04 探偵 藤巻博昭
カラッとした初夏の長野に、久しぶりにまとまった雨が降った……そんな七月初旬のある夜の事。
帰宅して夕飯を食べ終わった吉野真里は、テレビを付けずに音楽プレーヤーに入っているお気に入りの音楽をスピーカーに繋げて気分を乗せながら、持ち帰った仕事をテーブルに広げて片付け始める。
帰宅後直ぐに窓を締め切り、エアコンで空調を整えると、その時抱いた違和感はいつの間にか消え去っていた。
自分の部屋を「外界と遮断された密室」と言う状態に置いた途端、ネガティブな違和感や落ち着かない空気が霧散してしまったのである。
だがやはり、初夏であっても長野の夜は涼しく、ましてや振り続ける雨で大気も地熱もほどほどに冷えている。持ち帰った仕事が終わる頃には「くちん」「くちん」とくしゃみを繰り返すほどに身体が冷えていた。
もう変な胸騒ぎなども記憶の片隅に片付けられており、日々のルーティンを気楽に淡々とこなしているだけなのだが、まだ雨は止みそうになく屋根や道路をぴしゃぴしゃと叩いている。窓を開け放ち網戸で寝るには湿度が高そうだなと、エアコンの設定温度を上げつつシャワーを浴びてホッと一息の時間に入った。
ここまでは普通だった
二十二時から始まるお気に入りの医療サスペンスドラマを見終わり、生あくびが絶え間なく出始め、布団に入ってあっという間に眠りの世界に落ちるところまでは、何気ない当たり前の日々の踏襲でしかなかった。
眠った後に起きた出来事で、真里は悟り、そして悔やんだのである。
ああ、あの違和感や不安感は本物だったーーと
時間は日付けが変わった深夜二時半ごろ
“それ”を見た際に壁掛け時計が視界に入ったので間違いはない。
レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返す中、夢すら見ていない暗黒のタイミングで突如真里の目が開く。ドアノブを掴んだ瞬間に静電気でパチリと身体を打たれてハッとする様な、そんな目の覚め方をしたのだ。
はて、寝過ぎで勝手に目が覚めたのだろうか?
時計のアラームをセットしてなかった? でも寝坊したにしては部屋が暗い。
天井から吊るされたお洒落なデザインのライトから、常夜灯のささやかで心細い灯りを頬に受ける真里は、自分の身に起きた重大な事実を身をもって知ることになる。ーーそう、身体が全く動かないのだ。
ーー目は動く、呼吸も出来る! だけど手足が動かない! 身体を起こすどころか寝返りすら出来ない! ーー
別段、自分に霊感がある訳でもなく、テレビやコミックや動画などの様々なメディアを通じても、心霊モノにはまるで興味が無かった真里。
友人同士でも怪談話で盛り上がる事も無いほどに、心霊方面への知識が無かった彼女なのだが、この時は理解出来た。
自分の身に起きた事が一体どういう現象なのか、つまり真里程度の知識しか持ち合わせていなくてもそれが「金縛り」なのだと、身をもって知ったのである。
ーー夜、金縛りに遭って目が覚めると、そこには……ーー
友人などが昔、怪談話で盛り上がっているのを側から聞いていた時は、だいたいがこれだった。夜金縛りが起きるのは序章に過ぎず、必ず次に“本体”が姿を現わす。
硬直したままの身体は相変わらずピクリとも動かず、それでいて背中にはびっしょりと冷や汗をかきながら、唯一動く両目の視点を真上にある天井の木の模様に合わせる。
天井の模様が顔に見えるから注視しているのではない、足元左側……ベッドの脇に何かしらの気配を感じ、「そんなもの」を見たくないから意識して天井を見つめているのだ。
ーーいる、いる! 見てる、私を見てる! ーー
何かしらの意志をもった存在が立っており、そして真里を見詰めている。それだけならまだしも、ゆっくりと近付いて来るのが手に取るように分かる。
その気配が真里に近付くにつれて身体に影響をもたらしているのか、左足から右肩に向かってザワザワと鳥肌が立って行くのだ。
ーーお願い、お願い! こっちに来ないで! 私は関係無いからこっちに来るな! ーー
何か霊の気配を感じたら、私には関係無いからこっちに来るなと怒るのが良いと言う説もあるが、知ってか知らずか真里は心で怒っていた。それはもう罵詈雑言と表現しても良いほどに、真里は怒りまくった。
すると、天井の一点を見つめたままの視界の左斜め下までに姿を晒すに至っていたそれは ……真っ黒な姿に長い髪を垂らした様な背の低い存在がピタリと足を止めて真里に訴えかけて来たのだ。
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
“お か あ さ ん ……ご め ん な さ い”
……三回だろうか、四回だろうか、そのまま朝まで気を失ってしまった真里には何回そう言われたのか回数までは数えていないが、確かにあの声は幼い少女のものであり、まるで心当たりの無い真里に対してしきりに謝っていた。
「なるほど、その少女の霊は謝って来たと」
「はい、いずれにしても身に覚えはありません。今まで幼い女の子と接する機会もそれほど無かったから、何が何だか……」
週が明けた月曜日の夕方、ここコーヒータイムには珍しく三人の客がいる。
マスターとホール係兼雑用係の美央は当たり前の通常業務だとしても、普段の月曜日であればキング・オブ・常連の藤巻しかいないのだが、今日は不思議にも藤巻の定位置には美央の親友である奈津子が腰を下ろして、イチゴパフェに舌鼓を打っている。
そして当の本人である藤巻はボックスシートに席を移し、真向かいに座る吉野真里から恐怖の体験を聞き出していたのである。
先週末の金曜日、美央から相談を受けた藤巻は、吉野真里を美央の家に泊めるよう助言した。その霊が真里の肉体に取り憑いているのか、彼女の部屋に取り憑いているのか見極めるためだ。
その結果について藤巻は、とりあえずホッと胸を撫で下ろしている。吉野真里が思いのほか元気であり、それがたとえ強がりだとしても、肌ツヤや表情に安堵の色が見受けられると言うことは、週末に美央のお宅に泊まった事は吉と出たからだーーつまり第一の見極め、霊は真里の肉体にではなく、部屋に憑いている。
これさえ分かれば、最悪吉野真里が引っ越せば問題解決に繋がるのであろうが、まだ藤巻には解せない点がある。真里に向かって引っ越せば楽になるよとは、現状決して言えない理由があったのだ。
「吉野さんが美央ちゃんの家に泊まっている間の土日を使い、私なりに調べてみたのですが……」
隣の椅子の上に置いていた革製の古びた鞄から、藤巻はA4サイズのコピー用紙を取り出し、そして真里の前に置く。
「殴り書きですみません、ここにはあなたが利用しているメゾンド・雅、204号室の歴代利用者の名前が書き連ねてあります。遡って二十年分ぐらいなんですが」
「一、二、三、四……五、六人ですか」
「以外と少ないなあと感じませんか? 」
「そうですね、だいたい三月に入れ替わり、利用者が途切れた時期も……」
「元々このアパートの大家さんは、星城女子大学の協力会に入られてて、この部屋の利用者は全て大学関係者なんですよ」
「あっ、総務の盛谷さんの名前も……。なるほど、理解出来ました。皆さん何事も無く長期利用の上で引っ越して行ったのですね」
大学関係者を装い、アパートの大家である品の良いお婆ちゃまと接触した藤巻。
吉野真里の体調が悪くて心配だ、見舞いを兼ねて訪ねて来たが不在だったと口実を作り、大家さんから歴代の利用者を聞き出したのだ。
ーー聞き出すまでに何杯ものお茶を飲まされ、塩辛い漬け物バイキングを勧められ、トイレと足の痺れが我慢の限界まで達した際のパニックはご愛嬌として。
あの部屋から短期間で逃げ出した者はいないと言う裏付けになる、この藤巻が見せたリストは、「歴代利用者に異変は無かった」と言う仮説を真里に提示した事になる。
そして真里は彼女自身の記憶に照らし合わせ、総務の盛谷なる人物と接した際はアパートの利便の良さと大家の人柄、そして夜の静けさを説きながら「掘り出し物見つけて良かったね」と素直に喜んでくれていた事を思い出す。
藤巻の仮説を真里が裏付けし、真実に変わったのである。
だが、だからと言って吉野真里の状況が好転した訳ではない。むしろ歴代利用者に異変が無かった事で、真里自身の資質に疑いがかけられる事態に陥っているのだ。
それが証拠に、真里は急に焦り出す。「何で私だけ? 」と言う素直な疑問が「見間違いじゃありません、私は確かに……」と、自分の正統性を主張し始めたのだ。
だが、この真里の焦りも藤巻には想定済みだったようだ。
慌ててふためく真里に対して、決してあなたを責めている訳じゃありません、あなたの目撃証言が嘘だと言ってる訳じゃありませんよと、出口も無いクセに迎合するような言葉を吐くのではなく、再び鞄からコピー用紙を取り出し、カッターシャツの胸ポケットからボールペンを取り出し、新たな仮説に対する真里の協力を求めたのである。
「吉野さん、この紙に部屋のレイアウトを描いていただけませんか? 出来るだけ詳しく」
「部屋の様子ですか? 」
「あの部屋が事故物件ではなかったからと言って、あなたの目撃談は作り話だと結論付けるのは馬鹿のやる事です。あれは可能性の一つを消去したに過ぎない」
「藤巻さん……」
「私は、あの部屋に因縁が元々あったのではなく、吉野さんが何かを持ち込んだのではと仮説を立ててみました」
「何かをとは? 一体何でしょう? 」
「あなたが引っ越して来る以前にはあの部屋に無く、あなたが心霊体験をした時にあの部屋にあった物。何かがスイッチを入れたんじゃないのかなと」
「ああっ、なるほど! 」
ーー部屋に何があるか片っ端から書いて下さい、そして女の子の幽霊が出て来る方向も。
怪訝だった真里の表情が晴れて行く。
体験談を語る際は怯え、可能性の一つが消えた時は焦り憤慨し、そして今は自分の部屋の内容を紙に描きながら藤巻の真剣な眼差しに照れを見せつつ、新たな可能性に瞳を輝かせている。解決に向かっていると実感しているのだ。
「う〜ん……」
二人で真剣且つ軽快に話し合う光景を目の当たりにしつつ、何か違和感を覚える美央。
眉毛が末広がりの「八」にしつつ難しい顔をするそんな美央を、カウンターを挟んで向かい合っていた奈津子が訊す。
「どしたの美央? 」
「あの二人……と言うか、藤巻さんが何か怪しい」
「ふふっ、怪しいって」
何を話しているかここからは分からないが、警戒感を解いて親しげに話し出した二人に美央は揺れ出した。特に自分には見せた事の無い、爽やかな藤巻の笑顔が無性に気に入らなかったのである。
別に格別の感情までには至っていないだろうけど、知人男性が自分以外の女性に笑顔を見せると、何かそうなるよねえーーと、美央に湧いている感情を察知し、奈津子は苦笑するのであった。
「はっきりさせとかないといけない。奈津子、私ちょっと行って来る」
鼻息荒く美央は厨房からボックスシートへと向かう。
いきなり何を始めるんだ君はと、ハラハラしながら見詰める奈津子とマスターの視線を背中に受けつつ、美央は藤巻の前に立った。
「藤巻さん、藤巻さん」
「うん? 美央ちゃんどうしたの? 」
「藤巻さん、ちょっと」
藤巻が顔を向けると美央は右手を口の横に「耳を貸せ」のポーズ。何事かと首を傾けて美央に近付けると、美央は声を潜めて……本人的には極力声を潜めた積もりの声が、店内に静かに響く。
(……藤巻さん、吉野先生は遠距離だけど婚約者いますからね。手を出しちゃダメですよ……)
店内BGMでジャズの軽快な音楽だけが流れて誰もが沈黙する中、藤巻が美央に対して瞬間的に見せた悲しそうな表情は、吉野さんとお付き合い出来なくて、それはそれはとても残念な事ですと言う絶望の悲しみではなかった。
もともとそんな気は無いよ、無いけど何で俺がここで恥かかなきゃならねえんだよ。以前からちょっと残念な妹分くらいに見てたけど、お前結構残念だぞと言う美央を憐れむ表情である。
出航予定も無くただ単に湾内で停泊していただけなのに、いきなり美央の魚雷攻撃を受けて撃沈してしまった藤巻であった。