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赤い夜に、魔女は泣く  作者: 与瀬啓一
第8章~真っ赤な音色~
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109.ヴァイオリンの音色~1~

 僕とジャスミンがクエロルに到着したのはつい昨日のことだ。


 ハンメルンの町とは違い、クエロルはネーヴェ王国の商店街ほどではないが、それなりに賑わいを見せる町だった。


 そのおかげもあってか、必要な食料の買い出しもすぐに終わった。


 しかしクエロルは別に観光に向いている町ではない。特産品に値するものは在れど、景色が特別いいわけでもないし、面白い土産物が売っているわけでもない。


 二泊三日という滞在期間の残りの二日間。


 何一つ予定を立てていなかった僕は、ただ右腕をその小さな手に引かれるがまま、人の流れに逆らうようにしてクエロルの少し歩きづらい石畳を歩いていた。


「ねぇ、エル! 次はあれ! あれ食べましょ!」


「なんだ、また茶菓子か」


 クエロルはお茶で有名な町だ。町の南側に行けば、それはそれは壮観なほどの茶畑があった。


 そうなると、必然的にお茶のお供も充実してくる。


「さっき食べたケーキもおいしかったけど、あっちのクッキーも美味しそうよ! ほら、エルも食べに行きましょ!」


 よだれを垂らす勢いで喋るジャスミンに頭を抱えながらも、僕はジャスミンが腕を引っ張る方向に仕方なくついて行った。


 まぁ、いつもの調子が戻ってきている証拠だろう。


 ハンメルンを出る前の暗い表情が嘘のように晴れて、その顔には太陽もびっくりするぐらいの明るい笑顔が貼りついていた。


「茶菓子の一つや二つでそんなにはしゃぐなよ……」


 誰に向けてでもない、ただの独り言が口をついて出てくる。


 本当にただの独り言だ。別に彼女がはしゃぐことが嫌なわけではないし、何なら僕自身、今日の予定が決まっていなかった身だ。こうして連れ回される分についてはそれほど気にはならなかった。


「どれ買おっか」


 そう言ってジャスミンが振り返る。


 目の前にはガラス張りの陳列棚。その中に様々な種類のクッキーが所狭しと並んでいる。形だけでなく色もとりどりで、赤いものから緑色のものまで様々だ。


「何でもいいんじゃないか? ほら、その赤いやつイチゴ味って書いてあるぞ? お前、イチゴ好きだろ?」


「なっ、何で知ってるのよ!」


 そう言ったジャスミンの顔は、その赤いイチゴのクッキーよりも赤く染まっている。


「だって、よくイチゴジュース飲んでただろ? それだけの理由なんだけど」


 そう答えると、さっきまで赤かった顔から血の気が引くように、元の白い肌に戻った。そしてその顔には、眉間にしわを寄せたなんとも言い難い顔が貼りついている。


 ジャスミンはその顔で僕に睨みを利かせてから店員の方に向き直った。


「これ下さい」


 そう言ってジャスミンが指さしたのは、イチゴのクッキーのすぐ隣に置いてある、レーズンが練り混ぜられたクッキーだった。


 ジャスミンがそれを選んだことに、僕は少し疑問を抱いた。


「イチゴじゃなくていいのか?」


「別に何でもいいじゃない。君もさっきそう言ったでしょ」


 前を向いたままジャスミンの口から発せられた言葉からは何か冷たいものを感じた。


 何らかの理由で怒らせてしまったことは明白だった。


 すまし顔でクッキーが入った紙袋を店員から受け取ると、店員の広げられた手の上に必要なだけの硬貨を支払って、ジャスミンは一人、元来た道を引き返した。


 その歩く速さたるや。


「おい、ちょっと待てよ。宿に帰るのか?」


 声をかけるもジャスミンはスタスタと無言で人の流れに沿って歩いていく。


 理由はよく分からないが、どうやらかなりご立腹のようだ。


 僕もその人の流れに従って、ジャスミンの後を追いかけた。どうやら彼女が怒った原因は僕にあるようだった。だとすれば、面倒だが謝らなければならないし、原因が分からない以上、なぜ怒っているのか聞く必要もある。


 仲直りする必要があるのだ。こんなギスギスした雰囲気で旅など続けられるものか。


 その茶色いポンチョ姿を足早に追いかけて、ジャスミンの腕に手を伸ばし、引き留めようとした。が、それは叶わなかった。


 どういうわけか、僕とジャスミンの間を人が通りかかった瞬間に、ジャスミンの姿が消えたのだ。


「ジャスミン?」


 その名前を呼び、辺りを見回す。


 すると、僕の左手に細い通路。その中でしゃがみ込んでいる見覚えのある小さな背中があった。


「ジャスミン?」


 何をしているのかと思い、もう一度、その名前を呼んだ。


 その声を聞いてか、ジャスミンが振り返る。その顔にはなにか焦りのようなものが見えた。冷や汗を掻いているし、少しだけ震えている。


「ひっ、人が、死んでる……」


「は?」


 見てみると、ジャスミンがしゃがんでいる向こう側に、倒れている人の足元が見える。


「……ちょっと見せてみろ」


 僕はジャスミンの傍らに駆け寄ると、その倒れている人を舐めるように観察した。


 男性だった。申し訳程度の布を巻きつけたかのようなボロボロの衣服に身を包み、その手にはなぜかヴァイオリンのケースのようなものを握りしめている。


 別に、痩せこけているような体ではなかった。肉もついているし、肌の色も赤みのある肌で、その様は健康そのものだ。


 男の顔の近くに歩み寄り、口元に手を当てて呼吸を確認する。


「なんだ、息してるじゃないか。勝手に殺すなよ」


 言いながら、僕は男の首に指先を当てて、脈をとる。


「だっ、だって! こんな誰もいない路地で人が倒れてたらそう思うじゃない! お金持ってなさそうな服着てるし!」


 そんなジャスミンの言い訳など無視して、脈が正常にあることを確認すると、その男性の声を叩きながら声をかけた。


「すいません、大丈夫ですか?」


 僕の声が聞こえたのか、男はピクリと眉を動かし、その閉ざされていた瞼をゆっくりと開けた。


 その青い瞳は、僕の方に視線を出した後、首を動かして彼自身の足元にしゃがみ込んでいるジャスミンに視線を向けた。


 その状態でおよそ十秒、時が止まったように状況が動かなかった。


 しかし、男は突然体を起こし、ジャスミンの前まで先ほどの死んだように倒れていたことを思わせぬ機敏な動きで移動すると、彼女の手を握り、目を輝かせてこう言った。


「あなたの瞳に惚れまシタ! 好きデス!」


「はへ?」


 その言葉に、一番驚いたのはジャスミン本人だった。


「えっ、と、あの、その……」


 顔をさっきのイチゴのクッキー程度に赤らめているジャスミンは、突然のことにあたふたとしながら言葉を詰まらせていた。


 その様子を見て、男も思い出したかのように、一つ咳払いをして口を開いた。


「これは失礼しまシタ。私はヘンリックという、ただのしがない旅人デス」


 にっこりと人のよさそうな笑顔を浮かべながら、ヘンリックと名乗った男は自己紹介をする。


「あっ、えっと、ジャスミン・カチェルアです」


 そんな風にジャスミンも自己紹介をした。


「ジャスミンさん、というのデスネ! とても素敵なお名前デス! ジャスミンの花言葉は、『愛想のよい』、『優美』、『愛らしさ』、『官能的』、というものデス。まさにあなたにぴったりの名前デスネ! より一層、あなたのことを気に入りまシタ!」


 怒涛の解説に、僕もジャスミンもぽっかりと開いた口を塞ぐことも忘れて、ヘンリックの少し片言の言葉を聞いていた。


「えっと、ありがとう、ございます。それで、なんですけど、なんでこんなところで倒れていたんですか?」


 ジャスミンはそんな疑問をヘンリックに投げかける。ジャスミンが話を別の所に逸らそうとしているのは、僕の目から見ても明らかだった。


「そうデスネ。とりあえず、私今、盗みに遭ってお金を持っていないんデス。それで何も口にすることができず、空腹でこんなことニ……」



――なるほど、ただの行き倒れか。



「あの、もしよかったらこれで何か食べてください」


 そう言ってジャスミンは金貨を一枚、巾着袋の中から取り出す。それを掌に載せて、ヘンリックに差し出した。


 それを見たヘンリックはその小さな目にたっぷりの涙を溜めて、声を上ずらせた。


「ありがとうございマスッ……こんな、こんな優しい女性に出会えるなんテ……」


 嗚咽を交えて喋るヘンリックに、ジャスミンも少し動揺していた。


 ここまで泣きながら感謝されると思っていなかったのだろう。


「それじゃあ、私たちはこれで……」


 そんな空気に耐えられなくなったのか、ジャスミンは僕の方を見てから、少し気まずそうに言った。



「お待ちくだサイ」



 立ち去ろうとした僕とジャスミンが振り返ると、そこには彼が手にしていたヴァイオリンケースを開けているヘンリックの姿があった。


「お礼と言ってはあれデスガ、この何物にも代えがたい喜びの気持ちを、どうか聞いていただきタイ」


 そう言ってヘンリックは取り出したヴァイオリンを丁寧な動きで構えると、楽器を弾くための弓を右手に持ち、慣れた動作で演奏を始めた。


 路地裏に響き渡る美しい音色。


「すごい綺麗……」


 ジャスミンもそんな感嘆の声をあげた。


 実際、その音色は非常に美しいものだった。僕自身、それほど音楽に興味を示したことはないし、それこそ音の良し悪しも分からない。


 それでも、ヘンリックのヴァイオリンの音色は心に響くようなものを感じた。力強く、それでいてどこか儚げな音色。



「……いかがでしたでしょうカ?」


 ヴァイオリンを弾き終えたヘンリックが静かな声で尋ねる。


「すごく綺麗な音でした。いいものを聞かせていただきました。ありがとうございます」


 ぺこりとお辞儀をするジャスミンを見て、僕も何かしら感想を残そうと口を開きかけた。


「確かに、素晴ら……」


「ありがとうございマス、ジャスミンさん。あなたのような素敵な女性にそう言っていただけて、私、感無量にございマス」


 僕の言葉はヘンリックのそんな言葉に遮られた。



――なんだこいつ。



 そんな風に僕は思ったが、憤りを口にするようなほどのことでもないし、ここは黙っているべきだろう、そう思って、あえて口を噤んだ。


「えと、それじゃあ、私たちはこれで……。頑張って生きてください」


 ヘンリックに背を向けてから、首だけ振り向かせてジャスミンは先ほど同様、丁寧なお辞儀をした。


 それに合わせて、僕も同じ動きをして、少し先を歩くジャスミンの後を追いかけた。



「あの人、大丈夫かしら」


 前を歩くジャスミンがふと、そんな言葉を口にする。


「あれだけお金があれば何か食えるだろう。それにしてもすごい演奏だったな。あれで金ならいくらでも稼げるだろうに」


「確かにそうね」


 あのヘンリックという旅人、なぜそれをしないのだろうか。趣味でやっているだけで小遣い稼ぎには使わない、と言うのであればそれまでなのだが。


「それで、ジャスミンはどうしてそんなに上機嫌なんだ?」


 先ほどから鼻歌を交えながら前を歩くジャスミンにその理由を問いかける。


 なぜかは分からないが、機嫌がよくなったのはいいことだ。もしかしたら先ほどのヘンリックの演奏のおかげかもしれない。これは僕が謝って怒らせたことを掘り返すよりはいいだろう。


「まぁ? 私も? 大人の女性の色気? みたいなものがあるってことよ」


「なんだ、ヘンリックの言葉がそんなに嬉しかったのか?」


「なに? やきもち?」


「いや、別に」


 あれはどう見てもお世辞だろう。彼自身が何かの恵みを貰うために言った言葉に聞こえた。どこかああいったことに手慣れているように見えたし、何よりもまずジャスミンが魅力的な女性だとは思わない。


「まぁ、うん。良かったな」


 とりあえず彼女の機嫌を損なわぬように、慎重にその言葉を紡いだ。


「そうね、じゃあ今夜はパーティーにしましょう! ちょっと奮発して美味しいものでも食べましょ!」


 どうやら本当に嬉しかったようだ。ジャスミンの足はちょっとだけ豪華そうな、この町には少し似つかわしくないレストランに足を延ばしていた。


 旅の間、ジャスミンは口にはしていなかったがずっと気を張っているのに僕は気づいていた。なんせ犯罪者を探しているのだ。緊張なり恐怖なりで心も休まらなかったことだろう。


 僕自身はローイラの花を取りに行くだけだからそれほどではなかったが、ジャスミン自身はそれなりに精神的に疲れているはずだ。


「そうだな。今夜は美味しいものでも食べて、これからの旅に備えようか」


 レストランの扉の取っ手に手を添えているジャスミンに後ろからそういうと、ジャスミンは笑顔で振り返り。


「うん!」


 大きく首を縦に振った。


 その笑顔がなんとも子供らしかった事は、ここでは言わないでおこう。


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