ミサちゃんの過去
ミサちゃんは硯を出すと、居間で正座をして墨をすり出した。
俺は相向かいに座り、ミサちゃんを眺めている。
しかし、此処は無駄に広いなあ。
墨をする音が響いているだけで、あと聞こえるのは柱の時計の秒針を刻む音だけだ。
ミサちゃんと年配の女中さんしか見た事がないけど。
こんな大きな家なのに、家人って他にいないのだろうか?
「…ミサちゃんって一人暮らし?」
俺が聞くとミサちゃんは俺を見た。
「何や。そんな事が気になるん?」
「ああ。変かな?」
「別に。変やないよ。」
ミサちゃんの手元から、シュッシュッと音がする。
それは乱れることなく等間隔で聞こえた。
「…うちねえ。生まれてからすぐにキツネ憑きになったんよ。」
ミサちゃんがそう話し出す。
俺は黙って聞いている。
「家の人が怖がってしもうてね。隔離されたんよ。実家の小さな離れの小屋に。」
ミサちゃんの手はやまない。
「体中毛だらけやし、爪もすぐに鋭く伸びるしなあ。…人の言葉も分かるけど喋れなかったんよ。」
少し自嘲気味にミサちゃんが笑う。
「小屋に閉じ込められてから、何で生まれて来たんやろうって、子供やったけど毎日考えて。」
墨を少しかき混ぜて色を見る。
それからまた手を動かし始めた。
「考えても考えても答えは見つからんし。家の人はご飯をくれる時しか来ん様になったし。きっと次に生まれた弟を可愛がっていたんやろうね。」
俺が肯いたのを見て、ミサちゃんはちょっと笑う。
「泣いても喚いても、誰も来ん。暴れても怪我しても、誰も来ん。遠くたって聞こえているはずやけど、誰一人来んかった。」
俺はただ、頷くしか出来ない。
幼い少女を、外に立てた小屋に閉じ込める。その事自体が信じられない。
「うちね、それで諦めたんよ。もう、生きておっても仕方ないなあって。…暴れる体力も無くなってもうて、床でじっと横になっておったんよ。…空は綺麗だなあとか、草木は綺麗だなあとか、そんな事しか見えへんかった。」
ミサちゃんが笑って言っている事が、信じられないほど酷い話だ。
「…そこに、夜行が来たんよ。」
「…夜行が?」
ミサちゃんが嬉しそうに微笑みながら肯く。
「うん。床に倒れてたうちに話しかけたん。人間の話なんて分からないって思われていたうちに。…大丈夫だよって。すぐにそれを取るからねって。」
那岐なら言いそうだと俺は思う。
「術を行使されて何だかわからん苦しさに、うちは夜行に飛びかかって傷つけたんやけど、夜行はうちを抱っこして、怖がらなくていいよって何度も言って。」
ミサちゃんが俺を見て笑う。
「うち、抱っこされたの夜行が初めてやったの。それまでは誰も傍に来なくて。…暖かった。とっても。」
少し涙ぐんでミサちゃんは話を続ける。
「狐さんが取れてもなあ、うちに話すんよ。この狐さんは悪い狐さんやないから、うちの守護神にしたらいいって。」
「え。その狐さんを?」
「うん。少し悩んだけど良いって言ったら。夜行はうちの言葉が分かってなあ。すぐにそうしてくれてん。」
ミサちゃんがまた硯を掻き回す。丁寧に。
「その狐さんが守護神になってから、うちは神呼びが出来るようになってなあ。それがこの国でも珍しい力って分かると、家の人が急にうちを大事に扱って。」
「…うん。」
ミサちゃんの口調を聞かなくても、それは分かる。
そんな風に手のひらを返されたら、人間不信になるだろう。
ましてやそれが家族なら。
「…その後も、夜行はよくうちの所に来てなあ。いろいろ言っていくんや。説教臭い事をたくさん言うもんだから、嫌な時もあったけど。」
ミサちゃんがまた笑う。
「その全部がうちのためやって気付いたら、夜行が来るのが楽しみになって。夜行がいつ来ても良いように此処に一人で住むようになったんよ。」
「え?夜行のためなんだ?」
ビックリしている俺を、ミサちゃんは気にしないで話し続ける。
「そう。だって親は夜行を利用しようとするん。だからそれを阻むにはうち一人がいいって思って。」
「…寂しくないの?」
「全然。…夜行が一回リタイヤした時は、うちはこれを止めようと思ったけど。帰って来るって信じて腕を磨いてたんよ。再会した時には凄い褒めて貰って嬉しかったわ。」
リタイヤ。
ああ、そうか。
那岐は彼女のために。
ミサちゃんが俺をちろっと見る。
「なに?」
「…NEEDさん。夜行がリタイヤした理由、知ってはるん?」
「…本人に聞きなよ。さすがに俺の口からは言えないよ。」
「そっかあ。友達って伊達やないんやねえ。」
感心したようにミサちゃんが言う。
いや。
那岐は結構書き散らしていますから。
友人じゃなくても知っている人結構いますよ?
あ。でも事情を知らないと、それを推測は出来ないか。
那岐は少し露出癖があるからなあ。
俺でも知っている訳で。
…本当の気持ちはわからないけど。
書いてあることは、事実として認識は出来るけど。
その時どう思っていたかなんて。
きっと本人しか知らない。
ミサちゃんが手を止める。
「…少し話せんけど、いい?」
「どうぞどうぞ。」
真剣な顔をしてミサちゃんは白い紙に何かを書いていく。
それは護符の様だった。
この家は那岐のために。
その護符は那岐に言われたから。
…俺にそこまで出来るかな。
軍配は最初から、君に傾いている気がするよ。
ミサちゃん。
何やら何枚ものお札を書き終わると、ミサちゃんは立ち上がり。
それを片手に、俺を見た。
「NEEDさん。一緒について来るん?」
「ああ。ミサちゃんが嫌じゃ無ければね?」
俺がそう言うと、ミサちゃんはころころと笑った。
可愛らしい鈴の様な声。
玄関へ向かうミサちゃんの後を追う。
外に出て道路との境にある外壁に、一枚ぺたりと護符を貼った。
少し光った気がするが、俺はそういう現象にまだ慣れない。
外壁に四枚の札を貼る。
角に貼るのかと思っていたのだが。
それはまるで決められた位置のように、ぶれる事なく貼られていって。
不思議がっている俺の顔を見て、ミサちゃんが解説をしてくれる。
「方角があるんよ。お札を貼って効果のある方向に貼らんと、あんまり意味がないもんやから。」
成る程。
東西南北その間。
それから鬼門遁甲とか、そういう事ですね?
納得している俺の顔を不思議そうに、ミサちゃんが見てくる。
俺はその顔に少しドキドキして。
「こんな話をしても、変やって思わんのやね?」
「…そりゃあ、夜行の友達ですから。」
「そやね。」
また、ミサちゃんが笑う。
こんな美少女が屈託なく俺の前で笑うなんて、どんなご褒美だろうな?
笑っているミサちゃんの手元の札が、また少し光っている気がする。
俺がじっと見ると、ミサちゃんも自分の手元を見降ろした。
それから、その札を俺の眼の前に持ち上げて、俺の眼を見る。
「これ。何に見えるん?」
「え?…札だろう?」
「ほんま?」
え?
そう言われて、ミサちゃんの白い指先に挟まれている札をじっと見てみる。
別段、変わった様子には見えないのだが。
目を凝らして、もっとよく見てみる。
書かれている文字が揺らいで、少し形を変えていった気がした。
ん?
揺らぎは強くなり。
焦っている俺の眼の前で、書かれている文字が変化をしていく。
それは黒い墨の色から段々と変化をしていき。
ミサちゃんの指の下で蠢く、金色の動物になっていく。
「う。」
俺が怯むと、ミサちゃんがにっこりと笑った。
「NEEDさん、見えるんやね?」
「え。あ、いや。」
そうは言っても、俺の顔で見えている事は分かられているだろう。
自慢ではないが。
不思議な話や怪奇的な事象が好きだと言っても、こんな事が見えた事は今迄に一度もない。
那岐に会って、夜行の起こす不思議を見るまでは俺にこんな体験はなかった。
ミサちゃんは俺を微笑んで見ている。
まるで子供を見るように。嬉しそうに。
年下のこんな美少女に、そんな表情をされて恥ずかしいやら身の置き所がないやら。
「あのね、NEEDさん。…縁があるっていうのは。」
「え?」
ミサちゃんの言葉が上手く耳で拾えなくて、俺は彼女に聞き返す。
にっこりと笑ってから少しゆっくりした声で、ミサちゃんが言った。
「あんさんと夜行が縁を結んだというのは、偶然ではないんよ?」
「…。」
それは。
それは一体どういう意味だろう。
俺はミサちゃんをじっと見据える。
その俺の目線を、ミサちゃんは微笑んだまま受け止めた。
「あんさんが夜行と会ったのは、きっと必然や。」
「必然?」
「そうや。うちには偶然やない縁が見える。しっかりと太い絡み合った縁の糸が。…羨ましいぐらいの強い縁やね。」
「俺と、夜行に?」
本当に?
俺の心臓がバクバクと音を立てる。
那岐と俺が出会ったのは、運命だとでもいうのか?
ミサちゃんはそこまで言った後、ニヤリと意地悪そうに笑った。
え?
「でも残念やね、NEEDさん。夜行は男の人は好きではないんよ?」
ええ?
そこが残念な個所ですか?ミサちゃん?
まあ、確かに。
男が好きとは聞いた事はないけど。
でも。
男には好きにされて。
だから余計に。
那岐は男が嫌いなのだろうか。
何だか勝ち誇った様な顔のミサちゃんに、何も言わずにいると。
俺の顔を見ているのに飽きたのか、残りの札を持ったまま。ミサちゃんが家に戻っていく。
慌てて後を追いかけて、俺も再び家の中に入る。
ミサちゃんが玄関の登り口で俺を待っていてくれた。
ああ。
ミサちゃんは本当に美少女だ。
少し見上げながら、俺は改めてそう思う。
長い艶やかな黒髪も、微笑んでいるその薄桃色の形の良い唇も。
豊かな睫毛に彩られたその大きな瞳も、陶磁器の様な白い肌も。
完璧な美少女が、こんな近くで俺を待っていて。
何だよ、この状況は。
「どうしたん?NEEDさん?」
「う。あ、いや。何でもないよ。…それ、家の中にも貼るのか?」
「せや。結界は何重にでもしとかんと。…相手は<指>やしね。」
<十指>。
俺はその単語を語るなと、那岐に口止めされているから。
ミサちゃんの言葉にも肯くだけだけど。
「もちろん、こんなものが通用するかは、うちにも分からないのやけど。…夜行が言ったのだから効果はあるんだと思う。」
「そうか。」
ミサちゃんのその那岐に対する信頼を、ちょっと妬ましく思いながら、俺は肯いて玄関を上がった。
家の中を取り囲むように渡されている廊下の二か所。
風呂場。トイレ。
それから、居間と書斎らしき部屋。
ミサちゃんの手の届かない所では、俺がミサちゃんを抱えて持ち上げた。
うわ。
腰細い。柔らかい。いい匂いがする。
俺はドキドキいっている心臓が気付かれないようにと願いながら、それを繰り返した。
当のミサちゃんは平気な顔をしていて。
…おじさんは悔しいぞ?一人で舞い上がっているみたいじゃないか。
「これで、いいやろ。」
ミサちゃんは札を貼り終わるとパンパンと手をはたき、俺を振り返った。
「なあ、NEEDさん。お腹空かへん?」
「ん?」
俺は自分の腹を擦ってみる。
「そういやあ、空いて来たかなあ。」
「そう?じゃあ、うちがご飯作るわ。」
え。
美少女の手料理ですか?
これ、なんて言うギャルゲー?
台所に行き、ミサちゃんは可愛らしいエプロンを身につけると、何やら冷蔵庫を見ながら、悩んでいる御様子。
「NEEDさん。和食と中華。どっちがええの?」
「ん?俺は何でも食べるよ?」
ミサちゃんが俺をちろりと見る。
「ほんま?好き嫌いはないの?」
「…いや、有るにはあるけど。」
そう言うと、ミサちゃんの頬がぷっと膨らんだ。
か、かわいい。
「あるんやないの。…なに?」
「え?……野菜。」
ミサちゃんがピタリと動きを止めて、俺をじっと見る。
いや。何でしょうか。
「それは、随分と沢山やね?」
「え?そう?俺は肉さえあればいいんだけど。あ。あと、卵とか。」
「うちは料理の話をしているんよ?材料の話やないの。」
「えー…。」
俺を見ながら腰に手を当てて睨んでいるミサちゃんは、やっぱり可愛い。
うん。
俺は相当な変態さんかな。
何しても可愛いなんて、やばいだろ?
「あ。大丈夫だよ。食べられるから。」
「…ほんま?うちは野菜が好きだから、分量が多くなるよ?」
「いいよ。」
「ほな、作るから。待っててな?」
俺は台所が見えるリビングのソファで、携帯をいじりながらミサちゃんの料理姿を眺めている。
…おいおい。新婚さんじゃないんだから。
て。
俺、何の目的で此処に来たんだっけ?