114.冷たい足音
「テレーズ女王陛下、お食事の準備ができました……」
その声に呼び起こされるようにして、テレーズ・ゼラティーゼはその瞼を重たそうに開いた。ウサギや猫のぬいぐるみに埋もれた体を起こして、顔を声のした方に向ける。
そこにいたのはゼラティーゼ王国の鎧に身を包んだ兵士と、その兵士に後ろで腕を組まされている若い娘だった。
恐怖に慄くその表情を見て、テレーズは気だるげにため息をついた。
「そこに置いておいてちょうだい」
そう言ってもう一度ふかふかのベッドに倒れこんだ。
「承知いたしました……」
兵士は娘から手を離すと、静かに扉を開けて部屋を出て行った。
「……そこのあなた、こっちに来ない?」
横たわった状態でテレーズは扉の前で立ち尽くしている娘に声をかけた。
「はっ、はい……」
声を震わせる娘は、一歩一歩、まるで壊れかけの吊橋を渡るようにテレーズの声がするベッドの方に近づいた。
ひんやりとした床を、娘の白い足がゆっくりと踏みしめる。
「あの、女王様、これは……」
ベッドのそばまで来た娘は少し震えた声で尋ねる。
その方に首を少しだけ向け、テレーズは自分の腕を伸ばして娘の腕をがしりと掴むと、思い切り自分のベッドに引きずり込んだ。
「きゃっ!?」
「ねぇ、あなた、ちょっと笑って見せて?」
娘の意表を突かれた一声など意に介さず、テレーズは淡々とその言葉を口にした。
娘の方は何が何だか分らず、目に涙を浮かべ、テレーズの不気味で妖艶な笑みを見つめているだけだった。
「あら、聞こえなかったかしら? 私に笑って見せて? ね?」
「ひっ!?」
従わなければ殺される、そう娘は直感的に感じた。ここ最近、このゼラティーゼ王国が乱れ始めていることに、娘は気がついていた。
女王がかなり乱心していることは噂には聞いていた。しかし、ここまで悪魔のような形相を浮かべることは、娘の思ってはいなかったのだ。
「こ、こう、ですか?」
娘は笑って見せた。
恐怖の上に笑顔を厚塗りして、恐怖がバレないように、けばけばしいぐらいの感情の厚化粧で、本心を隠そうとした。
ただ、厚化粧というのは随分とわざとらしく見えてしまう。
「ああ、ダメよ。全然ダメ。それは心からの笑顔じゃないわ。偽物の笑顔。味に飽き飽きしていたから、たまには恐怖以外も食べてみたかったのだけれど、表面上は笑っていても、内面は今にも気を失いそうなほどに恐怖している。これじゃあ、いつもと変わらないじゃない。ね? アセナ」
最後の呼び声に、獣の唸り声がする。
女王が犬を飼っているらしいこと、それはゼラティーゼ王国の国民であれば皆知っていた。姿こそ見たことはないが、それこそ忠節で、賢く、愛くるしい犬なのだと、娘は思っていた。
「なに……これ……」
そこにいたのは犬でも何でもなかった。黒い毛皮の、大きな化け物。犬のような形をしているが、目が四つあるのと、その大きさから犬でないことは明らかだった。
「アセナ、お食事の時間よ。ごめんなさいね、いつも似たような味ばかりで」
ベッドの傍らで唸る獣に、テレーズは優しく声をかける。
「何を……」
感情の厚化粧のはがれた娘は、もう顔を繕おうとはしなかった。そんな余裕はどこにもなかった。
「それじゃあ、可愛いお嬢さん? あなたの命を、私にちょうだい?」
直後には、テレーズのベッドの布団たちがアセナの口から零れ落ちた赤い血を、まるでそれを欲していたかのように吸い取っていた。
「やっぱり、つまらない味ね」
テレーズは味に飽きていた。毎日のように同じ味の食事。同じ表情の食事。この国の人間は皆、テレーズを前にすると恐怖に顔を歪ませる。
最初はそれがテレーズにとってはご馳走だった。
けれど今となってはその表情は胸やけを起こしそうで、飽き飽きしていた。
「この国の人間ではダメね。みんな怖がってしまうから。……私が女王だからかしら? 位の高い人間を前にして皆が肝を抜かれているのね。
……だったら、同じ地位の人間なら、別の味がするのかしら? どこかの国の女王なら」
そう考えるものの、自分と同じように国を治めている女王に心当たりが――
「あら?」
一つだけ。テレーズは一つだけ女王が治めている国を知っている。かつて、名前も思い出せない兄に教わったことがあった。
隣のネーヴェ王国。その国を治めている者が女王であると、そう聞いたことがあった。
「名前は、たしか……ツルカ・フォン・ネーヴェ……」
その名前を口にした瞬間、胃袋がきゅっ、と閉まるのを感じる。それと一緒に腹の虫が産声を上げたがごとく鳴き出した。
「アセナ、次のご飯が決まったわ。少し遠いけど、ネーヴェ王国に行きましょう。きっと私たちを満たしてくれるはずよ」
ベッドに顎を乗せて甘えてくる獣の鼻を撫でながら、テレーズは優しく言った。それに返事をするように、獣はその大きな鼻を鳴らした。
「それじゃあ、行きましょうか」
そう言ってテレーズはベッドから這い出ると、ひたひたと音を立てて冷えた床を踏みしめて、自分の寝室を後にした。




