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故人情報  作者: 振木岳人
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03 藤巻博昭



 まだ学生時代の頃は、風呂上がりに冷たい牛乳を飲んだり麦茶を飲んで、その火照った身体を冷やしては、これが一日の締めの儀式であると満足していた。

 それが社会に出てアルコールの楽しさを覚えると、風呂上がりに冷蔵庫から取り出す物はキンキンに冷やした缶ビールに変わっており、缶チューハイなどの甘いアルコール飲料よりも、苦み走った液体が喉を焼きながら食道と胃を一気に冷たくする快感に酔ったのである。ーーああ、私も大人の醍醐味を楽しんでいると。


 だが、吉野真里は基本的にアルコールは苦手だ。

 毛嫌いしているのではなく、むしろビールやチューハイ、ワインやカクテルや日本酒など様々なお酒を楽しむのは好きだ。だがいかんせん量が飲めないのである。

 以前いた職場での飲み会や、学友・旧友との飲み会でもそうなのだが、周りの空気に流されてグラスを重ねて行くと、途端に真っ青になって胃から酒が逆流してしまうのだ。つまりは悪酔い、アルコール摂取の許容範囲を越えると身体が一気に拒絶反応を示して撃沈してしまうのである。


 それが身に染みて理解出来た真里は「ほどほど」と言う言葉を覚え、そして風呂上がりに缶ビールを飲む程度が今の自分に一番適した付き合い方だと、日々それを踏襲し続けて来た。

 だが、単身でここ長野市に赴き、ようやく一人暮らしに慣れて来た七月上旬……彼女はアルコールに溺れるようになってしまった。日々の生活の中の一服の清涼剤程度であるはずのアルコールが、アルコールを摂取するための生活へと激変してしまったのである。


 星城大学での仕事が終わり、スーパーで買い物を済ませて帰宅すると、夕飯を作る前にまず「飲む」、それもヤケ酒を煽る様に飲む。そしてまともに夕飯も作らず食べずで飲み続ける。

 家に持ち帰った仕事も飲みながら行い、結局は酩酊して気を失う様に布団に入るのが今の彼女。

 ーー嘔吐する時もしない時もあるギャンブルの日々を繰り返していたのである。


 そんな生活を続けていれば、当たり前の話身体に良い訳が無い。

 ファンデーションも要らないほどの自然美に満ちていた肌からはその艶が消え、唇は荒れ放題。そして眼の周りは落ち窪んで瞳には険しさが現れてしまった彼女は、もはや誰が見ても病んでいた。

 周囲にいた大学職員たちも彼女の異変に心配して、何事かと事あるごとに問い糾したのだが、真里は大丈夫の一辺倒でまるで話そうとしない……。


「おかしいと思いませんか? 」

「……え、そこで何で俺に同意を求めんの? 」


 金曜日の夜。

 古くは花の金曜日と呼ばれて週休二日の社会人が気持ちをオフに切り替えるため華やかな夜になる曜日であるはずなのに……ここ、長野市の北部にある『喫茶店 コーヒータイム』では、コーヒーの香ばしい香りを楽しむ紳士淑女はまるでおらず、カウンターの定位置を陣取る常連が一人いるだけ。

 田舎の喫茶店だからと、居酒屋に近付く形で酒とツマミの提供も始めたのだが、街道沿いに郊外型店舗がズラリと並ぶこの地にはもちろん全国チェーンの居酒屋も出店しており、(……駐車場が満車になるほど大盛況……) 酒の飲める個人経営の喫茶店ではまるで勝負にならなかったのである。


 だが、常連が足繁く通ってくれる店と言うのはまんざら悪い店ではない。いかんせん立地条件が不運だっただけの話で、このコーヒータイムの店内の居心地良さと提供するコーヒーの質、そしてマスターが作る美味なる軽食の数々は、微々たる変化ではあるが着実にリピーターを増やしていた。


 そして前述にもある、上ずった声で当惑のセリフを吐き出したのは常連の中の常連、キング・オブ・常連。

 毎日夕方になると店に来ては、マスター特製昭和のカチカチオムライスとマンデリンを頼み、そのままウィスキーの水割りを頼んでは長居する探偵、藤巻博昭である。

 彼は花の金曜日だと言うのに、女の影も匂わさず、生活臭すら匂わさずに、当たり前の様にこの店へと足を運び、当たり前の様にいつもの鉄板メニューを頼み、そして当たり前の様にマスターの姪っ子で店を手伝っているバイトの江森美央と会話を重ねて楽しんでいた。

 最初は牛丼屋の「つゆだく」がどれだけ白米を侮辱しているかと言う、へそ曲がりらしいいつもの藤巻節が炸裂していたのだが、話のネタが変わり始めるといつの間にか、この吉野真里の異変についての話題が美央側から出て、ついつい「そこで何故同意を求めるの? 」と、怪しみながら裏表無く出てしまったセリフである。


「いつも明るくて私と奈津子に良くしてくれる先生で、凄く仲が良かったのに……様子が変だと思いませんか? 」

「いやまあ、そりゃ変だなとは思うけど……」

「でしょ? でしょっ? だから今日、大学で吉野先生取っ捕まえて聞き出したの。近付くと物凄いお酒の匂いがする時もあって、私たち心配だからって説得して」


 ーーアルコールに逃避せざるを得ないほどの事情ーー


 それについて美央が聞き出したと言う内容に対し、藤巻は一抹の期待が胸の奥をくすぐった事に嘘偽りは無い。

 何故ならば、誰に聞かれても胸を張って「田舎」だと答えられるこの長野市において、探偵業を営むとすればその業務内容は“ほぼ”不倫疑惑の素行調査である。

 大企業から依頼されるヘッドハンティング候補者の素行調査や、雑誌社から依頼されるアイドルの素行調査そして政治家の身辺調査。近年、探偵業では主力になりつつある盗聴調査などと言ったダイナミックな仕事がこの長野にはまるで無く、依頼が来るのは愛憎にまみれた男女のもつればかり。

 探偵に憧れて男子一生の仕事にしてみたものの、明けても暮れても不倫、不倫、不倫の連続に辟易としていたからこそなのかも知れないが、この吉野真里の異変には何かしらの事件性を覚え、そして一瞬だが心が踊ったのである。


 ーー男絡みのトラブル……結婚詐欺やフラれた結果でヤケ酒に走るにしては常習性があり過ぎる。それほどまでに憎し悲しで思い詰めるのであれば、警察や弁護士に相談したり、他者に心の内を話して昇華作用を働かせるか、自傷行為や酷い時には自殺に走るはずーー


 ーーアルコール摂取が常習化・常態化していると言う事は、日々の生活の中で彼女がシラフでいられない瞬間があると言う事。だが今の生活を壊す事は避けようとブレーキをかけており、彼女自身の自我はまだしっかりとしている。心療内科を勧めなければならないケースではないーー


 美央が本人に問い糾した際の結果を聞く前に、藤巻は仮説を立て終えた。もちろんそれが正しい訳ではないのは充分承知しているが、美央から聞いた話だけを元に分析し、仮説に基づいた方向性を導いたのである。


 “吉野真里は大学の職場において、セクシャル・ハラスメント又はパワー・ハラスメントを受けているのではないか。だから彼女は美央に説得されて心情を吐露するまで、誰にも被害を訴えないまま、酒で自分を誤魔化していた”


 敵は巨大な学校法人! トカゲの尻尾切りで来るか、それとも黙殺して裁判沙汰になり全国ニュースものになるか! イェース!探偵人生始まって以来の大仕事だ!と淡い期待を持っても仕方のない流れだったのだが、美央が説明を始めた途端に藤巻の期待は粉々に打ち砕かれるーー探偵人生ステップアップとはかけ離れた内容だったのだ。


「……吉野先生ね、毎晩見るらしいの」

「え、見る?……何を? 」


 嫌な予感が脳裏をかすめる。

 合コン開始の時間なのに、テーブルには野郎どもしか席に着いておらず、幹事役の男がしきりに廊下で電話しながら弱っている様な、そんな嫌な予感……これ期待しちゃダメなんじゃね? 的なやつだ。


「吉野先生……毎晩少女の霊を見るんだって。だから目が覚めない様に深酒を繰り返してたらしいの」


 ーーああ、言っちゃったよ、またこの手の話題かよ。


 藤巻は極力表情を変えないまま、ワイシャツのポケットに入れていたマルボロメンソールを取り出して口にくわえる。「今年の春」から一本も吸わず禁煙に成功していたものの、事が事だけに自然と手がタバコに伸びて口へと運んだのだ。


「藤巻さん、名探偵のその頭脳で、吉野先生を助けて欲しいなんて……虫が良すぎかな? 」


 あのね美央ちゃん、俺は普通の社会人として探偵業をやってて、全国探偵協会にも所属してる明朗会計藤巻探偵事務所の代表なわけ。霊能者でも何でもないのに、何で美央ちゃんは心霊相談ばっか俺に持ち込むのですか!? もうっ!


 ーー言ってやりたい、思いっきりそう言ってやりたい。


 今こそ不満をぶちまけろと言うはやる心を抑えながら、キッチン奥で回転する換気扇に向かって「ぷかあ」と煙を吐く。

 元々学生時代までは瞬間湯沸かし器と揶揄されるほどに直情型だった藤巻は、頭に血が昇った瞬間や塾考が必要な瞬間にタバコをふかして深呼吸する事を覚え、それが講じたのか喫煙する際にずば抜けた洞察力が生まれたり、他人がぐうの音も出ないほどの閃きと論理構築を行うまでに進化していた。世の中が嫌煙ブームになり、世の中が藤巻をあざけり罵ったとしても、藤巻にはタバコに依存する別の理由があったのである。


 そしてこの時、マルボロメンソールのハッカ煙が鼻腔を爽快にくすぐりながら換気扇に吸い寄せられる一瞬の内に、藤巻は美央の立ち位置……つまり、この吉野真里に降り掛かった得体の知れないトラブルに対し、どこまで顔を突っ込んで良いのかちゃんと距離を測っている姿を垣間見た。

今春に起きた【スティグマータ事件】の反省からなのか、江森美央は名探偵気取りで事件に介入する事をやめた。この吉野真里に起こった心霊騒動は、自分の幼稚な好奇心で解決しようとせずに、藤巻さん助けてと頼って来たのだ。己を知る意味では著しい成長の証ではあるのだが……。


「マスター、水割りちょうだい」


 即答を避けて一旦間を置く。

 依頼を切り出した手前、引っ込みのつかない美央はグラスを磨きながらも心配そうに見詰めて来る。

 カウンターの前に差し出されたグラス、琥珀色の液体と氷が入ったご機嫌な“それ”で口を湿らせ、そして藤巻は優しげな口調で美央に伝える。


「美央ちゃん、その先生と急ぎ連絡を取って、今日から週明けまで美央ちゃんの家に泊めてあげるんだ」

「え? 先生を……私が? 私の家に? 」

「そう、君の家にだ。これには二つの理由がある。一つは緊急避難、心身に異常をきたしてる人を助けるならば先ずは環境を変える。明るい君なら彼女の気分転換にもなる。そしてもう一つの理由、心霊現象の真偽はさておき、もし美央ちゃんの家で霊が現れたなら彼女に憑いて来た事になるし、現れないなら彼女のアパートに憑いていると予測される。見極めの第一段階って事さ」


 藤巻がこれを言い終わらぬうちに、美央の曇った表情が劇的に晴れて行く。それはもうあからさま過ぎて笑いそうなぐらい破顔に近い顔つきに変化し、両の瞳からすさまじい量のウロコをぽろぽろと零しているようだ。


「週明けの夕方にでも、この店に先生を呼んで欲しい。俺が直接話を聞いてみるよ」


 藤巻さんありがとう、本当にありがとう

 かしこまって礼を言う美央に向かい、キザったらしくグラスを掲げ、藤巻は満足そうな表情で水割りを喉に流し込んだ。


 ーーその吉野先生って何歳なの? 彼氏いるの? 可愛い系? 美人系?


 藤巻の腹の底では、口に出してしまうと美央に軽蔑されそうな質問が我先にと口に向かいせり上がって来ていたのだが、本日二本目のマルボロメンソールに火を付けその煙を思い切り吸い込む事で、自分が台無しになってしまう質問を闇に葬ったのであった。




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