104.暗闇に光る赤い宝石~1~
人が少ないこのハンメルンは、生活音というものがほとんど存在しない。人々の喧騒、馬の駆ける音、どこからともなく流れてくる笛の音。
それなりな町で聞こえてくるそれらはハンメルンでは聞こえてこない。
昼間でさえそんな状態なのだ。これが夜になるとどうなるか、そんなものは考えなくても分かっていた。
だからこそ、今のこの状況は想定外と言えるだろう。
「羊か九十八匹、羊が九十九匹、羊が百匹、羊が百一匹……」
「ジャスミン、うるさいぞ」
部屋にはベッドが二つ並べられるようにして置いてある。窓側のベッドに横たわる僕の横のベッドに、ジャスミンが仰向けで横たわっている。
「羊が百四匹、羊が百五匹、羊が百六匹……」
未だに眠りの世界へ羊に乗っていこうとしているジャスミンに、僕はうんざりしていた。真横でこんな風にボソボソと呟かれていては、眠れるものも眠れないだろう。
「だからジャスミン、うるさ……」
そう言いかけた時に、ジャスミンはガバリと布団をはがして、寝間着に身を包んだその体を持ち上げた。
「あーっ、もう、うるさいなぁ! あと少しで眠れそうだったのに! 羊何匹数えたか忘れちゃったじゃない!」
「そんなこと僕が知るかよ……」
溜息と一緒にそんな文句が零れる。
よく考えれば、そもそもどうして僕とジャスミンが同室なんだ。ここは普通に考えて別々の部屋を提供するものだろう。
今までその違和感に気づいていなかったのが不思議なぐらいだ。
「……ちょっと散歩してくる」
そう言ってジャスミンはベッドから抜け出して部屋の扉に向かう。
「そうしてくれ。その方が僕にとってもいい」
彼女がそうしてくれるならそれはありがたい話だ。横でずっと羊を数えられる事がないのなら、僕も煩わしいことがなく眠りにつけるというものだ。
僕は寝返りを打ち、ジャスミンがいる方に背中を向ける。
「僕が眠ったころに帰ってきてくれ。それと、帰ってきたらお前も黙って寝るように。羊を数える声で起こされるなんて、たまったもんじゃない」
その言葉の後、返事の代わりに聞こえたのは、扉が閉まる大きな音だった。
この宿もそんなに設備が整っているわけではない。どこかしら整備不良なところもあるだろうが、あんな大きな音を立てて、扉が壊れてはいないだろうか。
そんなことを思いながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
寝付きはいい方だ。静かな空間であれば、瞼を閉じれば基本的に十秒以内に羊にまたがって柵を越えている。
言っている傍から頭がぼんやりとしてくる。この微睡みに溶け込むような感覚が実に気持ちが良いのだ。
その直後には、僕の意識は完全に睡魔の奴隷になっていた。
§
真っ暗な道を一人、ジャスミンは歩いていた。このハンメルンの町には灯りと言う灯りは存在しない。
どの家の窓も真っ暗だ。唯一その暗い世界に星を作っているのが、ジャスミンが手にする雪のように白い杖の先端。この杖がなんとも便利なもので、さすがは両親が作ったものなだけある、とジャスミンは思った。
ジャスミンの母、『創出の魔女』シエラ・カチェルアは魔法道具を作ることを仕事にしている魔女だ。そして父の方は腕利きの鍛冶師。そんな二人が力を合わせれば、それはもう国宝級の逸品が出来上がる。
それはジャスミンの握りしめる杖とて例外ではなかった。
本来、翡翠色のその先端は青白く光り、その光が照らす道だけをジャスミンはまっすぐ歩いていた。
少しだけ火照った頬を冷たい風が撫でる。そんな頬に、少し冷えてきた左手をあてがう。
その火照りの理由を、ジャスミンは何となく理解していた。
――エルだ。
多分、この真っ赤に熱くなった顔の原因はエルにあるのだ。
ここ数日の間、空飛ぶ絨毯の上での生活が心地よくて失念していたが、あの間も夜は隣でエルが眠っていたのだ。
そのことを、ハンメルンの宿のベッドに入った瞬間に意識してしまった。自分は今の今まで男の子の真横で寝息を立てていたのだ、と。
なんというか、恥ずかしくなってしまったのだ。
ジャスミンとて年ごろの女の子だ。確かにお転婆なのは自覚していなくもないが、それ以前に自分の体の成長だって気にする女の子に違いはない。起伏のない胸部だって、ちょっと気にしているぐらいには。
そんな思春期真っ只中なジャスミンが隣で男の子が寝ていることを意識してしまえば、そんな簡単に寝つけるわけがないだろう。
そんな気持ちを誤魔化そうとして羊を数えていたのに、そこにエルの声が紛れ込んでくる。
考えないようにしていても声ばっかりは耳に入ってくるのだ。
それで耐えられなくなって頭を冷やすつもりで飛び出したのだが。
「――これじゃあ、意味がないじゃない」
一人になったことで余計に頭の中でそんな考えが堂々巡りする。
――もっと、別のことを考えなきゃ。
一度立ち止まって、深く息を吸う。それをゆっくりと吐き出して、少しだけ早まっている鼓動を落ち着かせる。
――そういえば、攫われた子供たちはどうなったんだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
例の楽士もそんな大勢の子供を連れて、どうやって逃げたのだろう。そんな大勢の子供を誘拐なんて、ジャスミンにはとてもではないが簡単に思えなかった。
一人、二人なら抱えて連れて行けるだろうが、二十人ともなると話は変わってくる。
そもそも、そんなに大勢連れて、恨みを晴らすだけが理由とは到底思えない。
――何かが引っ掛かる……気がする。
そんな風に、思索に耽っている時だった。
ジャスミンの持つ杖が照らす先で、人影が道を横切った。
「――え?」
それ自体、別に不思議なことではないが、人が少ないこの町だ。突然のことにジャスミンは息を漏らした。
その人影に、ジャスミンは興味を抱いた。そもそもこの町で出会った人物がブレンと、農家のおじさんしかいないのだ。
今自分の目の前を通り過ぎたのが一体誰なのか、気になったのだ。
「――待って!」
叫んでその人影の後を追った。
ジャスミンがいた場所を曲がって少し先、走っていく後姿がジャスミンの目に映る。その人影が一瞬後ろを向いたような気がした。その仕草はまるで、ジャスミン自身から逃げているかのようだった。
逃げていると分かれば、追いかけたくなる性分なのがジャスミンだ。
「加速魔術」
そんな呪文を唱えた。
ただの加速魔術だ。大きな括りで言えば物理法則変換魔術とかいうものになるが、要はジャスミンの動きを少し早くしただけのことだ。
その人影との距離を、少しずつ詰めていく。
そうすると黒いだけだった人影も、杖の明かりに照らされてその姿を徐々に現した。
黒い外套に身を包むその影は、まるでわざと闇夜に隠れようとしているかのようだ。背格好からして男ではない。女性だろうか。顔立ちはよく見えないが、直に分かるだろう。
「捕まえたっ!」
手を伸ばし、外套からみえた白い腕をがしりと掴む。しかしその白い腕の、あまりの細さにジャスミンは掴む手を緩めてしまった。
「あっ……」
人影がそう声を漏らすと、ジャスミンの方を振り向く。そのフードを被った中から覗き込んできたものに、ジャスミンは唖然とした。
「赤い……瞳」
その怯えたような顔に張り付いている瞳に見入っている間に、その女はまた背を向けて走り去っていった。
手に残った細い腕の感触を確認するように、掌を見つめる。
まるで骨でも掴んでいるかのようだった。筋肉という筋肉を削ぎ落したような、骨と皮だけの腕。
それだけでも驚いてしまったのだが、ジャスミンにとって本当に驚くべきはその後だった。
――なんで、魔女がこの町に……。
その瞳を見た時は、咄嗟に「赤い瞳」と表現したが、その色は赤と言うより、茶色に近い色をしていた。
黒ずんだ、焦げ茶のような赤。
「負の感情の増大に比例して、瞳が赤黒く変色する……」
いつか聞いたコレットの言葉を確認するように口にする。
だとしたらこれはかなりマズイことになっている。
この町に、このハンメルンに、“ワルプルギスの夜”を引き起こす可能性のある魔女がいる。
しかも、その呪いがかなり進行している。
今になって、無理やり引き止めなかったことを後悔する。もっと何か、話を聞くべきだったかもしれない。
傍から見ればジャスミンは平静を保っているかのように見えるが、実際には全くそんなことはなく、先ほどから冷や汗が滝のように流れていた。
「どうしよう……」
その一言を絞り出すので精一杯だった。
その足はいつの間にか自然と宿の方に向かっていた。少し速足で、まるでお化けから逃げるみたいに……。