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Dragon Sword Saga10『妖精の国』  作者: かがみ透
第 Ⅰ 話 まやかしの樹海
2/9

光の国あり

見目麗しき民 西へ移る

(いにしえ)の光の国より生まれし女神

鍵を握る


光の女神手に入れるは

世を導く


闇、光を手に入れるは

世を混沌(こんとん)へと(いざな)



ーーユリウスの唄より抜粋



プロローグ



「さあ、着いたよ」


 吟遊詩人の声であった。

 空間を移動することに慣れていない者たちの目が、おそるおそる開かれる。


 ケイン一行は、ほんの数分前まで、タイスランの町にいたが、辺りは、町とは似ても似つかない風景が広がっている。

 吟遊詩人の能力により、瞬時に移動し、草木の覆われた一面が緑の、人里離れた森にいるのだった。


「おい、ここが、妖精の国なのか?」


 傭兵のカイルが、きょろきょろと見回しながら、吟遊詩人に尋ねる。金色のさらりとした長い髪に、油断のない鋭い瞳は、いくらか不安そうな表情を浮かべていた。


「ここは『幻想の森』の入口。これを越えれば、妖精の国までは、もう目と鼻の先だよ」


 自称吟遊詩人は、ひときわ木々の密集している辺りを指さした。

 薄い衣をまとった、色の白い、中性的な少年であり、神秘的な印象を与える。


「幻想の森って……?」


 クレアが尋ねると、詩人は、彼女のつややかな長い髪と、髪と同じ黒い黒曜石のような瞳を見て、答えた。


「ただの森じゃない。得体の知れない辺境へとつながっているんだ。しかも、人の弱みにつけこんだ幻が現れるという。ただの幻想というよりも『まやかし』だと思って、用心した方がいいだろうね」


 いつもの、彼の茶化すような態度とは違い、深刻さが伝わる。


「そんなとこ、わざわざ通らなくても、お前の魔法みたいなヤツで、妖精の国まで、ポ~ンって、連れてってくれればいいのに」


 カイルが面倒臭そうな顔になった。


「ここの生き物たちは敏感だ。動物以外の『見えないもの』たちもいる。ここに限らず、辺境と呼ばれる場所では、空間移動の魔法は、やたらに使わない方がいい。これは、覚えておいた方がいいよ。時空の(ひず)みが入り組んでいて、どこに迷い込んでしまうかわからないからね。きみたちが旅して来た西の砂漠が、そうだったように」


 彼独自の能力(ちから)とは無関係であったが、詩人は、あえてそれを口にしなかった。


「じゃあ、ジュニアの力でもダメなのか?」


 あくまでも楽をしたいカイルが、食い下がる。


「魔界の王子の力なんて使ったりしたら、それこそ、魔物たちが魅き寄せられてしまうよ」


「どうやら、地道に行った方がいいらしいな」


 ケインの落ち着いた声に、一行は頷いた。


「ところで、お前が案内してくれるのは、ここまでなのか?」


 吟遊詩人は、くすっと笑って、そう尋ねたケインの青い瞳を見た。


「おや、僕がいないと淋しいのかい? 安心していいよ、もうちょっとだけ一緒にいるからさ。その代わり、ズルは出来ないよ。きみたちだけで、なんとかしなくちゃならないんだ。わかったかい?」


 中性的な彼ならではの、コケティッシュな微笑みを、ケインは、眉を寄せて見ていた。


「それじゃあ、行きましょう」


 肩にかかったオレンジ色の髪をはねのけたマリスが、アメジストのような紫色の瞳を輝かせ、いつもの勝ち気な笑顔になった。




   Ⅰ.『まやかしの樹海』(1)幻



 先頭は、敏腕の魔道士であるヴァルドリューズと、マリスの師でもある東方の女魔法戦士のラン・ファであった。


 吟遊詩人が道案内をしないのであれば、後は、ケインの連れである妖精の勘に頼るしかないのだが、その妖精ミュミュが、ヴァルドリューズとラン・ファに特に(なつ)いていて、ミュミュの強い希望(単なるわがままであるが)で、二人が先頭になったのだった。


「ミュミュちゃん、妖精は『伝説の戦士に付くもの』なんじゃないのかい? 魔道士なんかじゃなくてさ」


 呆れた顔で、吟遊詩人が言わずにいられないとばかりに意見すると、ミュミュは、ぱたぱた飛んで、ラン・ファの肩に舞い降りた。


「じゃあ、ラン・ファおねえちゃんと一緒にいる。おねえちゃんなら、戦士でしょう? 吟遊詩人のおにいちゃんだって、おねえちゃんのこと『伝説の女戦士さん』って呼んでたじゃない」


「それは、言葉のアヤというか……」


 詩人は、もごもごと口ごもると、ミュミュに、意見するのをあきらめた。


 ヴァルドリューズとラン・ファの後には、クレアとカイルが並び、吟遊詩人とジュニアが、そして、しんがりは、何かあった時のために、戦闘力のあるマリスとケインということになった。


「『まやかしの森』と聞いて、不安かも知れねぇが、何かあっても、俺が、絶対護ってやるから、安心しろよ」


 カイルが自慢の金髪をかき上げ、クレアにやさしく微笑む。

 大抵の町娘は、これで落とせたものだっただろう。


 が、それを見たクレアは、「ありがとう」と言っただけで、特に何も感じていないようだ。


「『まやかしの森』だって。俺、こわいよー。何かあったら、助けてね、マリーちゃん」


 ジュニアが、左右の色違いの瞳で、甘えるように見つめ、マリスの手を握る。

 だが、マリスの知ったことではなかった。


 そこは、明らかに、現実の森とは違う何かを、感じさせる。


 タイスランの町で落ち合う前に、ケイン、マリス、カイル、クレアは、ドラゴンの棲む谷で、ヴァルドリューズは長年のライバルであった男との対決によって、それぞれ人間界とは別の異色な世界を体験してきたばかりであったが、それにも増して、ここは不思議なところだと思わずにはいられなかった。


 見たことのない植物ばかりが、立ち並ぶ。


 どっしりと太い木の幹から、先端がいくつもの枝に分かれ、急激に細くなり、這うように、横に伸びている。

 小動物を飲み込んだヘビの腹のように、ぽっこりと、そこだけが膨らんでいる枝もあった。


 よく見ると、髪の毛のように細い枝もあれば、指ほどの太さの枝が、数十本も絡まっているところもある。


 木の表皮もまだら模様であったり、黒い樹液がべったりと、ロウのように固まっていたり、葉も緑色に限らず、青や黒いものもあれば、形も人間界の葉とは異なり、角張っていたり、鋭い三角形の葉が密集していたりする。


 美しいというより、未知の不気味さが充満しているところであった。


「うわっ! なんだ!?」


 草の影に隠れていたため、カイルが、あやうく踏ん付けてしまいそうになったのは、人の血のような赤い色と、腐ったような緑色をした、拳大ほどの、表面がごつごつとした石の殻をかぶった生き物であった。


 その生物は、石の鎧の下から、黒い触角を二本、にょきっと伸ばすと、シャアッ! と音を発した。

 殻の下から生えている無数の細い足も、しきりに動かし、威嚇(いかく)している。


 カイルは胸が悪くなった気がして、目を背けると、無言でヴァルドリューズたちの後に続いていった。


 そのすぐ横で、クレアが悲鳴を上げた。

 彼女のそばにあった木の枝が、生きているように、頭上から、するすると下りて来て、先端がパカッと開くと、黄色い目のようなものが現れたのだった。


「きゃっ!」


 顔をおおったクレアを抱きとめようと、カイルが両手を広げるが、クレアは、すぐ後ろにいた吟遊詩人にすがりついた。


「大丈夫、大丈夫。なにもしないから」


 詩人は、クレアの背を軽くさすると、やさしく微笑んだ。


「本当に、なにもしないの?」


「ああ。この森の『住民たち』は、よそ者が来ると、こうやって観察しに来るのさ。害のある者かどうか見極めるためにね。だから、やたらに木々を傷付けたり、生き物たちを攻撃したりしない方がいいよ」


 頼りない瞳で見つめるクレアに、詩人は、安心させるように言い聞かせた。


「そういうことは、最初に言えよ」


 カイルが面白くなさそうに、顔を歪めている。


 ケインは、ちらっと、隣にいるマリスを見てみた。

 彼女も女の子であり、もとは王女という身分であったにもかかわらず、このような不気味な『住民たち』を目にしても、不思議そうな顔でじっと見ることはあっても、悲鳴を上げることはなかった。


(マリスは、相変わらず、こわくないみたいだな)


 笑いたくなるのをこらえながら、ケインは視線を前に戻した。


 そのように奇妙な生き物たちの間をくぐり抜けていくうちに、一行は、辺りが、薄青白い霧に包まれていることに、気が付いた。


「随分、霧が濃くなってきたな」


 ケインが見回しながら言った。


「これが、『まやかし』の元だよ。森の『住民たち』に気を取られるだけではなく、『まやかし』にも惑わされないよう、ここからは気を付けて」


 慎重な、吟遊詩人の声に、ミュミュは、さっとラン・ファの鎧の中に隠れた。

 ラン・ファも、ミュミュにやさしくうなずくと、もとの油断のない表情に戻り、注意深く進んでいく。


 隣のヴァルドリューズは、当初から、普段通りに無言の上、無表情のままである。


 進むに連れ、霧は、ますます濃くなっていった。総勢八人の一行は、慎重に、それまでよりも、速度を落として歩いて行く。


 時々立ち止まるのは、どの方向へ進むべきか、ミュミュが考えている時であった。


「う~ん、……今度は、こっち」「あっちみたいな気がする」という声が、最後尾(さいこうび)のケインたちのところまで聞こえる。

 その頼りない幼女の声には、まったく根拠は感じられない。半信半疑(はんしんはんぎ)だろうが、適当だろうが、皆は従うしかなかった。


 ミュミュの方は、一行の中で、自分が重要な役割を担っていることに、たいそう満足しているらしく、得意気な顔でいた。


「おい、お前、神側のまわしモンなら、さっさと目的地へ案内したらいいじゃないか。場所はわかってんだろ?」


 嫌そうな顔でジュニアがにらむが、横に並んでいる吟遊詩人は「何度も同じことを言わせるな」と言いたげに見返してから、ツンと横を向いた。


 このように、魔族と神の遣いが、横並びに歩くことなどは、有り得なかった。


 黒を象徴する魔界の王子ジュニアは、肌の色も浅黒く、髪も衣服も黒い。先の尖ったヘビのような尾があり、野性的な外見だ。


 一方、吟遊詩人は、ライト・ブラウンの髪に、肌は透き通るように白い。華奢な身体付きで、薄く白い衣を羽織る。神の遣いにふさわしく、白を象徴していた。


 外見上も対照的な、宿敵に値する二人が、隣り合っているのは、なんとも奇妙だが、どこか微笑ましくもあった。

 それには、二人が、まだ若い少年の姿をしていたことが大きい。


 進むにつれ、森は薄暗くなり、霧は、ますます濃い青色となっていく。


 霧の濃い部分が徐々に、頭の位置まで降りてくると、彼らの頭の中、心の中に、それぞれ呼びかける声が聞こえ、ちらちらと何かが見え隠れもしていた。


 それが、『幻想の森』または『まやかしの森』の不思議な力によるものだろうと、一行は気を引きしめた。


 ふいに、ヴァルドリューズを、黒い瘴気(しょうき)が取り囲む。

 小さな見慣れぬ妖魔が、不気味にあざ笑い、ちらちらと飛び交っている。


 これまで手にかけて来た数々の魔物が、唸り声を上げ、今にも、一斉に襲いかかろうと、見計らっていた。


 だが、彼の瞳は、動揺することなく、そのまま真っ直ぐに、前を見据えている。

 彼の意志の力は、そのような幻覚に惑わされることはなかった。


 隣を歩いているラン・ファにも、幻覚が見えていた。


 飛び交う妖魔だけでなく、鎧の中にいたミュミュですら、小さな魔物が威嚇している姿と変わっている。

 驚いて追い出してしまえば、ミュミュを放り出すことになるとわかっていた彼女は、怯えることなく、落ち着いて歩いていく。


 ミュミュは、鎧の中から、外の風景をのぞいていた。


 彼女にも、妖魔が向かって来るように見えていたが、そのような時は、身を縮めて、目を閉じ、おとなしくしていた。わずかに震えてしまうのは、止められなかったが。


 ラン・ファを見上げることは、出来なかった。まやかしのせいで、ラン・ファが不気味な魔物にでもなっていようものなら、耐えられないことが、わかっていたからだ。


 鎧の中で感じる、血の通った人間の温かさが、ミュミュを現実につないでいた。


 クレアは、いきなり自分だけが取り残されたような感覚に襲われた。


 前を歩いていたはずのラン・ファとヴァルドリューズが、青黒い霧の中で、いつの間にか消えてしまい、隣にいたはずのカイルもいない。後ろを振り向いても、吟遊詩人やケインたちもいないのである。


 クレアは、思わず立ち止まった。


 たったひとりで、放り出されることこそ、彼女の最も恐れていた事態であった。


(皆、どこへ行ってしまったの?)


 突如、不安にかられた彼女は、辺りを見渡すが、一面を青い霧が覆い尽くしていて、足元さえも不透明な青で埋まっていた。


(これは、きっと、幻だわ。皆、本当は、私の周りにいるはず……)


(そうよ、これも精神を鍛える修行のうちなんだわ。私が、一番未熟なんですもの。こんなことくらいで、惑わされてしまうのは、きっと私だけだわ。皆は、平然と進んでいるに違いないわ)


 祈るように手を組み、しばらく立ち止まっていた彼女は、不安を完全に消し去ることは出来なかったが、冷静さを取り戻すと、ゆっくりと足を踏み出した。


 そして、ケインも、魔物の幻覚に包まれていた。

 濃い、黒い瘴気が自分を取り囲み、やはり、周りの人間が見えなくなっている。


 これまでに倒して来た不気味な魔物、特に、ドラゴンの谷で遭遇した上級魔族たちが、復活したかのように牙を剥き、或は、不気味な笑いを浮かべながら、隙を伺っている。


 谷で、彼が一番恐怖した魔族の女リリドの姿もあった。死んだ人間の女のような落窪んだ目に、こけた頬、ぼうぼうの長い白髪。


 ナメクジのようなぬめりを帯びた彼女の無数の舌に、全身を、内蔵までをも、まさぐられた感触が甦ったケインは、身体中を、ひんやりとしたような、時たま、生暖かいぬめぬめとした、意思を持った生物に、撫で回されている感覚に襲われた。


 その不気味さに、思わず、マスター・ソードを抜き、追い払いたい衝動にかられるが、仲間が巻き添えを食うことや、むやみに、ここの生物たちを傷付けてしまうことを思い浮かべ、やっとのことで耐えた。


 リリドの舌が、刺を突き出した。

 身体中に、痛みが走った。


 痛みまでもが幻覚となっておそってきたことに驚いたが、出血したところから、血の匂いまではしてこなかったことで、幻覚だと認識することはできた。


 ケインの隣にいるマリスにも、倒して来た数々の魔物たちが現れている。

 不気味さを感じてはいたが、それが、まやかしであることは、わかっていた。


 惑わされることなく進んでいたが、そのうち、魔物に混じって、妙な声も聞こえて来る。


『……マリス……、助けて……!』


 か細い、消え入りそうな声であったが、マリスには、その声が誰のものであるか、すぐにわかった。


(……セルフィス!)


 マリスは、声のする方に、目を凝らした。


 黒々した魔物の群れの果てには、母国ベアトリクスの王子、かつて彼女の婚約者であったセルフィスが、魔物にからめ捕られ、息も絶え絶えになっている姿が見えた。


 白い(おもて)は青ざめ、憔悴(しょうすい)し切っている。身体全身から流血し、瀕死(ひんし)の状態である。


 マリスの目が、いたたまれずに、わずかに動いた。


(汚いわね。人の弱みにつけこんで……)


 痛ましいその様子から目を背けると、マリスは、精神を持ち直すために、目を閉じ、深呼吸をした。


 そして、再び目を開け、足を踏み出した時であった。


 マリスの耳が、ウマの(いなな)く声をとらえた。


 横を見ると、青い霧の向こうの木々の合間から、うっすらと、黒い影が見えた。

 黒いウマに乗った、黒い甲冑の男が率いる集団であった。

 自分たちの歩く道と平行に、その一軍は、進んでいた。


 霧が引くと、マリスは、ハッとして立ち止まった。


 先頭の馬上の男は、黒い甲冑、黒い短髪に、黒い瞳の青年であった。

 その後ろのウマに乗った男が、先頭の男と並んだ。


「妖精の国は、すぐ近くだと思われます」


 黒髪の青年は、ゆっくりとうなずくと、そのまま、慎重にウマの歩を進める。


 総勢一〇〇人にもなる軍隊のウマの(ひづめ)の音や、甲冑のこすれる音、人々やウマの息遣いなども、一瞬、晴れた霧の向こうに、映ったのだった。


(ダン……!?)


 それらは、幻覚とは違うと、マリスには、はっきりと感じられた。


「ダン! ダンなの!?」


 マリスは、走り出していた。


 黒い甲冑の男も、それに気が付き、見覚えのある黒い瞳が、大きく見開かれていく。


「マリス、……マリスか!?」


 男は、周囲の者が止めるのも聞かずに、ウマから飛び降り、マリスの元へと駆け出した。


 男は、マリスの記憶よりも成長していた。だが、凛とした黒い瞳は、変わっていない。


「ダン!」

「マリス!」


 再会の喜びにあふれた笑顔で、男がマリスを抱きしめる寸前であった。


 ぐいっと、自分の腕が引っ張られるのを、マリスは感じた。

 なにがなんだかわからないうちに、強い力で、引き戻されていた。


「マリス、目を覚ませ!」


 徐々に聞こえてきた声が、はっきりと耳元で、そう聞き取れた時、マリスは、ケインに腕をつかまれていたことに、気が付いた。


 同時に、ダンだと思っていた男と、ウマの大軍は消え、足元は、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)へと変わった。


「崖!?」


 マリスは、目を疑った。信じられない様子で、崖とケインとを見つめる。


「そんな……! だって、あれは、幻覚なんかじゃ……」


「マリスは、何もないところに向かって、いきなり走り出したんだよ」


 諭すように、ケインが言った。


(もし、あのままダンの腕の中に飛び込んでいたら……? ケインが来てくれるのが、もうちょっと遅かったら……!)


 途端に、恐怖が湧いて来たマリスは、その場に座り込んでしまった。

 ケインは手を放すと、黙って、その様子を見つめていた。


「どうしたんだい? 大丈夫かい?」


 吟遊詩人がやってきて、ケインの横に並び、心配そうに、マリスに声をかけた。


 マリスが崖を見下ろしながら、自分の身体を抱え込む。


「とても幻には思えなかった。ダンのあの表情も、声も、なにもかも……」


 吟遊詩人は、気遣うようなやさしい目になって、マリスを見た。


「まさか、きみほどの人が、幻覚に惑わされるなんて。それも、元婚約者の幻想じゃなくて、幼馴染みの方だったとは。実は、その人のことが、心の中で、引っかかっていたんだね」


 ケインの眉が、ピクッと動いたのを、詩人は見逃さなかった。それを、あえて観察していたようでもあった。


 ぼう然と、崖を見下ろすマリスに、ケインは言った。


「ここが、まやかしを見せる森だってことは、わかってたんだから、もうちょっと慎重になれよ」


 突き放すような言い方をすると、ケインは、マリスからは目を反らし、ジュニアを向いた。


「ジュニア、お前、マリスのことが好きなんだったら、ちゃんと護って……」


 と言いかけて、口を噤む。


 ジュニアは、頭を抱えて、地面にのたうちまわっていた。


「うわあああ、天使どもが、襲ってきやがるー! 俺様の力が弱まってるからって、調子に乗りやがってー! こらっ、攻撃するんじゃねえっ!」


 その隣では、カイルが、同じように頭を抱え、泣き叫んでいた。


「ああああっ、そこら中に宝物が! そして、美女が次々と、俺を誘惑しに来る! 幻だとわかっているがゆえに、苦しいっ!」


 棒立ちになって見ていたケインの口から、ポロッと言葉がこぼれた。


「お前ら、幸せだな……」


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