113.誉め言葉
「失敗したわね」
その声に、ヘンリックは項垂れていた頭を持ち上げる。
そこには声の主の姿はなく、ただただ冷め切った鉄柵が並んでいるだけだった。
「ええ、少しへまをしてしまいましタ」
「ヴァイオリンも壊しちゃったんでしょう?」
「あはハ……」
笑って、誤魔化すようにヘンリックは頭の後ろを掻く。
「本当だったら殺して処分したいところだけれど、良い器を見つけたわね。だから殺すのは勘弁してあげる」
「もったいないお言葉デス」
「でも、しくじった罰は受けてもらうから、そのつもりでいてちょうだい」
「もちろん、そのつもりですとモ。どのような罰でも受け入れまショウ」
そう言ってヘンリックは誰もいない空間に向かって、座ったままの状態で小さく頭を下げた。
「それじゃあ、そういうことだから。覚悟だけは決めて待っておいてちょうだい」
「分かりましタ」
ヘンリックのその言葉を最後に、スッ、とヘンリックのいる牢屋から靄のようなものが抜け出ていく。
「これも、“アンネの灯火”のお導きですかネ」
そう呟くとヘンリックは柵を取り付けられた申し訳程度の空気穴から、爛々と輝く月をぼんやりと見上げた。
§
目が覚めてからは、割と普通だった。
目が覚めて、昨日の散らかしっぱなしの荷物をまとめていると、ジャスミンが部屋に入ってきて、「おはよう」と一言だけ挨拶。その挨拶に僕も機械的に「おはよう」と返した。
その後は昨日の朝も訪れたちょっとしたカフェに行き、昨日と同じようにカウンター席で朝食をとることになった。
「それで、今後の動きを一応説明しておくけど」
「ふぉーいえば、ふぉうあっあわえ」
サンドイッチを頬張りながらジャスミンが言う。まるでげっ歯類のごとく口の中にサンドイッチを頬張る姿は、さながら小動物のようだった。
「お前、もの食べながらしゃべるなよ」
するとジャスミンは口に詰めたものをごくりと音を立てて飲みこんだ。
「食べてる途中に話しかけてくるエルが悪いんじゃない」
昨晩の慌てふためく姿からは想像もできない、ツンとした態度でそう答える。
「まあ、そうなんだが……。とりあえず、今後の予定の説明だ」
「はーい」
その返事を聞きながら僕は温かいコーヒーを胃袋に流し込むと、一度小さく息を吐いてから口を開いた。
「とりあえず、今日の午後にはクエロルを出て王都に向かう」
「うん」
「その後には名前のない町に行く。その町のこと、覚えているか?」
「地図に町の場所だけ書いてあったやつよね。覚えてるわ。でも、本当にあるか分からないじゃない。大丈夫なの?」
少し不安げな表情を見せるジャスミン。確かに、場所だけ書いてあって名前がない町なんて、不安に思わないわけがない。ただ、王都から大森林の間にある町がその名前のない町だけなのだ。一縷の望みにかけてそこを目指すしかない。
「まあ、念のため王都では多めに食料を買っておこう。幸い、お金はまだまだあるから」
僕がそう言うと「そうね」とジャスミンは軽い相槌を打って、サンドイッチの残りをその小さな口に詰め込んだ。
「……君たち、王都に向かうのかい?」
突然、カウンターの向こう側でコーヒーを淹れている爽やかな顔立ちの男性がそんなことを尋ねてくる。
「ええ、まあそうですけど。何か問題でも?」
「いや、最近、王都で誘拐事件が多発しているらしくてね。もし王都に行くのであれば、気をつけてね、って言おうと思って……」
――また誘拐事件か。
確かに誘拐事件自体はネーヴェ王国では稀だが、他の国はそうでもないらしい。それでも、ハンメルンのときといい、昨晩のジャスミンの件といい、誘拐事件が多すぎる気もするのだが。
「ありがとうございます。気をつけます」
忠告はありがたく受け取っておこう。
「それで、エル。出発まではどうするつもりなの?」
そう言ってジャスミンが美味しそうにお茶を啜る。
「そうだな、僕はこの町の警吏所に行こうと思う。ヘンリックのことも気になるからな。お前も来るか?」
僕が尋ねると、ジャスミンは無言で頷いた。
「そうと決まれば早速行くぞ」
そう言って僕は立ち上がり、カウンターの向こう側の男性に朝食の代金を渡してカフェを後にした。
§
警吏所に着くと、僕とジャスミンは昨晩通報した者だと言って、中に入れてもらった。
なぜか通してくれた男性警吏は浮かない顔をしていたが、「こちらです」と言って僕とジャスミンを取調室らしき場所に案内した。
「こんにちは」
そう言ってきたのは、おそらく部屋で待っていたであろう警吏だった。昨晩、僕がヘンリックを連れて行ってもらったときに着てくれた警吏だ。
「お嬢さんの方はご無事で?」
「ええ、まあ。見ての通りです」
警吏のその言葉に適当に返事を返す。
「だれ?」
ジャスミンが小声で僕に耳打ちするように尋ねてくる。
「昨日お世話になった警吏の人だ」
「そう」
それだけ言うとジャスミンは警吏に向かって小さく会釈をした。
「それで、彼から何か話は聞けましたか?」
僕が尋ねると、この警吏も眉間にしわを寄せて、少し困ったような、浮かない表情を見せた。
「それがですね……彼、どういうわけか精神の方に異常を来たしているようで、まともに会話すらできない状態なんですよ」
「なぜ、そんなことに?」
少なくとも、僕がヘンリックをこの警吏に引き渡した時はまともな表情で、「では、まタ」と呟いていた。
「それが分からんのですよ。今朝話を聞こうと思って彼のいる牢屋に向かってみたら、口をあんぐり開けて、よだれを垂らして空気窓をぼんやりと見つめていました。呼びかけても答えるような仕草もなく……」
「そうですか……」
ジャスミンも話を聞いて思うことがあったのか、少し顔を俯かせていた。
結局、その場では何の情報も得られることがなく、警吏に聞かれた質問に答えるだけだった。
その中で驚いたのがジャスミンの言った、「ハンメルンでの誘拐事件の犯人がヘンリックだ」という事だった。これについて、僕はその場では詳しく聞かなかったが、後でもう少しこのことについてはジャスミンに尋ねようと思う。
「さて、それじゃあ出発しようかしらね」
クエロルの町の外。小さかった絨毯を魔術で大きくしたジャスミンは、その大きなふわふわと浮いている絨毯にジャンプするようにして飛び乗った。
「行先は王都でいいのよね?」
振り返り尋ねる。
「あぁ」
そう短く返事をしながら、僕も少しだけ浮いている絨毯に足を乗せて体を持ち上げる。
「乗ったわね。それじゃあ……」
僕が乗ったことを確認したジャスミンは、絨毯の中央まで這うようにして移動すると、その中心の黄色い宝石に触れる。
「私たちを王都まで連れて行って?」
すると絨毯はふわりと風を受けるかのように浮き上がり、少しずつ前進してその速度を上げ始めた。
「ねぇ、エル」
少し進んだところで、ジャスミンがポツリと口を開く。
「なんだ?」
「“アンネの灯火”って何か分かる?」
「いいや」
その言葉は、昨晩ヘンリックが口にしていたものだった。初めて聞いた言葉で、一体何のことを言っているのか分からなかった。
「アンネ……って、もしかしてアンネ・ワルプルギスのことかしら……?」
「それって、ワルプルギスの夜を引き起こした魔女だろう?」
「ええ、そうよ。灯火って言うから『想火の魔女』アンネ・ワルプルギスのことなんじゃないかと思ったんだけど……どうしよう、そんな気がしてならなくなってきたわ」
そう言われてしまっては僕の方もそんな気がしてならない。
「ただの思い過ごしにしてはしっくりきすぎている感じはするな」
正直なことを言ってしまうと、ウィケヴントの毒事件よりエライことに首を突っ込んでしまっている気がする。
いや、確実に突っ込んでいる。
「私たち、もしかしたらとんでもないことに首突っ込んでるのかも……」
ジャスミンも全く同じことを考えたようだ。どういう理由か分からないが、一度連れ去られかけている。その時点で、ハンメルンを含める一連の誘拐事件に関しては無関係ではなくなってしまっている。
もしかしたら、噂の王都での誘拐事件も無関係ではないのかもしれない。
「とりあえず、このことに関してはもうこれ以上は……」
「いえ、ここまで首を突っ込んだのなら私を誘拐しようとした理由を暴いてやろうじゃないの。ヘンリックさんは誰かに命令されて人を誘拐していたんでしょう? だったらその人をとっ捕まえるまでよ」
ああ、そうだった。この少女はこういう人間だったのだ。
「僕は手伝わないぞ」
「エルも無関係じゃないのよ? これに関しては手伝ってもらうわ。それにエルもちょっと気になるでしょう?」
「それは、まあ……」
気にならないと言ってしまえば嘘にはなるだろう。だからといってわざわざ危険なことに首など突っ込みたくはない。
「……そうだ、お前、ウィケヴントの毒事件はどうするんだ」
「あっちは……そうね。情報が足りないからいったん保留で」
そんな簡単に旅の目的を変えてしまっていいのか。
そう思いつつもあえて指摘しないことにした。僕が何か言っても自分のことは曲げないのがこのお転婆少女だ。
「そういうことだから、とりあえずは、ヘンリックさんの言葉を頼りに……」
そこまで言ったところで、ジャスミンの表情が突然曇った。
「どうした?」
ジャスミンは曇った顔を少し俯かせて、そしてなぜか少しだけ肩を震わせて。
「……本当に、嬉しかったのになぁ」
そんなことを呟いた。
その様子を見て、僕は何も言えずに肩で泣いている少女をただただ見つめていた。
こういうとき、母だったら抱きしめて慰めるだろうなとか、父だったら優しい声掛けをするのだろうなとか思いながら、僕は体が固まったように動けないでいた。
そういう、慰めるやり方を知っているのに僕はまるで臆病で、手も足も動こうとしなかった。
ジャスミンが泣いている理由も、察しはついていた。
ヘンリックの誉め言葉が本当に嬉しかったのだろう。きっと彼女は親意外に褒められたことがほとんどないのだ。
だから他人であるヘンリックに容姿から性格まで褒められて、本当に喜んでいたのだ。
さすがに僕もこの空気に耐えられるほど鋼の心を持っているわけじゃない。何か言葉をかけてやろうと励ましの言葉を頭の中で書き起こす。
「あー、えーっと」
言葉を詰まらせつつも、何かの文字を押し出すようにそれだけの感動詞が先に口から零れ落ちる。
「お前は、頑張り屋だよ」
そんな思ってもいないようなありきたりな誉め言葉がぽろりと、少しばつが悪そうに音もなく僕の口から発せられた。
「え……」
「まぁ、その、なんだ。あんまり気にするな」
そんな風に言い直す。
僕自身もそんなことを言ったせいで恥ずかしくなり、目線を合わせまいと顔を俯かせる。
ちらりとジャスミンの方に目線を恐る恐る向けてみる。
未だに涙があふれているジャスミンの顔にはどこか安心したような表情が浮かび上がっていた。
「やっぱり、君って優しいのね」
涙をぬぐいながらジャスミンは笑って言った。
「……別にそんなんじゃないよ」
「またまたご謙遜を」
いつか交わしたような会話だった。
その会話を乗せて、魔法の絨毯は僕たちを王都に運んで行く。