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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第8章~真っ赤な音色~
115/177

115.始まりの鐘

 旅先をハンメルンに決めた三日後のこの日、ジークハルトはヴァイヤー診療所を訪れていた。


 というのも、旅先で何かあっては困るだろう、そういう理由で薬やら包帯やらを買いに来ていたのだが、もう一つ、ヴァイヤー診療所を訪ねた理由があった。


「今日、ツルカ女王陛下はここにきているか?」


 そうジークハルトが尋ねた先にいたのは、受付台の向こう側で指を滑らせながら薬を探している男性だった。


「ツルカさんなら奥の応接室にいると思う」


 その男性、レヴォルは振り返りながら言う。その手にはジークハルトが注文した傷薬。


 それをジークハルトの方に突き出した。


「そうか」


 受け取りながらジークハルトは短く返事を返した。


 ツルカ・フォン・ネーヴェはネーヴェ王国の女王だ。ただその風貌は女王のそれではなく、ごく普通の女の子のようだ。


 こうして会うのにも城に行くより街をうろついていた方が遭遇しやすかったりする。中でも彼女が頻繁に姿を見せているのがこのヴァイヤー診療所だった。


「奥方は?」


「診察室で患者さんの診察をしているよ。多分、受付台にいるより診察していた方が気が紛れるんじゃないかな」


「そうか」


 先ほどと同じ返事をジークハルトは繰り返した。


 彼らの息子、エル・ヴァイヤーはどうやら旅に出ているらしい。なんでも、ウィケヴントの毒事件の犯人を捕まえるとかなんとか。


 エルの性格はジークハルトもよく知っていたため、まさかそんなことをするとは、その話を聞くまでは思ってなどいなかった。


 『草原の魔女』コレット・ヴァイヤーはああ見えて寂しがり屋だ。家族が一人いないとなると、彼女にとってはかなり堪えるものになるのだろう。


「お代はいくらだ?」


 硬貨の入った袋を取り出して、ジークハルトは受付台の向こう側にいるレヴォルに尋ねる。


「銀貨七枚と銅貨三枚だ」


「……こういう時はサービスしてくれるものじゃないのか?」


 渋々言われた数の銀貨と銅貨を取り出して、レヴォルに手渡す。


「僕たちも商売だからな。そんなに頻繁にサービスはできないな」


 レヴォルは笑って答えた。


「さて、それじゃあそろそろ応接室に邪魔させてもらうぞ」


「ツルカさん、多分ソファに横たわって寝ているから起こしてあげてくれ」


「あ、あぁ」


 レヴォルの言葉に少々戸惑いながらも了承する。


 戸惑う、というのも、ツルカがソファで寝ているという言葉に戸惑ったのではなく、その姿を想像できた自分自身に、ジークハルトは戸惑っていた。



――果たしてその姿は女王として人前に晒していいものなのか。



 そう思ったがそこは黙ってレヴォルの言葉に首を縦に振った。



 応接室に入ってみると、まるで赤ん坊のように体を丸めてソファで寝息を立てているツルカの姿があった。


 その表情は本当に、昼寝中の幼い少女のようだった。長い金髪、いや、銀髪だろうか。その艶やかな髪を黒いソファから垂らして、穏やかな表情で静かに呼吸をしている。


 それだけだと、何か毛布でもかけてやろうかとかジークハルトも思うのだが、相手はこの国の女王で、実年齢は見た目の何倍もあって、その中身は子どもではないのだ。


 だからここでこの居眠り女王を子供のように扱う選択肢はジークハルトの中にはなかった。


 ゆっくりと近づいて、指を丸めてツルカの額に近づける。


 ほんの、悪戯心のつもりだった。


「っ!?」


 声にならない声を漏らしたのはジークハルトだった。


 ジークハルトは先ほどまで丸めていた指を解くと、両手で額を抑えた。


「私の寝込みを襲おうなんて、百年早いわよ」


 その声にジークハルトが顔を向けると、なんとも行儀よく、ソファに腰を掛けているツルカの姿があった。


 凛としたすまし顔で、ジークハルトの方を見つめている。


「何をしたんですか、女王陛下……」


 未だにヒリヒリと痛む額を抑えながら、ジークハルトは尋ねる。


「ただの氷をぶつけただけよ」


「氷って……」


「それで、ジークハルトは私に用があって来たのよね? 何の要件?」


 ジークハルトの言葉などお構いなしに、ツルカは叩き起こされたことに苛立っているのか、少しぶっきらぼうにジークハルトに質問した。


「……クルトには会ったか?」


「……あぁ、あの可愛くない情報屋ね。会ったわよ」


 どうやらジークハルトとマイクロフトに情報を提供したクルトは言われた通り女王ツルカに会いに行っていたようだった。


「まったく、情報料でかなり持っていかれたわよ。……まぁそれ以上の情報が手に入ったわけだけど」


「ハンメルンか」


「ええ。地上の事なら大まかには観察できるのだけれど、地下となると私にも分からなかったわ」


 クルトの話では、“アンネの灯火”という危ない宗教組織の根城が、隣の国のゼラティーゼ王国のハンメルンという町の地下にあるという話だった。それに加えてどうやら誘拐事件も起こしているらしい。子供を二十人近く、それも全員女の子。


 それを聞いた瞬間に、ジークハルトはトカリナ誘拐事件も彼らの仕業であると睨んだのだ。


「それで、クルトは他に何か有益な情報を持っていたか?」


「特には何も。彼ら、本当に足がつかないの。こうして居場所を特定できただけでも十分だわ。それとジークハルト、あなたハンメルンに向かうんでしょう?」


「そのつもりだが」


「なら急いだほうがいいわ。でないと手遅れになる」


 深刻な表情で話すツルカに、どこか良くない雰囲気をジークハルトは感じ取った。


「どういうことだ?」


「これは勘なんだけど、トカリナはまだ生きていると思うの。確証はないし私も見たわけじゃないから。でも、そんな気がする。だから、出発するなら早めに行ってちょうだい。そっちは全部あなたに任せる」


 そう言ってツルカは黒いソファからその小さな体を持ち上げた。


「女王陛下はこの件に関しては追及しないのか?」


「……そうしたいのは山々なんだけど、少し面倒なことが起きちゃってね」


 小さくため息をつくと、ツルカはぼんやりと南側の壁を見つめる。


「何が……?」


「テレーズ・ゼラティーゼが動き出したわ」


 その言葉が示す意味を、ジークハルトは一瞬で理解した。


「攻めてきていると?」


「そう。それも単騎で。だから、もしもの時のために準備をしておかなくちゃいけないの。だからトカリナのことはあなたに任せる。私は城に戻ってテレーズの対処の準備をするわ」


 その表情は先ほどの寝顔からは遠くかけ離れた、女王のそれだった。国を守るこの国の最高権力者。国民を導き、国民と共に歩まんとする女王。決意に固められたその顔は、決して見た目通りの年相応の女の子ではなかった。


「分かった。そういう事なら僕も急いで出立しよう」


 そうジークハルトが返答するとツルカは振り返り、微笑んだ。


「それじゃあ、お願いね」


 それだけ言うと向き直って応接室を出て行った。




§




 城に戻ったツルカは自室に入ると、深いため息と一緒に少しだけ豪勢なソファに腰を下ろした。



――テレーズ・ゼラティーゼが動き出した。



 なぜ今になって動き出したのか、ツルカは分かっていた。


「二十年もあの体で生きれば、ガタがきても当然でしょう」


 テレーズ・ゼラティーゼは約二十年前に死んでいる。魔女の疑いをかけられ、当時魔女狩りに躍起になっていたテレーズの兄、ランディの命令のもと、槍で身体中を貫かれた。


 それなのにどういうわけか、テレーズ・ゼラティーゼは生きている。それはまるで動く死体としか形容できないものだった。


 そんな死体で二十年間生きてきたテレーズを、ツルカはずっと見守っていた。いや、見張っていたのだ。もし自分の国に危害を加えるような挙動を起こせば迅速に対応できるように。


 そして、ついに動き出したのだ。


 テレーズは「味に飽きた」と言っているが、正確には違う。


 テレーズの身体(いれもの)そのものがもう保たないのだ。


 テレーズは二十年間、人の血肉を食らって生きてきている。言い換えれば他人の身体に住まう精霊を自分の体に取り込んで、どうにかこうにか生きている状態だ。


 人の体には精霊が宿っている。それは老若男女関係なく、だ。もちろんツルカにもそういった精霊が宿っている。


 その精霊は寿命とともに減少し、やがて無くなり、それと同時に人の体が死に絶えるのが自然な流れだ。もしくは誰かに殺されたり、事故に遭って死んだりすると、自然と精霊はその肉体から出て行く。


 つまり、死体に精霊はいないのだ。


 それをテレーズは無理やり人の血肉を取り込むことで自分の死体に精霊を押し込んでいる。


 ただ、その押し込められた身体(いれもの)の方は自然の摂理に反する行為に、悲鳴を上げているのだ。


 それをテレーズは「味に飽きた」と錯覚しているだけだ。


「どこまでも欲望に忠実な子ね。本当に、哀れだわ」


 溜息をつきながら、ぼんやりと部屋から見える南の空を眺める。


「あと、二日後ぐらいかしら。この国に着くのは」


 ぼんやりと呟くツルカの言葉は乱雑な、部屋をノックする音にかき消された。


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