第2話
通っていた高校の定期演奏会を終え、20歳以上も年の離れた先輩に例のごとく打ち上げに誘われた。高校を卒業して早5年目の春。10時も回り、更けこんだ夜の居酒屋は昼間のような活気に包まれていた。
「いらっしゃいませ。お客様、申し訳ございません。できるだけ早く席を案内しますので…少々お待ちください。」と、男性店員が済まなさそうに言った。
がやがやと膨れ上がった居酒屋は若い女の子から年を召した人まで幅広い年代の人でにぎわっていた。50前後の男性3人に若さほやほやの私はどう考えたってミスマッチだった。
私はどういう理由か、この年頃の女性にしては珍しく、野球と流行とは無縁の音楽とか、色気のない話を延々と繰り返す傾向にはある。ようやく覚えた化粧だって薄めで、自己流。それだけにキャンバスに溢れる花盛りの若い女子学生を見ていると、時々惨めになる。
「お待たせしました。こちらへどうぞ。」通されたのは2階の座敷だった。明るい暖色系の明かりが照らす店内は柔らかい明るさで、くつろいだ雰囲気を演出している。座敷ともなれば尚更だった。
「何にする?遠慮するこたぁないぞ。」と、飲む気満々の木藤先輩を前に私は苦笑しながらサワーと軟骨の唐揚げを頼んだ。
「嫁にな、言われたんだよ。ほどほどにしろよ。って。」
「あ、オレもオレも。」
豪快に笑う先輩達。私も30年後にはこうなっているのだろうか。
「おつかれ〜!」
ビールとサワーで乾杯した。運ばれてくる料理に、先輩達は何杯もビールを飲み干していた。私はジョッキの果物系サワーを2杯飲んだだけで、その飲みっぷりは豪快だった。
「レモンかけていい?」
「え、えぇ。」
「これだけで嫁と一時間くらいケンカするんだよ!」と、メガネの船橋博先輩が零した。私はサワーを一口、口に含みながらはぁ、と、ばかりに聞いていた。何を話せばいいのやら、話題を探しながら浮かんだのが、高校野球。先日までテレビの前で大騒ぎしながら見ていた。京都からも1校、古豪と言われる常連校が久しぶりに出場したので、それなりに熱心に応援していたが、結果はいつものベスト8だった。かつて私の母校が甲子園に出たことがあるのは知っていたが、もう30年以上前の話だ。今の野球部はまた甲子園を目指して練習しているというけど、今度私達の高校が甲子園に行けるのはいつになるだろう。
「あの、前に、うちの高校が甲子園に出たことがあるって聞きましたけど…。」
「あぁ、それ!船ちゃんの頃。あの頃はすごかったで〜!」
「そうなんですか。」
「父兄や生徒、地域の人らバス60台くらいで甲子園に行ったよ。甲子園で吹きすぎて、コンクールでも音がべろんべろんで、全くダメだった。」
「そうなんですか。今度またうちの高校が甲子園に行ったらまた大応援団になりそうですね。」
「なるだろうな。」
この春見ていた選抜高校野球、甲子園は応援団で溢れかえっていた。2000人、3000人なんて当たり前、すごいところでは5000人とか、6500人とか、想像もできないような規模で、応援にやってくるのだから、強豪と言われる学校だってやりにくいだろう。やっぱり、というか、案の定強豪と言われた駒沢旭川、横浜学園、常葉学院などの注目された優勝候補は早々に甲子園を去った。
3年ほど前から大阪で博物館のボランティアをしていた縁で知り合った高校野球ファンのおじさんと一緒に観戦に行った地元京都外大附属の試合。たった2回で7点差をひっくり返す大逆転劇で、地元ファンが集まる甲子園全体が沸きかえった。それがきっかけでちょくちょく高校野球を見ていたが、翌年はスター選手の豪華対決、さらにその翌年はなんとなく応援していた九州勢が大躍進と目が離せない要素が盛りだくさんだった。今年の春は地元近畿が初戦無傷と大躍進で期待したのだが、終わってみればベスト8、ベスト4と、いつもの成績だった。
私の印象ではここ最近は九州・沖縄勢が強い。応援団だって半端じゃないし、地元の盛り上がりもすごい。実際去年の夏の決勝戦、生で観戦したから、コンサート顔負けの、あの熱気は肌にしっかり記憶されている。
「見に行ったのか!」
「えぇ、すごかったですよ。もうみんなで声の限りを尽くす大声援でした。それが甲子園の観客をも巻き込んでね…。あの光景は当分忘れられそうにないですね。」
酒に酔ったのか、私は幾分声を張り上げた。
「知らないのか?九州・沖縄って言ったらかなりの野球大国だよ。」
「え、そうなんですか!?」
「あっちはかなり熱心だからね。」
「そうなんだ。九州・沖縄ってそんなに野球好きな人が多かったんだ…。」
今回のセンバツは沖縄の高校が優勝したのだが、アルプスいっぱいの応援団に沖縄民謡を踊りながらの大応援。相手もこれはやりにくい。しかも不調であることを突くかのような猛攻で、見ていて気持ちがいいものだった。
「なんつぅか、あっちの男は飲むのが好きなんだよ。それもこうみんなでわいわいとね。福岡はソフトバンクがあるけど、佐賀とかにはない。だから高校野球が熱くなるんだよ。優勝したらもうすごいで。居酒屋がどこもパンクする。」
「はぁ〜。」
「かなり野球好きに染まったね〜!」
「そうですか。まだ3年ほどですけど、よく見るんですか?」
「練習の合間にな。そもそも野球って言うのはリズムがあってな、音楽とよく似てるんだよ。投げる時、こうやって足上げて、それから1、2、3で肩を振り下ろす。」
木藤先輩はタバコをふかした。紫煙が暖色系の明かりにかすんでいく。
「はぁ…。」
さっきからこればかり。悪いが私はまだ23の小娘だ。話を聞いているだけで頭の上がらない思いでいっぱいになる。野球が好きだといっても、カーブ、ストレート、スライダー、カットボール、チェンジアップ、ツーシーム、フォークなど、名前はわかっても何のボールか見ただけではわからない。フィギュアスケートのジャンプも同じ。アクセル、ルッツ、ループ、トゥループ、サルコウ、フリップと名前はわかるが、見ただけでは何のジャンプかいまだにわからない。
「いいねぇ、瞳美ちゃんは!すっかりオヤジになったよな〜!」
「や、やめてくださいよ。」
「いやいや、悪いことじゃないんだよ。」
私は返事に困ってしまった。
「しかしなぁ、俺たちゃ、貧乏だからなぁ。俺、いまだに小遣い生活だし。」
「ははは、俺もだよ!」
豪快に酒を交わしながら笑いあう3人に私は一種のノスタルジー、いや、センチメンタル、なんといえばいいのだろうか。妙にしんみりした気持ちになる。50年近く生きてきた人生をこうして酒と共に飲み、交わす。そこだけ空気がセピア色に染まっていく。
一口すすったサワーはほろ苦かった。レモンの味の後にアルコールが口に広がる。