樹海の魔物
森は、ますます深く、背の高い木々がぼうぼうと生い茂り、歩き辛くなっていく。
青い霧は、もう出てはいなかったが、夜のように真っ暗で、人間には肌寒く感じられていた。
「気を付けて。なにかいるわ」
初めて、ラン・ファが忠告した。
ミュミュが、さっと彼女の鎧に隠れる。
先頭に立つラン・ファとヴァルドリューズの瞳は、険しく周囲に注がれている。
これまでふざけていたカイルの表情も、引き締まった。
彼にもわかっていた。魔法剣が、警戒しているのが。
どこからともなく、地響きが起こる。
樹海にいたトリやムシなどは、怯えたように一斉にはばたき、飛び立っていった。
巨大なものが地を這うような地鳴りは、ますます強くなり、近付いてくるようだ。
クレアが不安そうに皆を見回し、ミュミュは、そうっとラン・ファの鎧の中から、顔をのぞかせる。
バキッ
ミシミシミシッ!
樹木にひびが入った。
「あの木の向こうだわ」
マリスが指さした。
その木々の向こうには、小高い丘ほどもあるものが、ゆっくりと動いていたのだった。
木が軋み、左右に押し分けられ、樹木が倒れるごとに、地面が揺れる。
それは、一行の目の前にまでやってきた。
それが、いったい何であるのか、皆、始めは理解出来なかった。
樹液が固まり、こびりついている木の皮のような、枝がかき集められているような、或は苔をはびこらせている岩肌のような、いろいろな素材がつぎはぎとなった、横長の物体が、一見、手足もなく、ズルズルと引きずるような音を立て、ゆっくりと進んでいたのだった。
ヒトの三倍の高さがあり、その長い体長は、宿屋ほどもある、巨大な生物だった。
「あれは、サナギだ」
ジュニアが言った。
「サナギだって? あれが……!?」
ケイン、カイル、マリス、クレアは、視線を、ジュニアから巨大サナギに戻した。
「あいつは、正真正銘の魔物ってことか。吟遊詩人、魔物なら倒していいんだな?」
ケインの問いかけに、詩人はうなずいた。
「いいよ。ただし、きみたちだけでも倒せるならね。僕は、一切手伝わないよ。それと、きみも手出しはしないでくれよ。魔界の王子の能力なんか使われたら、他の魔物もかけつけてしまって、ややこしいことになるからね」
詩人は、ジュニアに向かって、忠告していた。
「おいおい、こいつは、魔界の王子っつったって、今は、大した能力も使えないんだぜ。そんな心配には及ばないだろ」
カイルは、サナギから目を離さずに言った。
誰にもわからないよう、ジュニアの目が、ちらっと光り、詩人を盗み見る。
『ここは、魔空間みたいなものだからね。本来の能力を取り戻すまではいかなくても、ここにいる人間たちを脅かす程度には、充分、復活していても、余計なことはしないでおくれよ』
詩人は、あえて関心のない顔をしていたが、その声は、ジュニアにだけは聞こえていたのだった。
『お前、俺の能力のことを……!?』
詩人にしか聞こえないよう答えたジュニアの目が、鋭く光る。
巨大サナギに気を取られていた人間たちは、それには気が付かない。
「物凄い魔力だわ」
クレアが、困惑しながら言った。
隣でうなずくマリスが顔を上げ、ヴァルドリューズを向いた。
「『サンダガー』でやっつけるわ」
全員の表情が引き締まった。それほどの強大な敵であると、誰もが感じていた。
ヴァルドリューズは表情を変えることなく、呪文を詠唱し始める。
マリスは一行から距離を取り、目を閉じると、『全身浄化』の呪文を唱えた。
「クレアちゃん、防御結界よ」
「は、はい!」
ラン・ファが呪文を唱え、両のてのひらを押し出す。クレアも両手を突き出した。
「うわっ!」
ジュニアが飛び上がり、クレアの近くから離れた。
女神ルナ・ティアの結界を操るようになったクレアの術は、さらに神聖な威力を増していたため、魔族であるジュニアには耐え難かったのだった。
二人の結界は、ケインとカイルも包み込む。
吟遊詩人は、独自の結界で身を護っているのか、彼らの後ろに、ひとりで立っていた。
ヴァルドリューズの頭上に、黒い雲のようなものが、ぼやぼやと出来ていくと、そこには、ヒトの骸骨のような顔が、黒いフードをかぶった姿で、浮かび上がった。
魔神『グルーヌ・ルー』だ。
獣神サンダガーの召喚には、何度か立ち会って来た一行であったが、グルーヌ・ルーの姿を見たのは初めてだった。
「いつもは見えなかったのに、なんで……?」
ケインが疑問に思っていると、カイルが応えた。
「俺たちの実力が、神並みになってしまったのか!?」
「違うと思う」
即座にケインが打ち消す。
ヴァルドリューズの三角形を象った手から、金色の光が現れた。
離れた位置にいるマリスは、足元から湧き上るような白いオーラに、全身包まれていた。
「おい、マリスの『全身浄化』も、あんなにはっきり見えたことなんか、なかったよな?」
訝しむケインに、カイルは顔を輝かせた。
「だから、やっぱり、俺たちの実力が、神並みになって……」
「いや、違うと思う」
ヴァルドリューズの手元から、金色の光線が、マリスに勢いよく発射される。
マリスを光が包んだ時、姿が隠れるほど光り輝き、巨大化していった。
そして、それは、間もなく、彼らの見慣れた姿へと移り変わっていった。
「はーっはっはっはっ! またしても、俺様の出番だぜーっ!」
そこには、全身を金色の鎧で覆った獣神が、仁王立ちになっていた。
白い面長の顔は、美しくたなびく黄金色の長い巻き毛に包まれ、枠組みだけで出来ている金色の兜が囲む。
切れ長のつり上がった、エメラルドのような瞳、口元には、人間で言う八重歯が牙のようにのぞき、整った顔立ちは、神聖というよりも、邪悪に見えてしまう、一行の見慣れた男神だった。
「サンダガー……!」
小さく、吟遊詩人がつぶやいた。詩人は、慎重な面持ちでいる。
「これが、獣神『サンダガー』……!」
ジュニアも、巨大な獣神から、目を反らさない。
マリスたちとの旅に加わってから、彼がサンダガーを目の当たりにしたのは、初めてであった。
サンダガーのみなぎるパワーは、金色の稲光とともに、ビリビリと周囲に轟く。
それは、吟遊詩人やジュニアのような、人間でない者にとっては、痛いほどに感じるエネルギーであった。
「なるほど。こいつは、厄介な召喚魔法だぜ」
ジュニアは、サンダガーを見上げて、ぼそっと言った。
巨大化しているサンダガーは、にやにやと笑う。
「つい最近も来てやったが、あの時は人間サイズだったからな。やはり、このくらいの大きさの方が、下々の者どもを見下せて、気分がいいぜ! それじゃあ、いつも通り、自己紹介からいくかー。この俺様が、伝説のゴールド・メタル・ビーストの化身、獣神サンダガー様さー! おそれいったか!」
サンダガーは誰にともなく、否、そこにいるすべての生き物たちに知らしめるべく大声を出し、両手を腰に当て、踏ん反り返って笑った。
「ちぇっ! 卑しい獣のくせに」
吟遊詩人は、軽蔑した目で、見上げている。
「さーて、今回の俺様の獲物は……っと」
サンダガーの目に、ずりずりと、ゆっくり進む巨大サナギの姿が入った。
「なんでぇ、このゴミムシみてえなのは?」
途端につまらなそうな顔になったサンダガーは、人差し指を立て、指先から、光線をサナギに当てた。
金色の光線は鋭く、岩盤のような外殻を一部弾き飛ばすが、何の変わりもなく、サナギは、そのままずりずりと進んでいった。
「こいつ……!」
サンダガーの顔色が変わった。
それまでの、バカにした目付きではなくなり、ゆっくりと進むサナギを見つめながら、腕を組み、何かを考えている。
考えがまとまったのか、サンダガーは、サナギの前に立ちふさがった。
一行は、息をひそめて、獣神とサナギの魔物に見入っていた。
「このムシ野郎!」
何を思ったか、サンダガーは、いきなりガツガツと、サナギを踏みつけ、蹴飛ばし始めた。
「サンダガーが肉弾戦に出たのは、初めてだな」
何の意味があるのかと、探るように、ケインがつぶやいた。
「お前な、あれが肉弾戦って言うのか?」
カイルが眉を寄せた顔でケインを見る。
「そうよ、単なるイジメだわ!」
クレアが、むごいと言わんばかりに叫んだ。
「あいつは、ダメージを吸収して強くなる」
ジュニアの珍しく静かな物言いに、一行は振り返った。
吟遊詩人も、ちらっと魔界の王子を見た。
ジュニアは続けた。
「倒すんなら、サナギのうちにしといた方が賢明だな。孵化したモンスターは、手に負えなくなるぜ」
「手に負えないって? まったく無抵抗な、あんなカメの甲羅みたいもんが?」
カイルが疑わしくサナギを見る。
「だけど、あのサナギ、ダメージを受けてるようには見えないよな。あんなにボコボコにされてるのに」
ケインがそう言うと、カイルも目を凝らす。
「おい、実は、サンダガーって、魔法は得意でも、格闘は苦手とか?」
「さ、さあ……?」
カイルの質問に、ケインもあいまいな顔になった。
「イジメてるうちに強くなられるんじゃあ、今のうちに、魔法で一撃で倒しといた方がいいって、ヤツに助言してやった方がいいんじゃねぇか?」
「う~ん……」
「彼は、知っててやっているのさ」
カイルとケインの会話の横で、吟遊詩人が言った。
「サンダガーは戦いを好む。人間界で言ったら、……そうだな、ネコが獲物を、遊びながらいたぶっているうちに、殺しちゃうのと同じようなものか。彼は、自分が楽しむことしか考えていない。あのサナギが孵ったら、魔道士程度の結界では、防ぎきれるかどうか」
「なんだって?」
カイルとケインは、困惑して、顔を見合わせた。
「ふふん、よくご存知じゃねぇか」
笑っているジュニアを見てから、クレアが不安そうに、ケインたちと吟遊詩人とを見つめた。
「ほら、見てみろよ、孵化が始まったぜ」
ジュニアが、あごで示す先では、巨大サナギの動きが停止した。
カメの甲羅のごとく、硬質化したサナギの殻。その隙間からは、しゅうしゅうと黒い蒸気が湧き出していた。
大型の魔物に見られる、黒い瘴気であった。
殻は、呼吸しているかのように、つぎはぎの隙間を、開けたり閉じたりし、瘴気を吐き出していた。
一行が沈黙して見守る中、呼吸が止まると、凄まじい轟音が、地面に鳴り響く。
岩や樹木の皮で出来たような殻は、内側からめきめきと音を立て、押し破られ、頭部が現れた。濃い緑色の混じった、黒いゼリーにまみれ、ぬれている。
黒い液体で、ベトベトに固まっている二本の触角が、立ち上がり、ぼたっと黒いゼリーを落としながら、バリバリと、胴体が殻を破ってあらわれた。
胴には、触角のような細い足が、数多く折りたたまれていて、徐々に伸びていき、後方には尖った角のような尾も見えた。
背にも、黒い液体に覆われた羽がある。
「蛾みたいなヤツだな」
カイルが、一番に、感想を口にした。
サンダガーは、まだ動こうとせず、腕を組んだまま、じっと巨大蛾を見下ろしている。
液体を振り切った二本の触角がピンと伸び、枝に生えた葉のように、密集した毛が外に向かい、ふさふさとなびき始めた。
蛾の身体からも、黒いゼリーのような液体が、ぼたぼたっとはがれ落ち、人間界では考えられない速さで、乾いていく。
胴体は、どす黒く、気味の悪い赤色であった。黒と黄色の斑点と、緑色の縞模様が、ところどころ見られる。
頭部の触角は、オレンジ色の細かい毛となり、その下では、巨大な一つ目が見開かれた。
緑色に、縦に長い黒い線のような瞳孔だ。
クレアは、一瞬、その目に見入った。
蛾の目の下が、いきなり横に裂け、魔物の体液である濃い緑色の血が吹き出し、もうひとつの頭が、にょきっと現れたのだった。
「きゃあっ!」
クレアが叫んで顔を伏せると、カイルがクレアを抱き留めた。
同時に、ヴァルドリューズがクレアの隣に現れ、新たに、一行を包み込む半月形の結界を張った。
「凄まじい邪気だ。『グルーヌ・ルー』の知恵から編み出した結界に切り替える」
ヴァルドリューズの結界の中から、一行は戦況を見守っていた。
蛾の二つ頭それぞれにひとつずつ、緑色に血走った目があり、胴体にも裂け目が出来ると、そこにも巨大な血走った目が現れた。
背の羽が、徐々に開いていく。
本体同様、赤黒い地に、斑点と縞模様、そして、そこにも、無数の目が開き、ひとつずつが、ぎょろっ、ぎょろっと、勝手な方向を見回す。
その時、蛾の二つ頭の目の下が、下にパックリと裂けた。
口ではなく、勢い余って裂けてしまったように、裂け目からは、黒々とした緑の血をしたたらせている。
「いやっ!」
クレアはカイルの腕の中で、両手で顔をおおった。
ミュミュも、きゃーきゃー叫びながら、ラン・ファの鎧の胸の中に入り込んだ。
「大きさも、気色悪さも、俺たちの出会ったモルデラの村の魔獣以来だな」
嫌そうな顔で、ケインが肩をすくめた。
「もしかしたら、それ以上かもな」
カイルは、自分の腰に下げた剣を目で指した。
「魔法剣が、そう言ってるのか?」
「ああ。魔法剣がおびえてるぜ」
「おびえてるだって……!?」
ケインは、真顔になっているカイルを見た。
「さーて、やっと成虫になったか」
腕組みをしていたサンダガーが、にやにやとした笑みを口元に浮かべている。
「それにしても、相変わらず醜いもんだな、モンスターってのは。この俺様の光り輝くまばゆい姿とは、大違いだぜ!」
サンダガーが高笑いをする。
「マリス、早く決めるのだ」
ヴァルドリューズがそうつぶやいたのは、結界の中にいる全員に聞こえた。
彼の表情は普段と変わりないが、目は鋭く獣神を見つめていた。