106.暗闇に光る赤い宝石~3~
――何も見えなかった。
それは単にこの町が暗いだけなのか、はたまた本当に目が見えていないのか分からないが、確実に見えている物はなかった。
二十年前のあの日、全てを失った。家族も、友人も、夢も、希望も。順調な人生だったはずだ。優しい両親に何不自由なく育てられ、良き友人を持ち、学校の教員からも信頼されていた。
それがあの日、あの女に狂わされた。
あの女は、初めは優しかった。親切に、笑顔で接してくれていた。それがいつの間にか、あんな悪魔の形相を浮かべるようになっていた。
怖かった。自分が何かされるのではないかと思い、逃げ出したくなった。
案の定、その予想は的中した。女は拷問紛いのことを始めた。爪をはがされ、腕の骨を折られ、食事もろくに取らせてもらえず、何度も何度も殴られた。
だからこうして隙を見て逃げ出したのだ。
「――逃げ、なきゃ」
走る足はおぼつかない。骨と皮だけの足では力も入らない。今自分がどこを走っているのかも分からない。
ただそんなとき、声が聞こえた。その声は若い少女の声で、どうやら追いかけてきているようだった。
――またあの場所に連れ戻される。
そう思った。
二つの翡翠色の光が少しずつ迫ってくる。きっとそれは、あの女が放った使い魔か何かなのだろう。
追いつかれれば、捕まってしまえば、殺される。
「捕まえたっ!」
少女の声が、鮮明に耳に届く。
「あっ……」
力の入らない細い腕を、何かが掴む。それに驚き、恐怖心を抑え込みながらその相手を確認した。
「赤い……瞳」
そう呟いた二つの翡翠の正体は、本当にただの少女だった。茶髪の、透きとおった翡翠色の美しい瞳。
年も十歳より少し上ぐらいに見える。その少女の様子は自分とは違い、真っ当な人間のそれだった。
――ああ、こんな少女を巻き込むわけにはいかない。
そう思い、その少女が呆気にとられているうちに、なけなしの力を振り絞って、その小さな腕を振り払った。
――どうか、追いかけてこないで。
そう祈りながら、どこに向かうでもなく、ふらつく足を動かした。なるべく早く、少しでも走るように。
少しして後ろを振り返ると、少女の姿はなかった。そのことにどこか、安堵した。
「いつまで逃げるのかしら?」
その声が、安堵の表情を一気に恐怖に塗り替えた。
「逃げても無駄よ、『獄炎の魔女』トカリナ・リャファセバル。あなたは私の道具なのだから、道具が勝手に逃げちゃダメでしょう?」
――ああ、嫌だ。
「ほら、さっさと帰るわよ。あなたの瞳はまだ少し赤いの。真っ黒になるまでもう少しいじめてあげるから、頑張ってちょうだいね」
――痛いのは嫌だ。
「動こうとしても無駄よ。あなたのその体で、これ以上動けるわけがないじゃない」
――怖い、戻りたくない。そもそも、どうして自分がこんな目に……。
その思いを、声に出せないのが辛かった。黙って従うしかないのが悔しかった。
「さあ、帰りましょう、私たちの家に……」
腕を引っ張られ、引きずられる。ズリズリ、ズリズリ、と。地面のざらついた感触さえも、もうよく分からない。光もぼやけてよく見えない。
女の鼻歌だけが、その存在があることを認識させようとするように耳に届く。
――殺してやる。何もかも、この女ごと消し飛ばしてやる。自分は運命に捨てられた、見限られた。ここで死ねと言われたようなものだ。ならば、何もかも道連れにしてやる。
そんな思いも、誰にも届かない。
しかしその考え方こそが、この女にとって必要だったことを、トカリナは知る由もなかった。