01 吉野真里
築四十年の安アパートでも、高望みさえしなければ「住めば都」である。
カチンカチンとレバーを回してガスに着火させるタイプの湯沸かし器が据え付けられ、その分風呂釜が狭くなっていたとしても、体育座りで充分肩まで湯に浸かれるし、風呂を沸かさなくとも暖かいシャワーで済ませられる。
流し台の端から端まで二歩でたどり着く狭さでも、小さなまな板を用意すれば自分の包丁スキルを解放出来るし、後ろの壁にボックスを並べれば炊飯器も電子レンジも行き場を失わずに風景に溶け込める。
六畳間で畳敷きの古びた和風1DKであっても、自分好みのカーペットを敷けば、実家にある自分の部屋と同じくらいに気分もほぐれるどころか、むしろ休日の昼間だらしなくゴロゴロしていても「早く彼氏でも作れ」「男見つけて結婚しろ」と怒る親がいない分、一人暮らしが楽園へと様変わりする。
吉野真里 二十八歳
彼女は学校法人星城女子大学の関連施設である国際交流センターから、今期大学に新設され国際交流学科の英語講師として移動して来た帰国子女である。
父親の仕事の都合で幼少期から思春期まで海外で過ごし、帰国後の学生時代は通訳を目指していたのだが、気が付けば学校法人の専門機関の職員に落ち着いてしまった、「敷居の高くない」「ほどほど」の才女であった。
その彼女が今春英語講師として単身この長野の地を踏み、親にどっぷりと甘える事の出来ない安アパート自炊生活にもようやっと慣れて来ると、季節はいつの間にか春から梅雨そして初夏と移り変わっている。
標高四百メートル越えでなおかつ、周囲三百六十五度全てが山で囲まれた天然要塞のような長野市は、湿気をたっぷりと吸った海風を全て外界の山々で遮断し、「カラッとして太陽が近い」非常に暑くて眩しい時期を過ごす事を強いられるのだが、エアコン要らずの夜を過ごせる事と、蚊に刺されてもちょこっと痒い程度でボコボコに腫れ上がら無い事が、真里がこの長野の夏を過ごすにあたって非常に気に入っていた点である。
ーー余談の部類に入るが、就寝中寝相の悪い彼女が毛布を蹴っ飛ばし、お腹どころか身体中が冷え冷えになって目が覚めるのは、本人が日々反省している点でもある。
通常の大学カリキュラムだと、この時期長い長い夏休みに突入するのだが、今春に新設された国際交流学科は留学生を大量に受け入れたりする都合上、欧米スタイルの年間スケジュールに合わせており、本格的に学科が始まるのは九月。それまではプレオープンとして試験運用されている途中。
日本人受講生には英語を教え、なおかつ秋にやって来るであろう海外からの留学生には日本語講師として教壇に立つ予定の真里は、大学での通常業務を終えてもなお、アパートに仕事を持ち帰り、秋から始まる日本語教室の進行予定とカリキュラム作成に四苦八苦していた。
ーーある日の晩。昼間から降り続ける久々の雨に、肌がじっとりと不快な湿気を感じる夜の事。
帰宅早々に窓を締め切り今季初めてエアコンを稼働させた真里は、エアコンの送風口から溢れて来る冷たくて乾いた風に満たされた部屋に、多少の不快感を覚えながら夕飯の支度を始める。
万人にとって心地良いはずであろうエアコンの風を、もっと言えば冷風に満たされた快適な空間を、何故真里は不快に感じてしまったのかは、エアコンに原因があるのでは無い。窓を閉め切った自分の行為とその理由に、真里は不快感を覚えていたのである。
窓を閉め切った理由それは……雨に連れられて部屋に入って来る湿気で彼女の玉の様な肌がベタベタになる事を嫌っての訳ではなく、もっと感覚的な理由で窓を閉めたのだ。
……あれ? この部屋こんなに怖かったっけ? ……
それが、真里が窓を閉めた理由。
長野市の北部、造成に造成を重ねた巨大な住宅街の一角にある、ごく普通の二階建て横長アパートの二階角部屋で、彼女は何かを感じてしまったのだ。
バケツをひっくり返した様な、勢いまかせに屋根を叩き付ける雨ではなく、しとしとと……良く言えば情緒のある、悪く言えば陰気で辛気臭い雨が降りしきる状況において、何かしらの“イヤだな”と言う感情を抱いた真里は、本能的に窓を閉めてなお、部屋に多少の違和感を覚えたのである。
だからと言ってベッドの下に白い肌の少年がいる訳でもなく、天井の木目がぐるぐると渦を巻いて人の顔に変わる事も無い。
何かを感じた割には、至極当たり前の時間だけが過ぎて行くこの現状に落ち着いてしまったのか、「それはそれ、これはこれ」の理論を適用させて、夕飯の準備に取り掛かった。
豚バラ肉とキャベツ・玉ねぎ・ニンジンなどを炒め、朝の味噌汁作りで余った豆腐も一緒に炒めて、作り置きしておいた甘辛の味噌ダレソースをジャッ! と入れてお手軽肉野菜の味噌炒めが出来上がり、これをおかずにご飯をかき込み終わると、食器洗いで立ったついでで風呂を沸かしながらホッと一息。
ーー初めての一人暮らしがようやく板について来た吉野真里。日々の生活もまるでルーティンをクリアして行くかのごとく軽々こなして行く。
しかしこの夜……真里自身が何かしらの違和感を抱いたその深夜に、真里は彼女自身のルーティンには無い、見ると後悔してしまうようなものを見てしまったのだ。