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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第8章~真っ赤な音色~
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116.静かな棺桶

 ネーヴェ王国には番人がいた。国の外からやってくる者、国の外に向かう者、それらを見極め、見送り、迎え入れ、あるときには追い返すのが仕事の番人。


 それが『心操(しんそう)の魔女』クルラと、『瞳の魔女』セラだ。


「セラ」


 奥の部屋から顔を覗かせた女性、クルラは、テーブルに向かって椅子に座っているセラの名前を呼んだ。


「なに?」


「ツルカ様からお知らせよ。テレーズ・ゼラティーゼが動き出したそうだわ。あと二日ぐらいでこの国にやって来るって」


「……敵?」


 目線を手元のティーカップに落としたまま、セラはクルラに尋ねる。


「敵……になっちゃうのかしらね。ツルカ様は可能なら追い返してほしい、って仰ってたけど」


「……分かった。準備しておく」


 そう言うとセラは、ティーカップを口元に近づけて、その中身を一気に口の中に流し込んだ。


 ティーカップをソーサーに戻すと、じっ、と扉の方を見つめる。


「どうしたの?」


 クルラの問いに、セラは視線を送った。


「誰か来たのね」


 クルラのその言葉に、セラは口を噤んだまま首を縦に振った。


 その直後。



――コンコン



 乾いた音が、古びた小屋の中の空気を震わせた。


 その少し後に、扉の金具が悲鳴を上げた。


「ここに来るのも久しぶりだな」


 そう言って、男性が一人入ってくる。その後ろをついてくるように、別の男性が敷居を跨いで中に入ってくる。


「あなたは……」


「ジークハルト・ドジソンだ。出国審査に来た」


 先に入ってきたその男性を、セラとクルラは知っていた。それこそ会ったのは彼が入国した二十年前の一度きりだが。


 その顔から若さは消えているものの、顔立ちは二十年前とはさして変わらなかった。


「お久しぶりです、ジークハルトさん。今日は妹さんは……?」


「置いてきた」


「そうですか」


 二十年前、彼――ジークハルト・ドジソンは、当時魔女狩りをしていたゼラティーゼ王国から、逃げるようにして魔女である妹のダイナとこの国にやってきた。


 随分と仲が良い兄妹だったことを、クルラは今でも覚えていた。


「そちらの男性は?」


 クルラはそう言うと、ジークハルトの後ろに立っている男性の方を覗き込んだ。


 するとその男性は前に出てくると右手を自分自身の胸に当て、小さくお辞儀をした。


「初めまして。私は推理小説家、マイクロフト・ワーカーと申します。以後、お見知りおきを」


 その自己紹介に、クルラは開いた口が塞がらなかった。セラの方は以前、無表情のまま、突然の来客者二人を見つめていた。


「マイクロフト・ワーカー……って、あの?」


「ええ。あのマイクロフト・ワーカーですよ、ご婦人」


 マイクロフトはにっこりとした笑顔をその整った顔に浮かべた。


 その笑顔を見るや否や、クルラはその紫色の瞳を輝かせた。


「ほっ、本物ですか!? 私、大ファンなんです!!」


 マイクロフトに詰め寄るクルラ。


 セラとクルラは年中この小屋で過ごしている。王都に行くこともなく、城に行くこともほとんどない。


 ずっと、この国境付近の小さな小屋で過ごしてきたのだ。


 もちろん、食料などの必要な物資は送られてくる。その中には話題の書籍なんかもあったりする。


 その送られてきた本を読むのが、クルラの生きがいにもなっていた。


「それはそれは。ありがとうございます、ご婦人」


 自分の右手を握っているクルラの両手にそっと左手を添えると、白い歯を見せて微笑む。


 その動作に、クルラは顔を真っ赤に染めた。


「クルラ、落ち着いて」


「落ち着いていられる!? 有名人が目の前にいるのよ!?」


「大丈夫、私たちも似たようなものだから」


 セラが諭すようにそう言うと、クルラはその真っ赤な顔を振り向かせ、


「そういう問題じゃないのよ!!」


 叫んだ。


「まさかここまで喜んでいただけるとは私も思わなかったよ。ところでご婦人、出国審査をしたいのだけれど、いいかな?」


 マイクロフトも少し戸惑いながら進言する。


「少し急いでいるんでね。早急にやってもらえると助かる」


 ジークハルトも付け加えるようにして言う。


「すいません、ちょっと興奮しちゃって……」


「問題ないよ。後でサインを書いてあげよう」


 マイクロフトは微笑みと一緒に、その言葉を口から出した。


「ありがとうございます。それではとりあえずお掛けになってください。今お茶を出しますから……」


 クルラはそれだけ言い残して、奥の台所に逃げるように向かって行った。


「……随分とオシャレな室内だね」


 マイクロフトは言われた通り椅子に腰を掛けながら、外側の見た目とは反して煌びやかな小屋の中を見回した。


「クルラの趣味」


 セラは無表情のまま、マイクロフトの言葉に短く返した。


 その目は依然、ジークハルトとマイクロフトを交互に見つめて、時々何かに納得したように頷いていた。


「……彼女は何をしているんだ?」


 マイクロフトはそんなセラの挙動に疑問、いや、関心を持ち、耳打ちするようにジークハルトに尋ねる。


「彼女は『瞳の魔女』だ。詳しくは知らないが、魔術で僕たちの“何か”を視ているんだろう」


「なるほど」


 マイクロフトはどちらかというと魔術とは縁遠い生活をしている。知り合いに魔女が多いわけでも、魔術を使いこなしている人間が多いわけでもない。


 こうして魔術を使っている光景を見るのはマイクロフトにとっては好奇心をくすぐるものだった。


 セラが二人を見つめる間、時計の針の音と、クルラがお茶を淹れる音だけが室内に時間を作る。


「……本当に彼女は魔術を使っているのか?」


 ただ見られるだけの行為に、少しだけ疑問を持つ。


「使ってる。あなたが危ない物持ってないか視てるだけだから」


 穏やかな口調でそう言いながらも、その視線はずっとマイクロフトに固定されていた。


「そ、そうか……」


「皆さん、お茶が入りましたよ」


 ティーカップを四つ、盆に乗せてクルラが奥の台所から歩いてくる。机の傍で立ち止まると、ソーサーを持って一つ一つ丁寧に置いていった。


「お二人はどうしてこの国の外に?」


 静かな音を立てて四つ目のティーカップを開いている席に置く。そこがクルラの座る席だった。


「……トカリナ・リャファセバル誘拐事件を知っているか?」


 口を開いたのはジークハルトだった。少し険しい顔つきで尋ねるその表情からは、どこか慎重さが窺えた。


 というのも、トカリナ誘拐事件はあまり公表されていない事件だ。それこそ、トカリナの周辺の人物と、警吏隊、軍、騎士団の上層部、それと女王しか知らない事件だ。


 だからこそこの問いをジークハルトは慎重に行った。


「もちろん知っています。そういった話はツルカ様から聞いておりますから」


「私たちはその件について調べるためにゼラティーゼ王国のハンメルンという町に向かうつもりだ。犯人を捕まえるのは無理かもしれないけど、もし可能であれば誘拐されたトカリナを連れ戻したいと思っているよ」


「もちろん、ツルカ女王陛下の許可は貰っている」


 マイクロフトとジークハルトの言葉を聞いたセラは、「そうですか」と一言呟いて目を閉じた。


 そのままの状態で、五秒ほど経っただろうか。


「……嘘は言っていないようですね。分かりました。あなた方の出国を許可します」


「随分とあっさりとしているね」


 あまりにも簡単に出国審査が終わったことに、マイクロフトは少し驚いていた。


「全部お見通しですから」


 クルラはにっこりと笑うと同時に立ち上がった。


「クルラ?」


 突然立ち上がったクルラに、セラも少し不思議そうな顔を見せる。


「マイクロフトさん、少しだけ待っていただけないでしょうか?」


 それだけ言い残すと、クルラは台所の横の扉を開けて、中に入っていった。


 少しして、その扉からまたクルラが出てくる。手には一冊の本が握られていた。


「ああ、そういえば約束していたね」


 その本を見て、マイクロフトはあることを思い出して小さく微笑んだ。


 クルラが手に持っていたのは、マイクロフトの著書だった。


「あの、サインをお願いしたいんですけど……」


 少し震えた声。赤くなった顔。


「クルラ、緊張してる」


「セラ、余計なことは言わなくてもいいのよ」


「何か書くものを……」


 マイクロフトが右手を泳がせながらそう呟くと、セラが立ち上がって戸棚のほうに歩いて行った。


 その戸棚を開けて、インクと、ペンを一本取りだす。


「どうぞ」


 ペンを受けとるとマイクロフトは「ありがとう」と一言感謝を述べてから、クルラの方に手を伸ばした。


 広げられた手の上にクルラは本を乗せる。


「表紙裏で構わないかな?」


 本をめくって、一言だけ確認をとる。


「お願いします」


 クルラの返答を確認すると、マイクロフトは慣れた手つきでめくられた本の表紙裏にペンを走らせた。


「これでいいかな?」


 本を閉じ、クルラの方に差し出した。


 それを受け取るとクルラは大事そうにそれを抱え込み、


「ありがとうございます! 大事にします!」


 そう言ってにこやかに笑った。


「喜んでいただけたようで私も嬉しいよ。……さて、それじゃあ私たちはそろそろ行こうか、ジーク」


「そうだな」


 二人は立ち上がると、扉の方に向かう。


「あなた方の旅路が良きものになるよう、私たちも祈っています」


 クルラのその言葉に背中を押され、マイクロフトとジークハルトはその小屋を後にした。



「さて、それじゃあ冒険に出発しようか」


「冒険と言えるほど大層なものではないと思うぞ」


 そんな会話を乗せて、ジークハルトたちの馬車はネーヴェ王国の国境を越えていった。




§




 ジークハルト達がネーヴェ王国を出てから三十分ぐらい経っただろうか。


「クルラ、いつまでニヤニヤしているの?」


 大事そうにサイン入りの本を抱えているクルラを見て、セラは呆れた感情を声に乗せて言い放った。


「別にいいでしょう? だって、ずっと会ってみたかった人なのよ? 少しぐらいは、ね?」


「クルラが喜んでるなら私はそれでいいけど」


 溜息を交えるセラには目もくれず、「そうね」と嬉しそうに声をあげながら、クルラは自分の部屋に戻っていった。


 そんな嬉しそうな様子を見て、セラも心の内側が少しだけ温まった。クルラが久々に見せた明るい表情だった。


 別段、クルラの普段の顔が暗いわけではない。本を読んでいるときは穏やかな表情をするし、お茶を淹れたり、飲んだりしているときはなんとも言えない癒されている顔を浮かべていた。


 けれど今日のクルラの表情は、セラにとっては少し新鮮なものに思えた。


 花が咲いたかのような満面の笑み。それこそ、魔術学校を卒業して以来だった。



「それなら、とても美味しいかもしれないわね」


 その声は、冷たい、ナイフのようだった。


 声が耳に届いたとき、セラは身を震わせた。そして自分の目に映る光景に、血も凍る思いをした。


「クル……ラ……?」


 クルラの部屋、彼女が嬉しそうに本を持って入っていった部屋の扉。その下の隙間から、まるでお茶でも溢してしまったかのように、液体が、それも真っ赤な液体が、温もりを逃がしながら花を咲かせていた。


「ご馳走様」


 その声と一緒に、扉の下端で広がった血を押しのけながらゆっくりと隙間が開く。


 そこから姿を現したのは、一人の女だった。


 黒く長い髪を垂らし、衣服は血で真っ赤に染まっていた。


 そして驚くべきはその瞳の色だった。


「……黒」


 セラは冷静だった。物事を落ち着いて観察することに優れていた。感情に身を任せず、常に自分を律していられた。


 だから、今このあり得ない状況でも的確な判断ができた。



 この小屋には、連絡用の転移魔術の魔法陣がある。音声だけを正確に届ける魔術。手のひら大の魔法陣が壁に一つ描かれている。


 発動条件はそこに手を当て、連絡先に呼びかける事。


「シュネーヴァイス城、聞こえる? セラよ。テレーズが来たわ。クルラがやられた。多分私も死ぬと思うから、後はそっちで……」


破裂(ラッツェン)


 刹那、セラが手を当てていた魔法陣が盛大な音を立てて弾け飛んだ。


「なっ……」


 飛び散った破片を避けるようにして、セラは後方に大きく飛び退いた。


「随分と元気がいいのね。活きが良いのは新鮮な証拠よ」


 振り向き、その姿を視界に捉える。女の口は不気味に吊り上がり、若干赤く染まった歯が顔を覗かせている。


 それを見た瞬間、セラは悟った。



――本当に、食べている。



 恐らくクルラは今頃彼女の胃袋の中だ。大切な友を、食い殺されたのだ。


 自然と、怒りの感情は沸かなかった。もともと感情の変化に無頓着だったセラは、今まで生きてきた中で、大きな喜びも、怒りも、悲しみも、あまり感じたことがなかった。


 時たま見せるクルラの笑った顔で、それらの感情の変化は満たされていた。


 だから今、憤りを感じないことが不思議でならなかった。


「あなたを殺すわ」


 そんな無機質な声だけが、口から感情を伴わずに零れ出た。


 この女は危険だ。生かしてはいけない。それは直感的に分かっていることだった。


 右目に、感覚を集中させる。


 セラの魔術はその瞳そのものだった。“魔眼”と呼ばれるそれは、セラが幼少期の頃に魔法陣を埋め込む形で取り付けたものだった。


 セラの家は代々、体の一部に魔法陣を埋め込むことで魔術を使う魔女の家系だった。母は喉に、祖母は両腕にびっしりと。そしてセラは己の瞳に、魔法陣を埋め込んだ。


「変わった目をしているのね」


 それが、テレーズがセラの顔を見た時の感想だった。紫色の瞳に浮かぶ赤い魔法陣。次の瞬間、セラの右目が星のような小さな輝きを見せ、それは起こった。


「あら?」


 痛みを感じるより先に、それが血に染まった床に落ちる音がテレーズの耳に届いた。


「あらあら?」


 テレーズがその真っ黒な瞳を床に向ける。そこに転がっていたのは、一本の腕だった。床に散りばめられた血とは対照的な真っ白な腕。ぽたりと音を立てて、粘り気のある赤い血が滝のように流れ、その白い腕を不気味に濡らしていた。


「そう……あなたは“視る”ことで魔術を使っているのね。面白いじゃない。その目にあるのも、恐怖じゃなくて敵対心。食べたことのない表情をしているわ。全部綺麗に平らげてあげましょう? アセナ」


 その言葉の後に残っていたのは、どうしようもなく鼻から離れない鉄の匂いと、セラの下半身だけだった。


 力を失くしたそれは、血の海に倒れ伏し、やがてそれは人としての意味を失くして一匹の狼の餌食となった。


「美味しい? アセナ」


 狼はテレーズの呼びかける声に答えることなく、真っ赤な海に浮かんでいる肉片を無心で、ただひたすらに喰らっていた。


「そう、美味しいのね。ありがとう、名前も分からない魔女さん。あなたの勇敢な味、とっても美味しかったわ」


 狼はどうやら肉を食べ終えたらしく、舌を出して床に広がっている血の海を舐めまわしていた。


 まるでもっと寄越せと言わんばかりに、食に飢えた獣のように。


「まだお腹が空いているのね。安心して、アセナ。本番はこれからだから。さ、行きましょうか」


 そうテレーズが言うと、アセナはテレーズに歩み寄り、解けるように彼女の影に吸い込まれ、姿を消した。


「ツルカ・フォン・ネーヴェ……いったいどんな味がするのかしら」


 そう呟いたテレーズは、ひたひたと血の海の上を歩きながら小屋を後にした。



 血だまりを抱えた小さな小屋は、まるで棺桶のようにそこに静かに佇んでいた。


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