解呪の代償・2
なすすべもなく見ている俺達の前に、ガタン!!と大きな音と共に母親が襖を破って飛ばされて来た。そのまま庭に落ちて気を失ったようだ。ピクリとも動かない。
様子を見たいのだが、ミサちゃんがぎゅっと俺の手を握っていて動くことが出来ない。
ミサちゃんの視線は家に固定されている。
襖が破れて飛んだので、家の中が見えるようになっていた。
那岐は神棚に向かって立ったままで。
何かを言っているようだが、こんなに近いのに那岐の声は聞こえない。
那岐の黒い上着が何か所も破れ中身の綿が出ていた。
落ちてきた女性の手に、包丁が握られているのに気付く。
ハッとして那岐を見直す。
まだ何かを言っているが、その顔は少し青ざめている。
那岐!?
俺達の見ている短時間の間に、神棚から黒い煙がたくさん出てくる。
那岐の周りを埋め尽くさん限りだ。
正体不明の煙は、火が燻ぶっているとかそういう現実的な物ではなさそうで。
ふいに那岐の後ろから男が出て来て那岐の首を抱えて締め出す。
今まで家の中のどこに居たのかは知らないが、男のその表情は殺気立っているのに虚ろに見えた。
流石に那岐が苦しそうにする。
それでも那岐の口は閉じない。多分何かの呪文を唱え続けている。
どうして聞こえない!?
「夜行っ!」
俺の手を握ったままミサちゃんが叫ぶ。
けれど那岐は。
俺達に眼もくれずに言い続ける。
ああ。
もどかしい!
こんなに近くに居るのに。どうしてお前が無声映画のように見えるんだ。
現実味がないように見えているんだ。
じっと見ていると家の境に、何か白い壁の様なものが見えた。
光の加減のように思えるが、俺には何かの結界のように思えて来て。
それがあるのが、いけないのか!?
だから那岐の声が聞こえないのか!?
そんなもの!!
俺はギュッとミサちゃんの手を握ったまま、その白い壁をじっと睨みつける。
「…NEEDさん?」
ミサちゃんがこっちを向いているのは分かっているが、見返す余裕なんてなかった。
そんなもの!!
壊れてしまえ!!
頭が熱くて。
辺りの風景が少し歪んで見える。
ふいに。
那岐の立っている横の白い壁の部分に亀裂が生じる。
よし!そのまま壊れてしまえ!!!
パリンという大きな音が聞こえた気がして、那岐の横の白い壁がはじけるように壊れた。
驚いて此方を向いた那岐と目が合う。
ビックリしたような顔をした那岐は、すぐに前を向いて言葉を口にする。
「我と我が名において命じる!」
やっと聞こえた那岐の言葉は、聞いた事がある文言で。
那岐の迫力ある声のせいか、後ろの男の動きが止まる。
その隙に那岐は男の手を振り払って、最後の言葉を叫ぶ。
「解呪っ!!我が名は夜行!!」
ごおおっと地響きのような音が聞こえる。
唐突に風が唸った。
神棚の場所、那岐のいる場所から四方八方に激しい風が吹く。
俺達の方までその風が吹いてくる。まるで嵐のような突風に俺は思わずミサちゃんを抱きしめる。こんな細い子じゃ飛ばされてしまう。
ミサちゃんを抱きかかえて姿勢を低くする。
それでも急激な風は俺達の身体を飛ばそうと猛り狂っていて、両足に力を入れてこらえた。
長い時間それは吹いていた気がした。
顔に当たる風が止んだ気がして目を開けると、庭も家も何もなかったのようにシンとしていた。
ただ、神棚の前の那岐だけが自分の口を拭っている。
まだ俺の腕の中にいたミサちゃんが、腕を振り払い那岐に駆け寄る。
「夜行!?怪我は大丈夫なん!?」
「…ああ。平気だから。」
まるで掴むかのように那岐に触るミサちゃんを、那岐はやんわりと断っていた。
俺は呆然とその場に立っている。
そこへ那岐がゆっくりと近寄って来た。
「…大丈夫でしたか、NEEDさん。」
近くに来た那岐は。
やっぱり黒い上着に何か所も穴が開いていて。
はいている黒いジーンズは、体液に塗れてぬらぬらとしている。
自分が青い顔をしているのに。
「…平気ですか?どこか痛いですか?」
那岐は答えない俺に心配そうに聞いてくる。
俺は那岐を見る。
まさか。
こんな事とは思わないでついて来た。
お前がしている事を軽く考えていた。
空想ではこんなに怪我をしているような事はなかった。
もっとスーパーヒーロー的に、血も大して流れない超人的な物を考えていたんだ。
呪文で何でも解決できるような。
…確かに解決はした。
それはでも。
このお前の犠牲の上に積み重ねられている。
「気分が悪いですか?それとも。」
「…大丈夫だ、夜行。」
俺が答えると那岐は安心したように、ほっと息を吐く。
那岐は、庭に落ちてまだ気絶している母親を抱き上げると縁側に寝かした。
それからもう一度、台所の神棚を見る。
もう黒い煙も出ていないし、何の変哲もない飾り棚のように見えた。
「…何もいないから、何かが巣食うんだよな。」
そう呟いてから、那岐はミサちゃんを見る。
見られたミサちゃんは何かを分かったかのように頷いた。
「任せて夜行。うちの出番やろ?」
「…ああ。頼むミサ。」
ミサちゃんは台所に駆け込むと、神棚の前に立った。
じっと神棚を見つめ、大きく深呼吸をする。
それから柏手を二回打つ。小さな手で打ったとは思えないほど辺り一面にその音が響いた。
深く一礼をしてから詔を唱え始める。
「汝は右より巡り逢え我は左より巡り逢わん。約り竟へて巡る時くみどに興して子を生みき。」
那岐はそれを見ている。
俺はミサちゃんの術を始めて見る事に、少し興奮をしていた。
ミサちゃんは、神降しが出来るのか。
確かに、那岐のような戦闘系ではないと思っていたけど。
神降しが出来る人物なんて、この世に居たのか。
史実では、斎王と呼ばれる人物の一部や、伝説では卑弥呼や飯豊皇女などが出来たと言われているが、誰も見た事はないし、記録も曖昧で正確な史実としては残っていない。今では小説や漫画の世界で空想の出来事の扱いを受けている。
それが。
今まさに目の前で行われている。
「正鹿の山津見。御出でませ!」
ミサちゃんが柏手を一回打つ。
神棚が揺れた気がして、そこに小さな光が灯った、気がした。
ミサちゃんはまた一礼してから神棚をじっと見て、大きく肯いた。
それから跳ねるように那岐のもとに駆け寄って来る。
ニコニコとしているその顔は、ちょっと眩しい。
「うち、頑張った!」
まるで子供の様に言うミサちゃんに、那岐が微笑む。
「ああ。有難うミサ。」
そう言って頭を撫でようとするが、自分の手を見て少し悩む。
那岐の手は血で汚れていた。
その手を握ってミサちゃんが自分の頭に持って行く。
「…仕方ないなあ、ミサは。」
戸惑ったような顔をしていたが、那岐は苦笑しながら頭を撫でる。
ミサちゃんはご機嫌という様に、満面の笑みを浮かべた。
…俺は取り残されたような気がしていた。
二人は別の世界の住人で。
俺はただの観客で。
那岐に頭を撫でられてご機嫌になったミサちゃんが、急にこっちを向いて俺の傍に寄る。
近いですよミサちゃん!?
「うち頑張ったんよ?NEEDさんも褒めて?」
「…え?俺も?」
「うん!」
ミサちゃんは頭を俺に向ける。
困って那岐を見ると、ちょっと笑って肩を竦めた。
つまりは仕方ないという事だろうな。
何も言わずに、じっとその体制のまま待っているようなので、俺もミサちゃんの頭を撫でる。
サラサラの髪だなあ。
「嬉しい!」
撫で終わるとミサちゃんが満面の笑みを向けてくる。
うわあ。
…スーパーハイクラスの笑顔です。おじさんドキドキしちゃうよ?
那岐が皆の靴を持って来ると言って玄関の方へ行った。
その隙にミサちゃんは電話をして車を呼んでいるようだ。
確かに那岐を歩かせるのは無理だろう。
しかし。俺達のそんな心配は関係なさそうに、那岐はすたすたと戻って来て、俺達の靴を地面に置いた。
自分はもう靴を履いていて那岐は俺達を見ていた。
その目線が家に向けられる。
つられて俺も見ると、部屋の中から少女が這い出してきて。
縁側まで出て来て那岐を見ると、那岐に向かって手を伸ばす。
ミサちゃんが大きな溜め息を吐く。
え。
頬がリスのように膨れてますが?
那岐は近寄って少女の手を取る。
少女は飛びつくように那岐に抱き付いた。
「…ありがと…お兄さん…。」
那岐は少女の頭を撫でる。
「…俺は手助けしただけだ。自分で頑張ったから君は助かったんだよ。」
「ううん。違うよ…。」
那岐は柔らかく微笑んで、少女を見ている。
少女はそんな那岐を見上げて、頬を染めている。来た時に見た錯乱の気配は何も感じない。きっと憑き物に操られていただけで、元は普通の少女なのだろう。
「…たらし…。」
ミサちゃんが物凄い低い声でぼそりと呟いた。
そうは思いますが。
半開きの目と、その声は怖いです。ミサ姫。
「もう、平気かな…。」
少女が那岐に不安そうに問いかけると、那岐はにっこりと笑って見せる。
「ああ。もう、怖いことはない。」
那岐が自信をもって言いきった。
「うん。」
少女は嬉しそうに頷いた後で、那岐にぎゅっと抱き付いた。
那岐が少しびくっとする。
「それじゃ。」
「…うん。さようなら、お兄さん…。」
少女をゆっくりと離すと、那岐は手を振って外へ出た。
俺はそれを見送って。
ミサちゃんもそれを見送って。
二人でハッとして気付いて、慌てて那岐を追いかける。
那岐は少し先の角で、寺社の壁に寄りかかっていた。
肩が大きく上下している。荒い呼吸の印だ。
「おい、大丈夫か?」
「…平気です。」
顔色が随分悪いのに、俺が聞くとよろけながらも真っ直ぐ立って。
何処まで無理をするつもりなんだ。
ミサちゃんが呼んだ車にも、渋ってなかなか乗ろうとしない。
血で汚れるから嫌だって。
しかし、これ以上歩かせる訳にもいかないだろう?
ええい。仕方ない。
「悪いな。」
「え、うわっ!?」
俺は那岐をお姫様抱っこして車に乗る。
そのまま俺の膝の上に置いて連れて行くことにした。
少しは足が痺れる事を覚悟していたのに、那岐は信じられないくらい軽くて。
嫌がるかと思ったのに、俺が抱えた時から那岐は固まったまま何も言わない。
ミサちゃんは。
隣に居る俺を半目でじっと見ながら、ぼそりと呟いた。
「…妥協するわ。友達、なんやから?」
少し声が冷たいのは気のせいかな?
ミサちゃんの家に着いて。
すぐに那岐を風呂に押し込んだのはミサちゃんだった。
傷があるのに風呂に浸かっても大丈夫なのだろうか?
俺が心配で風呂場のドアをチラチラと見ていると。
隣から大きな溜め息が聞こえた。
え。何でしょうか?ミサ姫?
「敵に塩を送るのは、優秀な証拠やもんね?」
「へ?」
「NEEDさん。お風呂に入って夜行を見張ってて?」
えええ!?
マジですかっ!?
俺がおろおろと狼狽えると、ミサちゃんはニヤリと意地悪そうに笑った。
いや。
美少女がそんな顔しても、絵になるだけだよ?
「倒れるか心配やし。」
それなら風呂に入れなければいいのでは。
「NEEDさんも、夜行を乗せてたから血がついとるやろ?足に。」
言われて自分のジーンズを見ると、確かに血で汚れていた。
「洗面所に洗濯機があるから、放り込んで風呂に入って来たらいいんよ?」
ううん。
お言葉に甘えようかな。
那岐は今「夜行」だから、男の身体だろうし。
傷口の事は確かに心配だしな。
それに。
男の那岐の身体なら、多少見ても怒られないし。良心の呵責もない。
…男でも、白い肌なんだよな、那岐。
「わかった、見張るよ。」
「頼んだえ?うちはご飯の支度をするから。」
ミサちゃんに肯いてから、俺は着替えをカバンから出して、風呂場のドアを開けた。
中は脱衣所も兼ねていて、結構広めだ。
脱いだジーンズを、お言葉に甘えて洗濯機に放り込み、タオルを腰に巻いて中に入ろうと思った時に、ちらりと那岐の脱いだ服が目に入った。
え。
俺はそこにある物を、じっと凝視してしまう。
那岐の服の間に、黒い勾玉が置いてあった。
…と、いう事は。
俺が服を着なおそうと思う間もなく、風呂場の引き戸がカラリと小さく動いた。
見ると、「那岐」が隙間からこっちを見ている。
すりガラスに映っている白いシルエットは、確かに女性の物で。
「…話は想像が付きますから。…入ってきてください。」
「…え。けど。」
風呂の中から白い湯気が漏れている。
那岐の眼が俺を見ないように少し外れていて。
ああ、そうか。
俺も今、裸だもんなあ。腰にタオルは巻いているけど。
「…俺はいいですから。…どうぞ。」
どど、どうぞって!?
那岐と入るって事は、女性と入るって事ですよね?
いわゆる混浴ですよね!?
自慢じゃないが、生まれてこの方、混浴なんぞしたことが無い。
妹を風呂に入れる時も、俺は服を着ていたし。
でも。
那岐はじっとそこで立って待っていて。
湯気がどんどん流れていて、風呂場の中は寒くなっているだろう。
風邪を引かれたら困るよな。
俺は自分を騙すために、そんな事を思ってみる。
「…入ってもいいのか?」
「はい。…三秒待ってから、入って来て下さい。」
俺が肯くと、那岐はそっと引き戸を閉めて、奥に行く。
たっぷりと十秒以上待ってから、俺は引き戸を開けた。
そこは個人の家にあるには、とても大きな風呂場で。
中の湯気で見えにくいものの、湯船に浸かっている那岐はやっぱり見えた。
慌てて目線を逸らすと那岐がクスッと笑う。
「…別に平気ですよ。」
「おお、俺が平気じゃない!」
「…そうですか?」
疲れた那岐の声が風呂場で響く。
今日一日聞いていた声よりも、柔らかく聞こえて。
湯船に入って縁に腕を乗せて。
そこに顔を乗せている那岐は、相当に疲れて見えた。
「…大丈夫か?」
俺が聞くと、少し笑う。
「…はい。大丈夫です。」
「嘘つけ。」
「…はい。」
その答えに俺はドキッとして那岐を見つめる。
じっと見ている俺にもう一度、那岐が笑いかけた。
「…大丈夫ではないです。」
そう言ってそのまま那岐は目を閉じる。
「…那岐。」
「…はい。」
公共の場所で、あの姿の時は「夜行」と呼んでくれと言われているが、今は「那岐」と呼んでもいいのだろう。相変わらず、そう呼べる方がホッとして、自分の中が分からなくなるが。
俺に返事をしたものの、那岐は疲れているのだろう、目を閉じたままじっとしている。
その表情は酷く疲れていて。
俺の心配は急に大きくなる。
「…俺は目を閉じていますから。身体を洗って下さい。…恥ずかしいでしょう?NEEDさん。」
「…おう。」
心配している相手に気を使われるって。
しかし、恥ずかしいのも事実だけど。
俺はシャワーを出しながら、身体を洗う。
床暖房が効いていて、寒いという事はないのだが。
ずっとシャワーを出しっぱなしも変だし。
湯船に入りたいが那岐がそこから動かない。
いや、動かれても困る訳だが。
身体を流し終わってシャワーを切ると、那岐が動かないまま口を開く。
「…終わりましたか?」
「あ、ああ。」
「じゃあ入れ替わりましょうか。」
那岐が目を開けてそう言った。
入れ替わるって。
ええっ!?
俺を見ている那岐はくすっと笑った。
「お互いに顔を伏せて入れ替わればいいだけでしょう?」
「そ、そんなもんか?」
湯気の向こうの那岐は、俺をぼんやりと見ていて。
腰にタオルは巻いているけど、俺だって恥ずかしいですよ?
那岐が湯船から、ザバリと水音を立てて立ち上がる。
俺は慌てて顔を伏せた。
ペタンと足音がする。
眼を閉じた方が良いかなと思った時。
俺の視界に、テーピングを無数にした白い肌が飛び込んできた。
思わず顔を上げてしまう。
わき腹といわず腕といわず肩といわず。
那岐の身体にたくさんの傷を塞いだテープが貼られていた。
そうか。
どうりで俺よりも先に入ったはずの那岐が、身体を洗ってない訳だ。
そこで俺は気付く。
まじまじと見ちゃってないか?
那岐は俺の視線に気付き、俺の顔を見る。
少しの間、俺達はそこでお互いを見て立っていた。
…那岐は確かに女性で。
いきなりバッと身を翻して那岐がしゃがみ込む。
「……見て良いわけじゃないのですが…。」
胸を腕で隠した那岐を見て、俺は慌てて湯船に入り込んだ。
どぼんって勢いよく入ったから、ちょっと肌が痛い。
「ご、ごめん。」
詫びを言う為に、思わず那岐を見ていて。
那岐は後ろ向きで屈んだまま、溜め息を吐いた。
「…許します。」
そう答えた那岐の耳は真っ赤で。
俺はすまない気持ちで一杯のまま、那岐に背を向ける。
「も、もう見てないから。」
「…はい。」
カタリと椅子に座る音がして。
後ろから、シャワーと身体を洗うささやかなタオルの音がした。
何だかやけにリアルに想像してしまって、俺は困っている。
今見たばかりの映像が頭の中をぐるぐる回っていて。
たくさんの傷。
大きな打ち身の変色。
…それから。
あの肉体は男の暴力にさらされている。
心臓がバクッとした。
那岐の身体は綺麗だった。白い肌で、綺麗な形をしていて。
それを。
泣いて嫌がる那岐を、奴、は。
俺はそっと振り返る。
那岐は俺の視線に気付かない。
首に貼ってあった絆創膏は剥がされている。
此処から見ても分かるほどの大きな赤いあと。
日記は真実だと那岐は言った。
それなら昨日も暴力を奮われたはずで。あれはそういうもので。
「……なあ。」
「…はい?」
那岐は右腕を伸ばして洗いながら俺の声にこたえる。
「…何で、あいつのいう事を聞いてそんな事をしているんだ?」
俺の質問はとても比喩的だったのに、那岐は分かって少し動きを止める。
「…そうですね…。それが力を持つ者の責任だからじゃないですか?」
「そんな事で割り切れるのか?」
「…割り切れません。」
また手を動かす。
「ならどうして。」
「…今日の少女が答えです。」
「え?」
あの少女が、今の質問の答え?
俺が悩んでいる気配を感じたのか、那岐はこちらを見ずにクスッと笑った。
「俺達の事情は関係なく助かる人がいるんです。それなら俺の感情は別にして、俺は力を使います。…良いも悪いも関係ないんです。」
その声は静かなのに。
はっきりと聞こえた。
「けど、それならお前は…。」
「…俺の感情は抜きです。」
「だけど…。」
俺の声に答えず、那岐はシャワーを出して泡を流す。
薄桃色になった白い肌を、お湯と泡が滑らかに曲線に沿って流れていく。
不意に那岐が振り向いた。
見ている俺とばっちり目が合う。
那岐は片眉を上げて、ちょっと怒った様な表情で言った。
「…どうせ見ているなら、背中を流してください。」
「…お、おう。」
この状況では、肯くしかできないだろう?
俺は湯船から出て、那岐の後ろに恐る恐る近づく。
椅子を引き寄せて座ると、前の那岐から泡だらけのタオルを渡される。
振り返り気味の那岐の、胸が見えていて。
慌てて目を逸らして、手元のタオルに集中した。
那岐の白い背中を擦る。
なるべく、指が触れないように。
「…俺の感情はいいんです。」
那岐がポツリと言った。
さっきの俺の言葉への、答えだ。
そんな事はないだろうと言いたかったが、それが那岐の決意だと思って俺は口を開かない。
小さな背中。
この体であんな事をする。
人知を超えた不思議な力を持っていると言っても、那岐は一人の人間だ。
誰かに蹂躙されていい訳じゃない。
那岐に幸せと思う時間はないのだろうか?
あんな事しか那岐には無いのか?
不意に抱きしめたくなった。
俺は頭を振ってそれを払う。
こんなおかしな状況にいるからそう思うんだ。
那岐と俺は、友人のはずで。
手を止めた俺を、ちらりと頭だけ振り返り、那岐が見る。
俺の顔を見て、困ったように苦笑いを浮かべた。
「…もういいです。有難うございました。」
「ああ。」
那岐は身体を流した後、湯船には入らずに脱衣所に出て行った。
勿論俺はその綺麗な姿をじっと見ていたのだが、那岐は振り返ってまで俺に文句を言う事はなかった。
俺は一人になったあと、フウッと盛大に溜め息を吐く。
いやいやいや。
ヤバかったぞ、俺の理性。
よくぞ頑張ったな、俺の良心。
那岐が洗面所の扉から出て行った後に、頭から冷たいシャワーを浴びて気を落ち着かす。
一線を越える様な度胸はないけど。
俺だって男ですから、安心されると困っちゃうよ、那岐?
もう一度湯船に入って温まってから、着替えて洗面所の扉を開けると。
扉の横で、ミサちゃんが立って待っていた。
「遅い。」
「…は。すみません。」
俺は九十度で身体ごと謝る。
うむっと肯いてから、ミサちゃんは着替えを抱えて中に入って行った。
待たせちゃって悪い事したな。
女の子だから早く入りたかったろう。
その後、用意してくれた豪勢な夕食に那岐は現れず、心配するミサちゃんと一緒に那岐の部屋に見に行くと。
那岐はもうベッドで寝ていた。
ぐったりと疲れた顔をして。
寝息もしないくらい深く寝ている。
青白い顔色の那岐は、今は男の身体だろうけど、繊細で壊れそうだった。
ミサちゃんが那岐の髪をそっと撫でる。
「…もっと、強くなりたいなあ…。」
そう呟くミサちゃんに俺は同意が出来ない。
ミサちゃんが強くなる事を那岐が望んでいない気がしたからだ。
俺は少し離れて二人を見ている。
カーテン越しに月の光が射して、二人を照らす。
決して昼の光の下ではない彼女達の生きる世界。
綺麗だが悲しい光景だった。
朝ごはんにも那岐は来なかった。
ミサちゃんと見に行くと那岐は既に起きて着替えていて。
ちょうどタバコを消している所だった。
「何してるん、夜行?今日は休みやなかったん?」
不安げにミサちゃんが聞く。
那岐は少し笑ってから答えた。
「…依頼の連絡が来た。俺はこれから出る。」
「じゃあ、うちも。」
思わず半歩足を出すミサちゃんに、夜行は首を振った。
「…ミサは学校があるだろう?」
「そやけど夜行、まだ怪我が…。」
ミサちゃんが戸惑うように呟く。
那岐がまた、少し笑う。
「…俺なら平気だ。ミサはきちんと学校に行けよ?」
そう言ってから、俺達の横を通り過ぎていく。
一人で。
足早な那岐を追いかけて、ミサちゃんが玄関まで走っていく。
「無事で帰って来てね、夜行!?」
「…ああ。」
ミサちゃんに手を振って那岐は去っていく。
俺もそこで那岐を見送る。
ミサちゃんは泣きそうな顔で那岐を見つめ続ける。
…そうだ。
何時だって死と隣り合わせなんだ。
特に那岐のする事は難しい。
こうやって見送って、無事に帰って来るかは分からないんだ。
それなのに俺は、気軽に此処に来てしまった。
ただ見送るしか出来ないのに。
俺は踵を返して自分の荷物を握ると、玄関に走っていく。
「あ、NEEDさん!?」
「またな、ミサちゃん!」
ミサちゃんに小さく手を振って外に飛び出す。
走って那岐を探すと、かなり先に姿が見えた。
「や」
…いや。もう良いだろう?
「那岐!!」
俺のでかい声に気付いて、那岐が振り返る。
そこで立ち止まって、俺を待っていてくれた。
「…どうしたんですか、NEEDさん?」
追いついたものの、息が苦しくてなかなか話が出来ない。
こんなに真剣に走ったのは久しぶりだ。
そんな俺を心配そうに那岐が見ている。
「お、俺の。」
息が落ち着かない。
那岐は俺が言い切るまで待っていてくれるようだ。
深呼吸を何回もして、ようやく息が落ち着く。
「俺のメアドを貰ってくれないか?」
「…え。」
那岐がびっくりした顔をした。
俺はポケットから携帯を取り出す。
「…でも。」
「お前の言葉が聞きたい。皆に言っているやつじゃなくて、本当の言葉。」
那岐は何だか泣きそうな顔をした。
口を何度か動かして、でも声にならなくて。
「……はい。」
小さな声で肯いて。
ポケットから青いスマホを出した。
俺が赤外線で送信すると、それを大事そうに受け取った。
画面をじっと見ている。
それから俺の名前を「NEED」と入れた。
じっとしている那岐を俺もじっと見る。
那岐は俺の視線に気付き、何だか不思議そうな顔で俺を見上げてくる。
「…はい?」
「お前のも寄越せよ。誰からか分からないだろう?」
「あ。」
慌ててスマホをいじる那岐は、焦っていて可愛かった。
「…あの、送ります。」
那岐からメールが来た。
それは空メールじゃなくて文章が入っていて。
<これからもよろしくお願いします。>
「…ああ。よろしくな。」
「…はい。」
那岐が照れて笑う。
その顔は初めて見る嬉しそうな笑顔で。
俺でも出来る事があるんじゃないか、そう思わせてくれた。
「…俺はこのまま帰るよ。夜勤だから全然間に合うし。」
「そうですか。」
那岐は俺に頭を下げた。
「今回も有難うございました。」
「俺は何もしていない。」
「…でも、俺は楽しかったです。」
そう言って那岐が顔を上げる。
ちょっとだけ笑っていて。ちょっとだけ照れ臭そうで。
今日は本人から、直接その言葉が聞けた。
今は、それで良しとしよう。
まだ俺には何も出来ないけど。
那岐の為に、何が出来るのか分からないけど。
「…怪我するなよ。…また会おう、那岐。」
その言葉に驚いたようで那岐は口を少し開く。
那岐の口が何かを言う前に。
俺は走ってそこを後にした。
きっと否定的な事を言うから。
俺はそれを聞かない。
走りながら後ろを振り返ると。
那岐が小さく手を振っていた。
俺はそれに大きく振って答える。
またすぐに会おうぜ、那岐。