が多い。道が塞がるほどではないし、それこそ王都やクエロルに比べれば雀の涙ほどだが、なんせ道が狭いのだ。必然と人垣が出来上がっていた。
僕は後ろに手を伸ばしてジャスミンの腕をつかんだ。
「ひゃう!?」
そんな声が聞こえた気がするが、僕はそれに構う事なく「ついてこい」と一言だけ口にした。
それが果たしてこの喧騒の中で聞こえたのか、口の動きで察したのか、ジャスミンは小さく頷いた。
こうして僕たちは縦に長くなりながら、人の濁流の中をかき分けて少女が引っ張る方向に足を運ばせた。