105.暗闇に光る赤い宝石~2~
外の明るさが瞼を通り越して、未だに睡魔から手を放そうとしない眼球に刺激を与えてきた。
少し眩しく感じつつも、その瞼をゆっくりと開ける。
シミのついた天井が目に入る。人の顔のようで少し気味が悪い。
「おはよう、エル」
そんな声が耳に届く。
声のした方に首を動かすと、既に服を着替えているジャスミンの姿が目に入った。
「ああ、おはよう……」
あまりにも淡々とした口調で挨拶をしてくるジャスミンに対して、そんな風に機械的に返事を返した。
「ねえ、エル」
ベッドに腰を下ろしたジャスミンが、僕に背を向けた状態で口を開いた。
「なんだ?」
「ここにはあと一泊するのよね?」
「その予定だけど」
そう答えるとジャスミンは振り返り、
「今日中に、ここを出ましょう?」
少し震えた声でそう告げた。
その表情に、僕は少しだけ違和感を持った。普段のうざったいぐらいの明るい表情からは想像もできないような、泣きそうな顔。
「何かあったのか?」
「……エルは、コレットさんの瞳のこととかどれぐらい知ってる?」
突然そんなことを尋ねられる。母親の瞳のこと、となると父が言っていた視力を奪われた云々の事だろうか。
「昔、視力を奪われたって話か?」
「うんん、それじゃない。瞳の呪いの方よ」
「呪い?」
「ええ、そう」
呪いなんてものがあることを初めて知った。僕自身、魔女の息子でありながら魔女についてはさほど詳しくはない。
今までで一度もそういったことにあまり興味を持たなかったのだ。知らなくても生きていけるし、知ったところで僕の人生が左右されるわけでもない。
ただ、今この状況では知るべき情報であることを、僕は察していた。こんな深刻な顔をするジャスミンなんて、滅多にお目にかかれるモノじゃない。
「詳しく教えてくれ」
そういうと、ジャスミンは少しだけ驚いた表情を見せた。
僕が興味を持つことを予測していなかったのだろう。確かに、彼女が意気揚々とこの話題を持ちかけていたなら、僕は耳を貸さなかった。
ジャスミンはその表情を真剣なそれに戻すと、ゆっくりと息を吸ってから、口を開いた。
「瞳の呪いって二種類あってね、『原初の呪い』と『負の感情の呪い』があるの。『原初の呪い』は瞳が赤く変色するにつれて、魔女の力が衰えていって、最後には魔術が使えなくなるのよ。これはどんな魔女でもかかる可能性があるんだけど……」
「それが母さんがかかった呪いか?」
尋ねるとジャスミンは首をふるふると横に振った。
「コレットさんがかかったのはもう一つの、『負の感情の呪い』の方。これは『原初の呪い』とは逆で、瞳が赤黒く変色すると我を忘れて暴走してしまう呪いなの。ワルプルギスの夜を引き起こした『想火の魔女』アンネ・ワルプルギスもこの呪いにかかっていたそうよ」
それを聞いて僕は一つ疑問を抱いた。
「母さんは暴走なんてしていないぞ?」
「そこは私も詳しく聞いたわけじゃないから分からないんだけど、何らかの理由でその呪いを無効化したんじゃないかしら?」
とてもではないが母にそんなことができるとは思えない。魔術に詳しいわけではないが、母が、『草原の魔女』コレット・ヴァイヤーが治癒魔術しか使えないことぐらいは知っている。
しかし、今現在の元気な様子を考えると、やはりそういう事なのだろう。一体どうやったのかは知らないが。
「で? その呪いがどうしたんだ?」
元をたどればジャスミンの様子がおかしくて、何があったのか尋ねたのだ。そこでその“呪い”という単語が出てきて説明を受けたわけだが、結局それが何だというのか。
「昨日の夜に、私散歩に出かけたじゃない」
「そうだな」
「その時にね、人影が見えたから興味本位で追いかけてみたの。そしたらその人の瞳の色が、焦げ茶色みたいな赤で……」
“瞳が赤い”もしくは“瞳が紫色”、これは魔女が有する特徴の一つだ。人は基本青い瞳しか持たない。ジャスミンのようによく分からない色の者もいるが基本は青だ。
それが焦げ茶色のような“赤”という事は、その人影が魔女であるという事。
そしてジャスミンの話を鑑みるにその人物は。
「『負の感情の呪い』に侵されている人だったってことか」
「うん、そう。この町で“ワルプルギスの夜”を引き起こすかもしれない魔女がいる、って思うと怖くなって、早くこの町を出ようって思って、それで……」
ジャスミンの表情がさらに曇る。
それにしても、このお転婆少女でさえも“逃げる”という選択肢を選ぶという事は、おそらく相当状況は芳しくないのだろう。
「そういう事なら、今すぐにでも出立しよう。正直、これ以上ここにいても食料は確保できないだろうからな」
窓の外に目を向けると、相変わらず人らしい姿は見当たらない。まるで町の淋しさを紛らわすかのように、どこかでハトが鳴いているだけだ。
「ごめんなさい、我儘を聞いてもらって」
ベッドに座ったままのジャスミンが少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「別に構わない。そんな話を聞いて、わざわざここに滞在しようとは思わないからな。それじゃあ、準備をしてこの宿を出ようか」
そう答えると、少し俯かせた顔を持ち上げて、ジャスミンはこくりと首を一度だけ縦に振った。
§
荷物をまとめて一階のロビーに降りると、やはりそこには誰の姿もなく、炎を消された燭台が寂しそうに立ち並んでいるだけだ。
「ブレンさん?」
見当たらないその姿を探しながらそう声をかける。
するとロビーの奥の廊下の扉が開き、一人の男性が姿を現す。
「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか?」
にっこりと笑ってブレンが言う。
「どこぞの誰かのせいでなかなか眠れなかったよ」
そう言って僕はその視線を僕より少し背の低い、真横に立っている少女に向ける。
その視線に気づいたのかジャスミンは、なによと言わんばかりに同じように睨み返してきた。
「そもそも、どうして僕たちが同室なんだ。部屋も空いているだろうし、別々でも問題なかったんだが」
僕がそう口にするとブレンは不思議そうな表情を見せた。
「あの……お二方はご夫婦では……?」
ブレンのその言葉に顔を真っ赤にしたのはジャスミンの方だった。僕はと言うと、何を言っているんだこのおっさんは……という呆れの方が近い。
「は?」
そんな息が僕の口から漏れ、
「そっ、そそそんなわけないじゃないですか! 何言ってるんですかっ!」
慌てふためく声をジャスミンがあげた。
「おや、私はてっきりそうだとばかり……。これはご迷惑をおかけしましたな。なにせ一年前まで観光のできる町だったもので、そう言った旅行者も多くいたものですから」
確かに、この町の中心にある噴水(今では水が出ていないが)を考えればそういった客も多く訪れたことだろう。
だからといって夫婦は言い過ぎだろう。若い男女が二人で旅行に来ているから夫婦、なんて安直な考え方がひしひしと伝わってくる。
「それにしても、こんな朝早くからお出かけですか? この町、特に何もありませんが……」
「ああ、いや、この町をもう出ようと思って。二泊する予定だったんだが、少し予定が変わって……」
ちらりとジャスミンの方に目を向けると、何か言いたげな顔でその視線を返してきた。
恐らく、今朝僕に話したことをブレンにも伝えるつもりだろう。
もしここでブレンにこのことを話さずに、このハンメルンの町が“ワルプルギスの夜”のような災害に見舞われるなんてことがあって、仮にもし死人がでたりしたら僕たちだって後味が悪い。
「あの、ブレンさん」
ジャスミンの声に、ブレンが顔をそちらに向ける。
「なんでしょうか?」
「えっと、すごく言いにくいんですけど……ブレンさんも、他の町民の皆さんも、早くこの町から離れた方がいいというか、嫌なことが起こりそう、というか……」
そんな風に遠回しな言い方をする。なぜそんな言い方をしているのか分からないが、事実を明確に伝えた方がいいのではないだろうか。
「実はこの町に魔……」
そこまで言ったときにジャスミンの手が僕の口を抑え込んだ。
首をジャスミンの方に向けると、そのことを言ってはダメと言わんばかりにその小さな首を小刻みに横に振っていた。
「嫌なこと、と言いますと?」
ジャスミンがあえて伏せたであろうことをブレンが尋ねる。尋ねられたジャスミンも完全に口籠ってしまっている。
そんな黙りこけたジャスミンの様子を見てか、ブレンも何かを察したらしく、
「分かりました。何か人に言えないような事のようですが、ええ、肝に銘じておきましょう。あなたのようなお嬢さんが嘘を言うとは思えないからね」
そう言った。
「ごめんなさい、詳しい話ができなくて……」
ぺこりと一度お辞儀をするジャスミン。普段二人でいることが多いせいか、ジャスミンには図々しいお転婆少女という印象しか抱いていなかったが、こういうところを見ると、最低限の礼儀とかは出来ているんだな、と思う。
「それで、宿泊の代金の方なんだが……」
口元を解放された僕は、鞄の中からチャリチャリと音を立てる巾着袋を取り出した。それなりの金額は持ってきているか十分間に合うはずだが、仮にもしこの宿がぼったくりをしてきた場合は払いきれるかどうか分からない。無論、ブレンがそんなことをするとは到底思っていないが。
「ああ、それでしたらいりませんよ。この宿も潰れているようなものです。宿泊者に食事も提供できないような宿ですから。そんな宿でも、誰かがこうして泊ってくれるだけでも私にとってはお金以上の喜びですよ」
笑って答えるブレンに、僕はともかくジャスミンは頬が綻んでいた。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
ジャスミンはまた、先ほどと同じようにお辞儀をした。
「あなたのご厚意に感謝します、ブレンさん」
僕もそんな台詞を言って、小さく頭を下げた。
宿の扉の取っ手に手をかけたとき、後ろからブレンの声がした。
「あなた方の旅が、良き旅になるように私も祈っています」
どこかで聞いたそんな台詞に背中を押され、僕とジャスミンは宿を後にした。
§
「どうして本当のことを伝えなかったんだ?」
ふと抱いたそんな疑問を僕はジャスミンに投げかけた。
「だって、あなたの町は滅びますのでこの町から出てください、なんて言えるわけないじゃないの。あの人たちがこのハンメルンを好いているのはあなたも分かったでしょう?」
確かにそうかもしれないが。仮にそうだとしても、本当のことを伝えた方が自分たちが危機的状況にあることを意識しやすいと思うのだが。
「そういうもんかね」
「エルには分かんないと思うけど、そういうものよ」
どこか軽蔑されたような気がするが、あえて流しておこう。
「それで、次はどこに向かうの?」
「次はクエロルに向かう。王都にも近いし、経由するにはちょうどいいだろう」
頭に入っている地図を思い浮かべながら次の目的地を告げる。ここでの収穫次第では、一気に王都に向かおうと思っていたのだが、まあ仕方がないことだ。もう一つ街を経由した方が食料には余裕が持てる。
「次はもうちょっとゆっくりできるといいわね」
「まあ、そうだな」
魔法の絨毯を広げる、というか大きくするジャスミンの言葉にそんな相槌を入れる。
この町でも今日一日ゆっくりするつもりだったが、ジャスミンの様子を見ればこれも仕方がなかったことだ。
クエロルではもう少しゆっくりと過ごせることを祈ろう。
僕が絨毯の上に乗り終えると、ジャスミンはネーヴェから出る時のように絨毯の中央の黄色い宝石に手を当てる。
「私たちをクエロルまで連れて行って?」
そう告げると魔法の絨毯はまるで生き物のようにその言葉を聞き入れて、ハンメルンの町よりも高く浮き上がり、目的地に向けて僕らを乗せて飛びだした。