はじめに
「投げ銭」に夢を見ています。
最近、投げ銭という言葉をよく目にします。「マグネット!」という、紛らわしい名前をしたweb小説サイトの影響が大きいのでしょう。意識しなくても、活動報告やツイッターで見かけるようになりました。
何で「紛らわしい名前」なんて言うのかって。そりゃあ、「マグネット」という名前の、漫画を電子書籍化するサービスがすでに有りますからね。――その代表取締役さんが、インタビューで、インターネットを利用した、新しい「流通」について語ってたりしてまして。本当に紛らわしい。なんでこんな名前にしたのかと思ってしまいます。
たった二十年ほど前、Windows95が火付け役となって普及し始めたインターネットは、携帯電話と共に、世界を変えました。今や、電話は個人で持つものとなり、会話ではなくメールで連絡を取りあうような世の中です。
やがて携帯電話は、名前はそのままに、Javaが走るようになり、カメラが付き、音楽が再生できるようになったりと、物凄い勢いで、「電話って何だっけ?」という方向に進化していきます。最終的には、スマホという、「もはや電話ではない」と言いたくなるような、そんな小型万能情報端末にまで、進化を遂げることになりました。
ソフトウェアの世界に、リチャード・ストールマンという、とても過激な人がいます。「自由なソフトウェア」という考え方を世に広めるべく活動していた、本当に過激な人です。
彼の活動は一定の成果を得、GNU/Linuxを始めとした、様々な「自由なソフトウェア」を生み出しました。彼の産んだ「自由なソフトウェア」は、現在も、コピーレフトという考えかたの元、世界中で使われています。
その彼が、あるエッセイで、『コンピュータネットワークが、少額の金銭を誰かに送信する簡単な方法を提供するなら、丸ごとそのままのコピーを制限する正当な理由はすべてなくなってしまうでしょう。』(引用1)という主張をしています。
同じエッセイで、彼はこう問いかけています。『もしもある本が好きで、あなたのコンピュータ上にボックスがポンと出てきて、そこには「著者に1ドル払うならここをクリック」と書かれていたら、あなたはクリックしませんか?』(引用1)と。――問いかけの形ですが、彼は、「本当に好きであれば、お金を払う」と確信しているのだと思います。
今、投げ銭という考え方は、確実に広がっています。「マグネット!(小説)」で良く目にするようになりましたが、それだけではありません。……というか、このサイト、お金を扱うには現時点(2018年5月26日時点)では未完成すぎて、まともに論ずることができません。
ですがまあ、投げ銭ができるサイトは他にもあります。自分の知っているサイトだと「note」というサイトでしょうか。
基本的には文章を始めとした様々なコンテンツを販売できるサイトなのですが、まあ、投げ銭的な使い方もできる、そんなサイトです。
こういった、先行した他のサービスから、見えてくるものもあります。
結論を言ってしまうと、私は「投げ銭」というものを、「クリエイターへの応援」だとは捉えていません。「読み終わった後に、お金を払うだけの価値があれば買う」という、新しい商売の形だと思っています。
今、小説を連載している作家さまは、どんなことを考えて執筆しているのでしょうか。読者が付いてきているのであれば、きっとそれは、作品に対する、作者の考え方と読者の考え方が一致しているのでしょう。ですが、その中にはきっと、「無料だから」という理由で認められているようなものもあるのではないかと思います。
金額が自由だろうと、払うのが自由だろうと、お金を取る以上、責任は発生すると考えた方がいい。どんな形であれ、対価を支払わせる以上、「やってはいけないこと」が出てくるはずです。
同時に、コンテンツを楽しんだ後で対価を支払うという形だからこそ、今まで出来なかったことが出来るようになり、変化をもたらすのではないかと、そんなことを考えています。
私は投げ銭に夢を見ています。
それは、作家としての夢だけではありません。読者としての夢でもあります。単に作者を応援したいだけではありません。エタった作品が減るかもなんて、ささやかで現実的な夢ではありません。
もっと大きな、世界が変わるのではないかという、頭のおかしい人が見るような、そんな夢を見ています。
―― 引用1 ――
自由か著作権か?
リチャード・ストールマン著
結城 浩訳
http://www.hyuki.com/gnu/frcp.html