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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第8章~真っ赤な音色~
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110.ヴァイオリンの音色~2~

 はち切れそうなお腹をさすりながら、ジャスミンは宿泊している宿の自分の部屋に戻った。


 ハンメルンで泊った宿とは違い、しっかりと客を受け入れる体制のできた、いい宿だった。食事は出ないが、部屋は綺麗で、一人部屋なのに二人ぐらい寝転がれる大きなベッド、客が暇をもてあそばないための、本棚に収納された幾つもの本、テーブルの上にはクエロルの町らしくティーポットとパック詰めの茶葉と、今日買ったようなクッキーも置かれていた。


 そしてそのティーポットに入れる水を沸かすためか、小さめの暖炉と、その上にはヤカンも完備されている。


 宿そのものに大浴場もあり、そこで一日の疲れと汗をたった今ジャスミンは流してきたところだった。


 脱衣所を出たところにはクエロルの茶葉を使ったミルクティーの販売所があったため、その美味しさのあまり何倍も飲んでしまっていた。


 晩御飯でさえパーティーを称してかなりの量を食べていたため、現状、お腹が文字通りいっぱいだった。



炎魔術(ランメ)


 髪を乾かそうと思って、四素因魔術の一つ、炎魔術を使う。これが本当に便利で、これを習得するために魔術学校に入るような輩もいる。そういった奴らはすぐに授業についてこれなくなり、魔術学校をやめていくわけだが。


「あれ?」


 呪文を唱えてすぐに、その手元の違和感に気づいた。


 温かさを感じないのだ。熱が出ていない。


 ジャスミンの経験上、初めてのことだった。だが魔術学校を飛び級で進級し、さらには首席で卒業したジャスミンの脳はその原因の究明に移っていた。


「命令の阻害、かしら。でもあれって、精霊同士の混線でしょ? なにか混線するような事、したっけ……?」


 ぶつぶつと呟きながらその原因を考える。自分の濡れたままの茶髪のことなど、とうに頭から抜け落ちていた。



――コンコン。



 突然、そんな渇いた音が室内に響く。しかしぶつぶつと呟いているジャスミンの耳にはその音は届いていないようで。



――コンコン。



 同じような音がもう一度、ジャスミンのいる部屋に響く。その音がようやくジャスミンの耳に届いたか、ハッと我に返り、立ち上がって扉の傍まで歩み寄る。


 エルが来たのだろうと思い、扉の取っ手をひねる。きっと、明日以降の説明をしようと言うのだろう。


「はーい」


 そう言いながら扉を開ける。


「こんばんは、ジャスミンさん」


「ヘンリックさん?」


 ジャスミンが明けた扉の向こうにいたのは、昼間にジャスミンが金貨を渡したヘンリックだった。


 あの時とは違い、どこで調達したかも分からない、茶色っぽい道化師のような服を着ている。手には変わらずヴァイオリンのケースが握られていた。


「ヘンリックさん、なぜここに?」


「ああ、いエ。たまたま偶然といいますカ、あなたから頂いた金貨でこうして服を買イ、宿をここに取ったのですガ、たまたまジャスミンさんの姿を見かけてデスネ、もう一度お礼申し上げたいと思いまシテ……」



――お礼なら昼間の演奏で充分なのに。



 そう思ったが、人からの感謝を無下にできるほど、ジャスミンの心は冷たくはなかった。エルであれば「お気持ちだけで結構です」の一言で追い返してしまいそうだが。


「そういう事だったら、少しだけ私とお茶しませんか? このクエロルはお茶で有名ですし、私とエル……えっと、もう一人いた男の子も旅は初めてなので、旅人のヘンリックさんにお話を伺えたらな、と思っていたんです」


 ジャスミンにとっても、旅になれている人間の言葉が貰えるのなら願ったり叶ったりだ。そのあたりのノウハウは、自分たちよりヘンリックの方が持っているのだから、それを教えてもらえるに越したことはない。


「私でよければ、ええ、是非そうしたいデス! ジャスミンさんのような素敵な女性とティータイムをお供できるのであれば、喜んであなたのご相談でも何でも聞きまショウ」


 そう言って、ヘンリックはにっこりと笑う。


 その様子を見たジャスミンは、「それじゃあ、どうぞ」と言って、早く中に入りたそうにそわそわとしているヘンリックを部屋に招き入れた。


「今お茶を淹れますね」


 今から水を汲みに行ってもいいのだが、わざわざ外に出るのが面倒に思ったジャスミンは、自分の荷物から水の入った水筒を取り出すと、その中身を暖炉の上に置いてあるヤカンに移し替えた。


 近くに置いてあったマッチを擦って、暖炉に入れられている木々に火をつけた。パチパチと音を立てて燃える薪木を見ながら、後ろで机に向かって座っているヘンリックに声をかける。


「ヘンリックさんは旅人さんなんですよね? どこからこのクエロルに?」


 するとヘンリックは自分のことを楽しそうに話し始めた。


「私は、南にある帝国から来まシタ。しばらくは帝国の領内で旅をしていたのですが、どうにも居心地が悪くてデスネ、このゼラティーゼ王国にやってまいりまシタ。いやー、いい国ですよ、ここハ」



――盗賊に襲われたのに、そんな風に思ったんだ。



 ジャスミンは、そんな心の声を抑え込んで、話を続けようと一つ、ヘンリックに尋ねる。


「どうして、帝国は居心地が悪かったんですか?」


「あの国は戦争が終わった今でもゼラティーゼ王国を目の敵にしていますからネ。ピリピリとした空気で、とてもではないデスガ、あそこに長居はできませんヨ」


 確かに、帝国は軍部の権力がかなり強いと、ジャスミンは聞いたことがあった。そういった組織の圧力がある、というのも考えられるだろう。


「ジャスミンさんはどちらカラ?」


 今度は同じような質問をヘンリックがジャスミンに投げかける。


「私とエルはネーヴェ王国から来ました。つい数日前までハンメルンの町にいたんですよ」


 そんな風に、簡単にこれまでの道のりを説明する。


「ハンメルンにいたのですカ。あそこは今酷い有様でしょうニ」


「確かに酷い場所でしたけど、泊めてくれた宿の人はいい人でしたよ」


 言いながら、悲鳴を上げかけているヤカンを持ち上げて机の傍まで持ってくると、茶葉が入ったのパックをティーポットの中に入れてから、そこにゆっくりとお湯を注ぎこんだ。


 茶葉から独特な香りと、オレンジ色が漏れ出て、透明なティーポットを満たす。


「それはそれハ。そういう事でしたら、私も一度足を運んでみればよかったですネ。人との出会いは旅の醍醐味ですカラ。ところでなんですガ……」


「はい?」


「ジャスミンさんと彼……エルさんでしたカ。お二人はどのようなご関係デ?」


 その質問に、ジャスミンはティーカップに淹れるお茶を危うく溢しそうになる。


「……へ?」


 ジャスミンにとって、その質問を聞くのはこのクエロルの町では四回目だった。一度目は昨日、この宿にチェックインしたとき。二度目は今朝、ちょっとしたカフェで朝食をとっているときにカウンターの向こう側の爽やかな顔立ちの男性に、三回目はエルと二人で街の中を散策しているときに。


 別に、その質問自体を気にすることはないのだが、その質問をした人の誰もがその後に「夫婦だと思った」などと言うのだ。


 そのことに関して、いちいち否定するのが面倒だとか、そう見えているのが恥ずかしいとかそういったことは全くなかったのだが、ジャスミンにとってその質問は心臓が大きく音を立てる質問になっていることには変わりなかった。


「なぜ、そのようなことを?」


「いえ、もしお二人がご夫婦であれば、昼間の私の言葉はエルさんの気をさぞ悪くしただろうと思いまシテ……」


 そういうことか、とジャスミンは思った。確かに、自分とエルが夫婦であれば昼間のヘンリックの言葉は夫たるエルにはいいものには聞こえないだろう。


「いえ、別に私とエルはそういう関係じゃないので……。ただの、旅仲間というかなんというか……」


 実際、ジャスミンには今の自分とエルの関係性を表す言葉が見つからなかった。ただ一緒に旅をしている一点をとれば、「旅仲間」になるのだろうと思い、その言葉を選んだ。


「おや、そうでしたカ。それなら良かっタ。私の告白が無駄にならずに済んだのデ」


 そう言ったヘンリックはジャスミンが淹れたばかりのお茶を胃袋に流し込んだ。


「それで、その、あれって……」


 ジャスミンは顔を赤らめながら、昼間のヘンリックの言葉を文字に起こすようにして思い出す。


 ジャスミンにとっては異性にそんなことを言われたのは人生で初めてのことだった。そもそも、男の人とまともに関わることがないのは事実だが。


 そういえば一人だけ思いっきり愛をぶつけてきた人物がいたな、と顔を思い浮かべる。そこにあったのはジャスミンの父だった。確かに異性で熱烈な愛を投げつけられたことはあったが、それは親子愛だろうと思い、早々にその思考に蓋をした。


「もちろん、本気ですヨ?」


 にっこりと笑って、ヘンリックはそう返した。


 それがヘンリックの回答だった。その一言が、ジャスミンの心臓に追い打ちをかけ、その鼓動を早まらせる。


「あなたのその翡翠のような瞳、見たことのない茶髪、整った顔立ち、その小さな体から滲み出る優しさ、その全てに惚れているのデス。ジャスミンさんにとって、あの男が何でもないのであれば、良ければ私を選んでいただきたイ。あなたがどのような目的で旅をしているのか、私は知りませン。ですが話を聞いて手を貸すことはできマス。旅に慣れた私の方が、その目的も達成が早いと、私は思うのデス」


 雪崩のように零れ出る彼の言葉をジャスミンは黙って聞いていた。というより、言葉を挟む余地がなかった。その言葉たちは途切れることなく紡ぎだされる上に、ジャスミンにはその言葉たちに対してどう答えていいのか分からなかった。


「あのー、えっと、つまり、私にヘンリックさんと旅をして欲しいと?」


「はイ」


 その目を見て、ジャスミンはヘンリックが本当に自分と旅をする気なのだという事を悟った。


 ジャスミンだって、その方が効率もいいし目的であるウィケヴントの毒事件の犯人も見つけられる。なんせ旅のノウハウはヘンリックの方がエルより上なのだから。


 そのことを承知した上で、ジャスミンの答えはずっと初めから変わっていなかった。


「ごめんなさい、ヘンリックさん。お気持ちは嬉しいんですけど、今はエルと旅がしたいんです。何でかって聞かれたら、分からないんですけど……エルと一緒に居たいっていうか、なんというか……。ああ見えて結構優しいんですよ。本当はこの旅に来るつもりなんて無かったのに、文句言いながらついて来てくれてるし、結構私の事ちゃんと見てくれてるし……あっ、えっと、そうじゃなくって!」


 そんな風に思ったことを口にしているうちに、自分が何を言っているのか分からなくなり、慌てて話に区切りをつける。


「とにかく、あなたの好意は嬉しいんですけど、その、ごめんなさい」


 そう言ってジャスミンはぺこりと頭を下げた。


 その一瞬、淀んだ空気が室内を漂う。


「……そういう事なら仕方がありませんネ。でしたらせめて、私の愛を、このヴァイオリンの音色であなたに送りたイ」


 そう言って、ヘンリックは昼間のように慣れた手つきでヴァイオリンをケースから取り出した。


「ちょっ、ちょっと待ってください! いくらなんでも、その、周りの部屋に迷惑というか、それに今は夜ですし……」


 ヴァイオリンを構えて弓を弦にあてて今にも弾こうとするヘンリックを、ジャスミンは慌てて止めようとした。


「ご安心くださイ。()()()()()()()()()()()


「どういう、こと……?」


 ジャスミンはそのヘンリックの言葉に違和感を持った。誰にも聞こえないわけがないのだ。贅沢にもこの宿の壁は厚いとは言えないし、隣の部屋はエルが泊っているが、もう反対隣は全く知らない人が泊っている。こんな夜に隣からヴァイオリンの音が聞こえてきたら迷惑なはずだ。


 それをヘンリックは、聞こえないから大丈夫だと言う。


 明らかに、ヘンリックの言葉が異常なものだと分かった。いや、それだけではない。


「ヘンリックさん、なにを考えて……」


 静かな声で尋ねると、ヘンリックがその笑顔を不気味に歪ませた。


 その顔は、ジャスミンの知る上で、過去一番恐ろしい顔だった。ジャスミンを虐めてきたいじめっ子の顔とも、ジャスミンを嘲笑ってきた教師たちとも違う、まるで悪魔のような顔。


 その顔を見た瞬間、ジャスミンの体は咄嗟に身を護る動作をとっていた。どんな生き物でも自分より恐ろしい敵を見た時にとる行動。“逃走”だ。


 ジャスミンは急いで踵を返し、部屋の扉を開けて外に出ようと扉の取っ手を掴んだ。その瞬間。


「……っ!?」


 ビチッ、と音を立ててその手が弾かれた。


 その感覚を、ジャスミンは知っていた。


「結界、魔術……」


 それは加護魔術の一つだった。結界魔術は決して簡単な魔術ではない。魔女クラスの者でしか成功させるのは困難だ。


 もちろん、この空間でそんな魔術をジャスミンは使っていないし、使えない。


「まさか、ヘンリックさん……?」


「ネーヴェから来たと言っていましたが、やはり魔術の知識はあるようですネ。なんと幸運なことカ。これも、“アンネの灯火”のお導きでしょうカ」


「……!?」


 ヘンリックが何を言っているのか、ジャスミンにはよく分からなかった。ただ一つ、ヘンリックが自分に危害を加えようと居ているのは明らかだった。


「何を、するつもりですか?」


「……そうですネ。彼女のもとに連れて行くと、大抵の場合壊れて使い物にならなくなるらしいので、種明かししておきますネ。……ハンメルンで大規模な誘拐事件があったの、知ってまス?」


「なんであなたがそれを……」


「あれ、私がやったんですよネ」


「……え」


 ヘンリックの口から紡ぎだされた言葉に、ジャスミンは驚きを隠せなかった。


 それと同時に、彼に対して沸々とした怒りを、憤りを覚えた。


「あなたが……」


 捕まえなければ、とジャスミンは思った。ヘンリックは自白した。ならば彼を捕まえて、然るべき組織に預けるべきだ。


拘束の光(ヒト・アンゲン)


 ジャスミンはそんな魔術を唱えた。この魔術はネーヴェ王国でひったくりの犯人とかを捕まえる時に使われる魔術だ。それほど難しくないし、初級の魔術のはず、なのだが。


「あれ?」


 ジャスミンはその魔術をヘンリックにかけたはずだった。


 本来であれば光の縄のようなものが出て、対象の体に巻き付く。それが、出ていないのだ。


 魔術が発現していない。


「残念ですけど、ジャスミンさんは今は魔術が使えませんヨ。昼間の私の演奏を聞いてしまいましたからネ」


「……魔法道具ね」


「ご明察」


 ジャスミンは魔法道具を売っているカチェルア魔道具店の娘だ。それぐらいの予想はできたし、これなら色々と納得がいくというものだ。


 まず、髪を乾かそうとしたときに炎魔術が使えなかったこと。あのときは精霊の混線ではないかと予想していたが、原因はどうやらヘンリックの持っているヴァイオリンにあったようだった。


 それに加えてこの部屋に張られた結界。これも何らかの魔法道具だと、ジャスミンは考えた。男性が一つだけ魔術が使えるというのはネーヴェ王国だけの話だ。とてもではないが国外の人間には適用されるものではない。


 そうなるとヘンリックはいくつも魔法道具を持っている可能性が高い。


「あなた、私をどうする気?」


「おや、礼儀正しい態度がなくなりましたネ。せっかく大人らしい女性になっていたのに、勿体なイ」


「茶化さないで。あなたの目的を教えて」


 声の音を下げ、恐怖で震える声を悟られないように尋ねる。


「うーん、それは連れて行く道中で教えるという事デ。その途中で暴れられるのもあれですかラ、とりあえず私の演奏を聞いてくださいナ」


 そう言ってヘンリックはヴァイオリンを構える。


「まさかあなた……!」


 その直後、ヘンリックがニィッと頬を吊り上げる。


 そして一音だけ、軋むようなヴァイオリンの音が室内に響き渡る。


 その直後、ジャスミンの意識はその音の余韻に引っ張られるようにして、真っ暗な世界に引きずり込まれた。


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