忠告
一行が『幻想の森』に入ってから、小一時間が過ぎようとしていた。未だに、青い霧のまぼろしは続いているが、怯えたり、取り乱したりする者はいなかった。
それには、ケインの提案で、皆が手をつないで進んでいることが大きかった。
「なんで、あたし、あんな幻なんかに、騙されちゃったんだろう。別に、ダンのことなんか、考えてなかったのに……」
マリスがそう呟くと、ケインが、マリスの手のひらをつかんだのだった。
「こうすれば、例え、また幻が見えても、現実に引き留められていられるだろう」
真面目に、そう言うケインを見ているうちに、マリスの頬が赤くなっていった。
「いっ、いいわよ、そんなことしなくたって。子供じゃないんだから、大丈夫だってば」
「なに言ってんだ。こうしていた方が、俺だって、安心なんだ」
マリスは黙って、ケインを見つめた。
「皆も、手をつないだ方がいいかも知れない」
そうケインが呼びかけると、ケインのもう片方の手を、吟遊詩人が、ぎゅっと握った。
「なんで、お前まで?」
不可解な顔でケインが見ると、吟遊詩人は、いくらか頬を膨らませていた。
「きみだって、僕とつながっていた方が、もっと安心だろ?」
「なに怒ってんだ?」
「別に、怒ってなんかいないよ」
吟遊詩人は、マリスをにらんだようだったが、すぐにクレアに向き直った。
「きみも、手をつないで」
詩人の差し出された手に、クレアが戸惑いながらも、自分の手を乗せる。
すぐさま、カイルがクレアとラン・ファの手を取り、ラン・ファとヴァルドリューズも手を取り合った。
「マリーちゃあん、俺も怖いよー」
ジュニアが甘えるように、マリスのもう片方の手にしがみついたが、マリスは無反応であった。
そのようにして、縦に一列に並びながら、森の奥へと進む一行であった。
マリスは、自分の手を握っているケインの手を眺め、ぼんやりと考えていた。
(あれだけは、幻なんかじゃないと思った。本当に、ダンの傭兵団も、一緒に来ていたように見えた。だって、あの幻だけ、なんだか、やけにリアルだったし……)
視線は、ケインの背に移る。
青い傭兵服の上に、赤い布が肩から腰へと巻き付けられている。以前、劇団の公演に参加した時に、団員からもらった記念の布である。
(ケインは、幻を見ても、平気だったみたい。あたしを助ける余裕まであった。ということは、あたしよりも、ケインの方が、精神力が上回ってる……?)
マリスは、だんだん悔しいような気がして来た。彼のことは、最初からその実力を買ってはいたが、どこか悔しかった。
彼を頼もしいと思えば思うほど、悔しさも生まれている。
戦士としての自分と比べ、自分の方が劣っているとは思いたくなかったからであった。
というのも、自分と同等の、もしくは、優っている戦士など、ラン・ファ以外には考えられなかったからだ。
そのような考え事をしていたせいで、ジュニアが、ベラベラと話しかけてきても、マリスには、まったく気にはならなかった。
「この辺りで、休憩にしよう」
吟遊詩人が、皆の足を止めた。
そこは、いくらか霧が収まっていて、さえずるトリの声も聞こえ、これまで歩いてきたところに比べれば、ずっと平和的なところである。
「『まやかしの森』は、もう抜けたのか?」
カイルが期待した目で、吟遊詩人を向くが、詩人は、首を横に振った。
「いや、まだ先はある。ここは、霧が薄くなっているから、休むんなら、今のうちだよ。休めるうちに、体力を回復しておいた方がいいだろう? この先、どのくらいかかるかわからないんだから。ああ、道のことだけじゃないよ、なにが出るかもわからないんだからね」
「なんだよ、おどかしやがって」と、カイルだけが悪態をつくと、皆は、それぞれ腰を下ろした。
吟遊詩人は、そこからひとり外れると、黙って霧の中へと消えていった。
「どこ行ったんだ、あいつ?」
ケインが、誰にともなく訊くと、カイルが伸びをしながら答えた。
「さあな。小便にでも行ったんじゃねえの?」
「いやだわ! もう、下品なんだから!」
クレアがカイルをにらむが、カイルは、にやにや笑っていた。
カイルから少し離れたところに、マリスが足を抱え込んで座ると、それにすり寄るようにして、ジュニアが腰を下ろした。
その正面に、ケインが座った。
ラン・ファとヴァルドリューズは、見張りを買って出て、皆には、背を向け、互いに距離を置いて、座っていた。
ミュミュは、二人の間を、行ったり来たりしている。
ケインは、おとなしく座っているマリスから、視線を離せなかった。といって、声をかけることはなかった。
(どうして、あんなことを……。なにも、あんなキツい言い方しなくても……)
思わずマリスに言った時のことを、悔いていた彼の中では、どこか、もやもやとしているような、はっきりとしない感覚が、起きていた。
それは、ある意味、マリスに幻滅したと言えたかも知れなかった。
彼にとって、マリスは、年下であっても、少なくとも自分以上の経験を積んだ戦士であった。普段は無茶苦茶であっても、尊敬すべきところはあると思っていた。
自分にとってマリスは、どのような場面でも、簡単に動揺し、判断を誤るような人物であって欲しくない、という思いが強かった。
(だけど、そんな俺の理想なんか、押しつけちゃいけないって、わかってる。それなら、この感情は、なんだ?)
漠然と心の中に広がっている、嫌な感情に、ケインは気が付いた。
一言で言うと、納得がいかない、のである。
何に納得がいかないのかというと、マリスの惑わされた幻覚が、セルフィス王子ではなく、ダンであったことに、たどり着く。
(なんで、ダンなんだ……)
彼女が、ダンの幻覚に乗せられてしまったことに、どうも納得がいかない。
黒いハヤブサの異名で、傭兵団を率いているというダンの噂を聞いた彼女は、やけに嬉しそうだったように思える。
今まで、マリスは、ずっとセルフィスを想っているとばかり思っていた。
だが、そうではなく、実は、ダンを想っていたのだろうか?
そう思うと、イヤだった。
(なぜ、イヤなんだ? セルフィスなら良くて、ダンならダメなんて、勝手じゃないか)
考えてみたところで、ケインは、ダンのことを、それほどよく知るわけではない。マリスの幼馴染みで、士官学校にも通っていたというくらいだ。
マリスからは、ダンは剣の腕も良かったと聞いたことがあった。自分も、剣術なら常に鍛えている。
セルフィスは王子だから、身分的に敵わなくても、平民から騎士に登りつめたダンには、敵わないとは思いたくないとでも、俺は思っているんだろうか?
(そもそも、マリスは仲間じゃないか。彼女が、誰を想っていようが、俺には関係ないはずなのに……)
そのことが、頭から離れない。
(まさか、俺は、妬いてるのか? マリスを、異性として好きだったんだろうか?)
だが、これまでに、セルフィスに対しては、嫉妬の感情は湧いていない。
(果たして、本当に、そうなのか? 俺の、封じられた記憶の中でも、セルフィス王子に嫉妬したりは、していなかったんだろうか?)
ケインは、もやもやとした気持ちのまま、マリスを見た。
一方、マリスの方は、ケインの視線に気付きながらも、顔を上げることは出来なかった。
彼の真面目な表情を、「怒ってる!」と、とらえていたのだった。
幻影に惑わされた彼女に、ケインが幻滅し、「情けない!」と腹を立てているのだと思えてしまい、悲しくなっていた。
膝を立てて抱え込み、誰にも顔を見られないようにして、マリスは、密かに涙を浮かべていた。
疲れて休んでいるのだろうと思った皆は、声をかけることはなかった。
隣にいるジュニアは、いつの間にか、口を開けて、上を向いたまま寝ていた。
喋っているのは、カイルひとりで、クレアが、時々、呆れながら、意見していた。
吟遊詩人はひとり、青白い霧の中を歩いていた。
地面に敷き詰められた苔が、やけに柔らかい。人の入った形跡など、まったくない未開の地であることを、改めて思い起こさせる。
「そろそろ出てきたら、どうだい?」
森の住民以外の気配など、まったくしないところであったが、詩人は立ち止まり、どこへともなく呼びかけた。
しばらくして、彼の周りだけが、急に黒ずみ、あっという間に、まったく違う景色へと変わっていった。
深い青色のような緑色のモヤが、一面に広がり、そこもまた幻想的な景色である。
くすくすっと、可愛らしい笑い声が、遠くなったり、近くなったりしている。
詩人は、動じることなく、一点を見つめていた。
「久しぶりね」
目の前に現れたのは、ひとりの女だった。
人間にしては、軽やか過ぎる。ふわふわと、淡い緑色の長い髪をたなびかせ、詩人と似たような薄い衣を羽織っている。
透き通るような肌の色に、くりくりとした瞳。
「なんだ、ニンフのルルじゃないか」
「なんだとは、ごあいさつね」
ルルはミュミュとは違い、人間の娘のような大きさで、背には羽もない、娘のニンフであった。
「なんで、きみが、ここにいるんだ? 『妖精の国』へ行く道を、僕が間違えてるとでも言うのかい?」
詩人は、幾分、ツンケンした態度で尋ねた。
ルルが、からかうように、瞳を輝かせた。
「私は、マスター・ジャスティニアスに遣わされて来たのよ。あなたに忠告しにね」
さっと、吟遊詩人の、ライト・ブラウンの瞳が、こわばった。
ルルは、くすくす笑うと、詩人の周りを、ちらちらと、飛ぶような軽やかな足取りで、歩き回った。
「単刀直入に言うと、あなたは、あの人間たちに、かかわり過ぎだってことよ」
顔色を確かめようと、詩人の顔を、一旦のぞきこんでから、彼女は続けた。
「あなたの目的は、ドラゴン・マスターの彼を、魔石の場所へ導くことのはずよ。だけど、最近は、なんだか、それ以外のことにまで、手を出しているみたい。マスターは、なんでもお見通しよ」
ルルは、からかうような瞳を、一層好奇心に輝かせて、詩人の背に乗るように手をかけ、後ろから、耳元でささやいた。
「あなた、あのドラゴン・マスターの青年が、好きなんでしょう?」
詩人の表情は、どこも変わらない。
「そうやって、平静を装ってはいるけど、図星ね。あなた、ああいう人、好きだものね。純粋で、真っ直ぐな人間。現に、先代のマスター・ソードの持ち主だって……」
セリフの途中で、詩人は、冷たい目を向けた。
「わかったようなことを、言うんじゃない」
「フフフ、ムキになっちゃって。自分が護っている者に、いちいち惚れてたんじゃ、やってられないわよ。そんなだから、あなたってば、いつまでも一人前になれないのよ」
「うるさいな! たかが、ニンフのきみなんかに、何がわかる? マスターの遣いだけじゃない、僕の本来の使命は……!」
カッとなって、詩人がまくしたてようとするのを、ルルが遮った。
「マスターは、もちろん、あなたの本来の使命を、否定するつもりはないわ。あなたが、あの男の子の恋路を邪魔しようと、どうしようと勝手だけどね、そのことで、あなたにかかわった人間たちの運命が変わってしまうことや、それに気を取られて、敵の存在に疎くなり、いざという時の判断が遅れてしまうことが、危険だと言っているの。それを忠告するために、私を遣わしたのよ」
詩人は、なにかを言いた気な目をしたが、口を開かないでいた。
ルルは、続けた。
「見たわよ、さっき、あなたが、あの『獣神の付いた子』に、ちょっかいを出していたのを。あなた、あの子には、森のまやかしではないものを、見せてたわ。あなたの作り出した幻覚をね」
ルルが詩人の心の中を見透かしたような笑いを、浮かべた。
「ドラゴンの谷でもそうだったわ。ドラゴン・マスターの男の子が、あの女の子に惹かれているのを、邪魔したわ。彼の、彼女への想いを封じたんでしょう? まさに、あなたの能力だわ。
あなたは、さっき、彼女を崖に落とそうとまでしていた。嫉妬にしても、そこまですることないでしょう? それは、まだ一人前ではないあなたの、やっていいことではないし、神々ですら、しては許されないこととなって久しいわ」
ルルの目が、きらりと光った。
吟遊詩人は、わずかに身体を震わせると、口を開いた。
「彼女を崖から落とそうなんて、考えていなかった。ギリギリで、助けるつもりだった。だけど、その前に、ケインが彼女を助けて……」
詩人の瞳が、動揺し、揺れていく。
ルルは、横から、それをじっと見ていた。
「あなたが恋に落ちるのは自由。だけど、あの獣神の付いた子に、不自然な力で危害を加えるのは、マスターだって黙ってはいないわ」
「どうせ、妖精の国に着いたら、フェアリア様にバレるんだ。それまでのわずかな間、ちょっと意地悪したくなっただけさ。あの子が崖から落ちそうになった時は、さすがに、少しだけ、罪悪感はあったけどね」
詩人は、諦めたような笑いを浮かべ、少々投げやりに言った。
ルルは、つま先を浮かせ、詩人の肩にのしかかるようにして、尋ねた。
「ねえ、どうして、あの女の子を、そこまで目の敵にするの? なにを、そんなに警戒する必要があるの?」
詩人は、しばらく黙っていたが、うっすらと語り始めた。
「ケインは、あんな卑しい獣神の護る娘なんかとは、一緒にはさせない。ケインにふさわしいのは、歴とした、正しい神を守護神に持つ娘なんだ。ルナ・ティア様が付いたクレアみたいな娘こそ、彼にふさわしいんだ」
「そういう取り決めは、あなたの考えることでは……」
「わかってるさ! だけど……!」
強く遮った詩人の肩から、ルルは手を引いた。
「あなたは、ただヤキモチ妬いてるだけよ。あの女の子が、人間にしては、『魂の強い輝き』を持っているから、それに怯えてもいるんだわ」
ルルは、不思議な言い回しをした。
「僕が怯えるだって? ……そんなんじゃないよ」
「いいえ、そうに決まってるわ。ケイン・ランドールが、そこに惹き付けられていることだって、わかってるくせに」
詩人は、身体の力が抜けてしまったように、ぼう然と立っていた。
ルルも、しばらく沈黙している。
そのうち、詩人の口から、ぽつんと、言葉がもれた。
「あの娘は、なにを仕出かすか、わからない。運命さえも変えてしまい兼ねないだろう。それが吉と出る場合もあれば、凶と出ることもあるだろう。彼女に関わった、他の人間の運命までをも、変えてしまうかも知れない。それほどに、『強い輝き』なんだ。そして、僕の持っていないものも、持っている。僕が、普通の人間の女の子でありさえすれば……!」
ルルの、詩人を見つめる瞳には、一瞬、憐れみが浮かんだが、はっきりと言った。
「とにかく、邪魔も手助けも、ほどほどに。マスターの伝言は伝えたわよ」
ルルの姿が消えると同時に、あたりの景色も、元通り、青い霧の中へと、移り変わっていった。
詩人は、そこから、しばらく動こうとはしなかった。
「なあ、あいつ、遅くないか?」
ケインが、皆を見回した。
「小便にしちゃあ、長過ぎるなぁ。ひょっとして、大の方か? ひゃっひゃっひゃっ!」
我ながら、面白いことを言ったと思っているのか、カイルが腹を抱えて笑っている。
この人は、本当に二〇歳を過ぎた男性なのだろうかと、クレアも、マリスも、呆れた目を向けていた。
「あいつ、人間じゃないんだぜ。そんなことしないんじゃないかなぁ」
まともに取り合っているケインに、ジュニアも続いた。
「じゃあ、逃げたんだよ。そうに違いないや! あいつ、神側のヤツだろう? 信用なんか出来るもんか」
「あのー、我々人間からすれば、魔族の方が、よっぽど信用出来ないんですけど?」
ケインが呆れた目で、ジュニアを見る。
いつまで経っても、詩人が現れる様子がないので、一行が、出発しようとした時だった。
「やあ、遅くなって、ごめんよ」
明るい声がすると、吟遊詩人が、微笑みながら、向かってきたのだった。
「なんだ、お前、どこ行ってたんだよ。もう出て来ないのかと思った」
ほっとしたケインの口調に、吟遊詩人の瞳が、からかうように、またたいた。
「おや、僕がいなくて、淋しかったのかい?」
「そうじゃないけどさ」
そこへ、カイルが、にやにやと口を挟む。
「お前が、あんまり遅いもんだから、小便じゃ足りなくて、『大』までしてたんじゃないかって、話してたんだよなー、ケイン」
「それは、お前が、ひとりで勝手に言ってただけだろ?」
と、眉間にしわを寄せるケインの肩を、ポンポンと叩きながら、カイルが、また腹を抱えて、ゲラゲラと笑い出した。
「こ、この美しい僕をつかまえて、なんてことを……!」
詩人は、羞恥心に頬を赤らめ、下唇をかみながら、カイルをにらんだ。
「そろったのなら、もういいじゃない。急ぎましょうよ」
クレアの一声で、皆は、先へ進むことになった。