婚約者②
近づいてくる人の顔を見る。彼が婚約者だろうか。
後ろで一つに括られた髪は、淡いクリーム色で、甘い色合いをしている。
でもその人が持つ雰囲気はツンドラのようだ。どこまでも薄く青い瞳は氷を思い起こさせるし、肌は雪のように白い。
身を包んでいる衣服は真黒。そのせいで肌の白さが際立つ。
血色は悪くないが、どうしても肌が冷たそうに見えるのは陶器の人形のように端麗な顔立ちのためか。
この手の顔は苦手だ。
美しく、見てる分にはいいのだが見分けがつかない。
わたしは人の顔を見分けるのが極度に苦手で、特に特徴のない顔は見分けがつかない。
美しいとは、それだけで欠点という特徴がないのと同義だ。
この人が違う髪型や服の時に街中で出会ってもわからない自信がある。
ノエルさんも綺麗な顔立ちだが、毎度同じ格好で居てくれるから、間違えたことがない。
いや、友達だし。最近よく会ってるからもしかしたら、外でもわかるかも……。
でも、少し自信がない。
本当によく会う人は綺麗な顔立ちでも間違えないのだが、頻度が少ないとどうしても無理なのだ。
それにしても、なぜそんな驚いた表情をしているのだろう。
顔を上げた瞬間、少し目を瞠られた。
わずかな表情の違いだが、無表情がデフォのノエルさんを相手にしているわたしに死角はない。
顔を見分けるのは苦手だが、表情で機微を察するのは得意だ。
だが、それもわずかな間だけだった。
次の瞬間には、顔から表情が抜け落ち、無になってしまった。
第一声が失礼すぎたから、怒りの限界値を超えてしまったのかな。
そう思ったが、何か違う。ような気がする。
「私、ノエル・マーフィーと申します。そんなところで立ったままというのもなんですし、席にお座りください」
そう言って奥の席に通される。
こんなはずじゃ……。
わたしの中では失礼すぎる挨拶に怒髪天を衝く状態で罵倒され、追い出されるとばかり思ったのに。
うまく行かない。
しかも、中途半端にはうまく行ってしまったようで、侯爵様は苦笑いを浮かべ、夫人は般若のような形相を浮かべている。
なぜ、息子さんだけあんなに素面なんだ。
因みにお二人とも、とても麗しい容姿をしていた。
顔を覚えられる気がしない。
席に座る時、お父様とお母様に挟まれた。
さっきの態度に怒っているらしい。ぴりっとした緊張感が場に漂う。
確かに自分達より上位のものの前であんなことしていると、社交界で死ぬから仕方ないのかもしれない。
でも、わたしはここ数年、社交界に顔を出してないし。自分に実害はない。
最悪、家が落ちぶれても職はある。
そうなった場合、お父様、お母様、ついでにお兄様には頑張ってくれとでもいっておこう。
そういえば、なぜわたしが婚約者に選ばれたのだろう。
年増な上に社交界に出て行かない、世間では不出来な娘だろうに。
目の前に座った婚約者を見る。
やっぱり綺麗な顔立ちだ。
これで婚約者がわたしになるなんて、よっぽど性格に難があるとか?
「イシュルメ・マーフィーだ。隣は妻のキャロライン・マーフィー。それにしても、さっき仕事は辞めないと聴こえたのだが、それがどういうことかわかっているのかい?」
「家に入り家内を回すこと、それが貴族で求められている婦人の振る舞いだとわきまえております。それに、女の身で働くなど世間体が悪いことも承知しております。ですので、私の言っていることは無知蒙昧なことと捉えてくださって構いません」
本来、貴族の女性が外で働くのはご法度だ。例外は行儀見習いを兼ねた奉公と家庭教師。
いくら王宮勤めでも庭師や研究者のようなことを生業としていては、印象が悪い。
あそこの家は娘一人養えないのかと揶揄されることだってある。
「ですが、わたしの仕事場は人が足りておらず、補充されるのも辞めてしばらくしてからとなります。それに、条件に見合った人が居ないと、試験をしても採用が見送られることもしばしばで。わたしが辞めてしまうと、後を見つけるまで周りが迷惑することになります」
「専門の学校にも行っていない女が就ける仕事です。遊びのようなものでしょう」
マーフィー夫人の言葉に下唇を噛みそうになった。
いけないいけない。今日は珍しくリップをつけているから、剥がれてしまう。
でも、とっても悔しい。
昔から植物が好きだった。
今はいない祖父が農地改革に力を入れていた人で、わたしに当時の話を色々してくれた。
地質や肥料の違いで育つ植物にどのような変化が出るのか、それが分かるまで試行錯誤したかなどの話を聞くのが大好きだった。
大きくなって、女では余程のことがないと領地を引き継げない、豊かにすることはできないと知ったときは唖然としたものだ。
だが、行き遅れた代わりに王宮で昔夢見たものに近い職を得ることができた。
研究ではなかったが、それでも植物に触れることができる。人々に貢献できるのはやりがいのある仕事。
それは今もわたしに夢を見せ続けてくれている。
それなのに、かつて読んだ本、覚えた外の国の植物の知識。
それら全て、遊びで、代わりなどいくらでもいると言われて悔しくないわけがない。
けれど、世間の認識とはそんなものなのだ。
「そんなものにこだわって。何ですか、挨拶し終えた瞬間に馬鹿みたいなことを仰るなんて。失礼だと分からないの」
だから、その歳でまだ未婚なのよ。
そう悪態をつかれる。
馬鹿みたい。自分でも分かっている。
またとないくらい素敵な縁談。
格上の位でしかも互いに初婚。向こうは二十六歳。男の二十六なんて行き遅れでもなんでもない。
しかも、王太子の側近という将来を約束されたポジションにいて、挙句に美形。
もったいないくらい素敵な縁談なのだろう。
わたしには全て無用なものだけど。
「人材だけの話ではなく、一個人としても辞めたくはないのです」
今にも、婚約破棄すると夫人が言いそうなほど怒気を放っている。
「そこまで仰るのでしたら、この話はなか……」
「母上、父上、しばらく彼女と二人きりで話す必要があるように思います。席を外していただけませんか?」
夫人が怒りのあまりお断りの言葉を言おうとしたのだろう。
だが、当の婚約者に止められた。誰もこの流れを止めるなんて思いもしなかった。
驚いて彼を凝視したが、表情は先程と寸分も変わらない無表情を保ったままだった。
だからなんで、貴方だけそんなに素面なんだ。
嫌われて婚約を流すって結構難しいんだな。そんな感想だけが心の中で浮かんで弾けた。
一番怒ってしかるべき人が全く動じていない。その現実に少しばかり毒気が抜けた瞬間だった。