06 吉野真里(2)
「藤巻さんを責めてる訳ではありません、むしろ感謝しています」
コーヒータイムに来店して早々、吉野真里は藤巻に対して恐縮しきり。
問題が解決していないじゃないか、また少女の幽霊を見てしまったぞと、徹底的に糾弾される事を覚悟していた藤巻はこの状況が飲み込めずにオロオロするばかりで、怒鳴られるんじゃないかと藤巻を心配していた美央も、オロオロする藤巻の後ろで更にオロオロしていた。
「藤巻さんの仮説で合っていたのです。私の落ち度で、リストアップしていなかった物がありまして……」
吉野真里が店に入って来た時から、片時も手を離さずに持って抱えている物がある。風呂敷で包んだノートパソコンほどの大きさの平べったい物、これが全ての元凶であると彼女は説明を始めたのだ。
昨晩、火曜日の夜。
小さなテーブルのお焚き上げは無事終わったとの知らせを受け、吉野真里は安堵しながらアパートへと帰宅した。
もう酒で誤魔化す夜とはサヨナラだとーー真里は以前の生活スタイルへと自分を戻し、風呂上がりのビールさえ口をつけずに布団へ入り就寝した。
先週末から美央の実家で世話になり、酒を絶っていた事も幸いし、酒が無いと眠れない、寝付けないのではと言う余計な心配に目が冴える事も無く、真里はあっという間に夢の世界へと誘われて行く。
だが、酔い潰れて記憶を失う様に眠っていなかった真里は、再び“あの時間”に叩き起こされ、そして恐怖の体験を味わったのである。
夢など欠片も見ない全てが闇に包まれていた深睡眠の際、パチン! と身体に電気が走ったかの様な衝撃を受けて、真里は瞬時に睡眠から現実世界へ引き戻される。
そして身体が全く身動きがとれない事と瞼が開いて眼球だけ動かせる事で、それが金縛りであるのを実感しながら“何故? テーブルは片付けたのに!? ”と、心で叫び狼狽えながら背筋に冷たいものを走らせる。
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
真里の耳に聞こえて来たのは、何度聞いても聞き慣れない少女の声。しかしその声が聞こえて来る方向が今日だけは違う。左脚の壁の四隅に置いていた小さなテーブルからではなく、頭部左のキッチン方向から……すなわち、リサイクルショップで小さなテーブルと一緒に購入した、壁掛け用の可愛い鏡から聞こえて来たのだ。
どうやらその黒い影の少女は鏡を見詰めながら母に謝り続けていたのだが、向きを変えて小さなテーブルがあった真里の左脚の方向へ。
しかし、そこにあるはずのテーブルが無い事で、少女は再び向きを変えて真里が横たわるベッドに進んで来たではないか。
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
ーーお願い、こっちに来ないで! 私が何をしたって言うの!? ーー
声にならない声だと言う事は充分承知している、だが心の中で必死で叫ばずにはいられない。
少女の霊が出る原因だと思っていた小さなテーブルを処分してしまった事で、逆恨みしているのではと、更なる恐怖を感じていたからだ。
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
尚も謝り続ける少女の影は、視線を合わせないように天井を見詰める真里の視界……その左側を覆い尽くした。少女の影は真里の傍に立ったのである。
ーーやめて、やめて! あっちに行って! あっちに……! ーー
真里のパニックが頂点に差し掛かる中、真里は“それ”と目を合わしてしまった。そんな積りは微塵も無かったのだが、その少女の影が襲って来るのかどうかが、気が気では無かったのである。
しかしここで……
少女の姿をまざまざと見詰めてしまった事で、真里の昂ぶっていた感情に何かしらの変化が訪れる。絶対的な恐怖や死してなお現世にしがみつく者に対する畏れが、少しだけ和らいだのである。その要因は全て、真里を見下ろすその少女の姿に起因していた。
年齢は五歳ぐらいであろうか? 白いワンピースから覗く肌は青白く、腕はガリガリで鎖骨もくっきりと見え、頬も痩けたまさに骸骨。
いかにもその少女は幽霊らしい雰囲気を醸し出しているのだが、右目が埋もれて単なる線に見えるほど、顔の右半分が異様に腫れ上がっているのだ。
その痛々しい姿を見た真里は、振り切れそうになっていた恐怖度のメーターがぐいぐいと下がり、別の感情……つまり憐憫の情を持ってその少女を見たのであるーーこの子は可哀想な運命に遭ったのだと。
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
ーーもう謝らなくても良いのよ。明日鏡も供養してあげるから、安心して天国へ行きなさい。お母さんも許してくれるはずよーー
この子は何かしらの事故に巻き込まれ、大好きな親を遺して先に死んでしまった。自分の死で悲しみに暮れる母親に申し訳無いと謝りながら、生前の思い出である小さなテーブルと鏡に縛られている……。
「あの小さなテーブルで童話の本を開き、お母さんに読んで貰ったんじゃないでしょうか。そしてあの鏡を前に、お母さんに自分の髪をといて貰ったんじゃないでしょうか。そう思ったら不思議と怖くなくなって……」
「なるほど、それで少女の霊はすっと消えたと」
コーヒータイムのボックス席、藤巻と吉野真里は向かい合わせに座り、そして真里は昨晩起きた出来事を事細かに語った。
「少女の霊が現れる方向ばかり気にしていましたが、私の失念です。この鏡も同じリサイクルショップで購入した物です」
「ならば、これもお焚き上げしますか? 私が責任を持って預かり、明日早々に善光寺さんへ行って来ます」
風呂敷ごと渡された鏡を手に、確認を取る藤巻。
吉野は宜しくお願いしますと深々と頭を下げて、そして帰宅の途についた。
「藤巻さん、これで完全決着ですかね? 」
「そうだなあ、多分もう……吉野さんの前には現れないんじゃないかな」
ボックス席から再び定位置のカウンター席に戻り、しばしの間放置していたからか、冷たい汗をかいたウイスキーグラスを手に、二杯目の水割りを飲み干した藤巻。懐から出したマルボロメンソールに火を着けながら、マスターに三杯目のおかわりを頼む。
「何かご機嫌じゃないですね、一件落着じゃないのですか? 」
「いやいや、ご機嫌ですよう。美央ちゃんが持ち込んだお金にならない相談でも、決着すればそれはそれで嬉しいもんですよう」
「ですよねえ、半分は吉野先生が自力で解決した事件ですもんねえ」
「ぐぬぬ……」
「ぐぬぬ……」
皮肉の応酬もここまで。真剣に相手を嫌っていての言葉ではないので、結局は二人で笑い出してジ・エンド。
「マスター、また車置いてって良い? 鏡も車に置いとくし」
と、四杯目の水割りを飲み干した藤巻は、いつもの様に徒歩で藤巻は帰って行った。
近所に住む彼は普段は車を置いて来店するのだが、結果として今日は、自室ではなく運良く鏡を保管する場所を確保した様だ。
店の看板の電気を落とし、後片付けを始めるマスターと美央。何気ない普段の光景だが、美央の表情には幾ばくかの怪訝さが浮き出ていた。
だいぶ酩酊して来た際に、おもむろにタバコに火をつけて呟いたあの、、、藤巻の一言が忘れられなかったのである。
「……解決?……いや、違うな……」
自問自答の様なその言葉が引っかかり、美央はどうかしたかと聞いたのだが、のらりくらりの藤巻は決してその言葉の真意を吐露する事は無かった。
次回最終回