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恋人気分のレエゾンデエトル  作者: 棒王 円
〈十指編・誰かの為に戦う君を〉
6/31

解呪の代償・2




なすすべもなく見ている俺達の前に、ガタン!!と大きな音と共に母親が襖を破って飛ばされて来た。そのまま庭に落ちて気を失ったようだ。ピクリとも動かない。

様子を見たいのだが、ミサちゃんがぎゅっと俺の手を握っていて動くことが出来ない。


ミサちゃんの視線は家に固定されている。


襖が破れて飛んだので、家の中が見えるようになっていた。



那岐は神棚に向かって立ったままで。

何かを言っているようだが、こんなに近いのに那岐の声は聞こえない。


那岐の黒い上着が何か所も破れ中身の綿が出ていた。

落ちてきた女性の手に、包丁が握られているのに気付く。


ハッとして那岐を見直す。

まだ何かを言っているが、その顔は少し青ざめている。


那岐!?



俺達の見ている短時間の間に、神棚から黒い煙がたくさん出てくる。

那岐の周りを埋め尽くさん限りだ。

正体不明の煙は、火が燻ぶっているとかそういう現実的な物ではなさそうで。


ふいに那岐の後ろから男が出て来て那岐の首を抱えて締め出す。

今まで家の中のどこに居たのかは知らないが、男のその表情は殺気立っているのに虚ろに見えた。


流石に那岐が苦しそうにする。

それでも那岐の口は閉じない。多分何かの呪文を唱え続けている。

どうして聞こえない!?


「夜行っ!」


俺の手を握ったままミサちゃんが叫ぶ。



けれど那岐は。

俺達に眼もくれずに言い続ける。

ああ。

もどかしい!

こんなに近くに居るのに。どうしてお前が無声映画のように見えるんだ。

現実味がないように見えているんだ。



じっと見ていると家の境に、何か白い壁の様なものが見えた。

光の加減のように思えるが、俺には何かの結界のように思えて来て。

それがあるのが、いけないのか!?

だから那岐の声が聞こえないのか!?


そんなもの!!

俺はギュッとミサちゃんの手を握ったまま、その白い壁をじっと睨みつける。


「…NEEDさん?」

ミサちゃんがこっちを向いているのは分かっているが、見返す余裕なんてなかった。


そんなもの!!

壊れてしまえ!!


頭が熱くて。

辺りの風景が少し歪んで見える。


ふいに。

那岐の立っている横の白い壁の部分に亀裂が生じる。

よし!そのまま壊れてしまえ!!!



パリンという大きな音が聞こえた気がして、那岐の横の白い壁がはじけるように壊れた。

驚いて此方を向いた那岐と目が合う。

ビックリしたような顔をした那岐は、すぐに前を向いて言葉を口にする。









「我と我が名において命じる!」


やっと聞こえた那岐の言葉は、聞いた事がある文言で。


那岐の迫力ある声のせいか、後ろの男の動きが止まる。

その隙に那岐は男の手を振り払って、最後の言葉を叫ぶ。



「解呪っ!!我が名は夜行!!」


ごおおっと地響きのような音が聞こえる。

唐突に風が唸った。

神棚の場所、那岐のいる場所から四方八方に激しい風が吹く。


俺達の方までその風が吹いてくる。まるで嵐のような突風に俺は思わずミサちゃんを抱きしめる。こんな細い子じゃ飛ばされてしまう。

ミサちゃんを抱きかかえて姿勢を低くする。

それでも急激な風は俺達の身体を飛ばそうと猛り狂っていて、両足に力を入れてこらえた。


長い時間それは吹いていた気がした。

顔に当たる風が止んだ気がして目を開けると、庭も家も何もなかったのようにシンとしていた。

ただ、神棚の前の那岐だけが自分の口を拭っている。


まだ俺の腕の中にいたミサちゃんが、腕を振り払い那岐に駆け寄る。


「夜行!?怪我は大丈夫なん!?」

「…ああ。平気だから。」

まるで掴むかのように那岐に触るミサちゃんを、那岐はやんわりと断っていた。


俺は呆然とその場に立っている。

そこへ那岐がゆっくりと近寄って来た。


「…大丈夫でしたか、NEEDさん。」



近くに来た那岐は。

やっぱり黒い上着に何か所も穴が開いていて。


はいている黒いジーンズは、体液に塗れてぬらぬらとしている。

自分が青い顔をしているのに。


「…平気ですか?どこか痛いですか?」


那岐は答えない俺に心配そうに聞いてくる。

俺は那岐を見る。


まさか。

こんな事とは思わないでついて来た。

お前がしている事を軽く考えていた。


空想ではこんなに怪我をしているような事はなかった。

もっとスーパーヒーロー的に、血も大して流れない超人的な物を考えていたんだ。


呪文で何でも解決できるような。


…確かに解決はした。

それはでも。


このお前の犠牲の上に積み重ねられている。







「気分が悪いですか?それとも。」

「…大丈夫だ、夜行。」


俺が答えると那岐は安心したように、ほっと息を吐く。

那岐は、庭に落ちてまだ気絶している母親を抱き上げると縁側に寝かした。


それからもう一度、台所の神棚を見る。

もう黒い煙も出ていないし、何の変哲もない飾り棚のように見えた。


「…何もいないから、何かが巣食うんだよな。」


そう呟いてから、那岐はミサちゃんを見る。

見られたミサちゃんは何かを分かったかのように頷いた。


「任せて夜行。うちの出番やろ?」

「…ああ。頼むミサ。」


ミサちゃんは台所に駆け込むと、神棚の前に立った。

じっと神棚を見つめ、大きく深呼吸をする。

それから柏手を二回打つ。小さな手で打ったとは思えないほど辺り一面にその音が響いた。

深く一礼をしてから詔を唱え始める。


「汝は右より巡り逢え我は左より巡り逢わん。約り竟へて巡る時くみどに興して子を生みき。」


那岐はそれを見ている。

俺はミサちゃんの術を始めて見る事に、少し興奮をしていた。

ミサちゃんは、神降しが出来るのか。

確かに、那岐のような戦闘系ではないと思っていたけど。


神降しが出来る人物なんて、この世に居たのか。

史実では、斎王と呼ばれる人物の一部や、伝説では卑弥呼や飯豊皇女などが出来たと言われているが、誰も見た事はないし、記録も曖昧で正確な史実としては残っていない。今では小説や漫画の世界で空想の出来事の扱いを受けている。

それが。

今まさに目の前で行われている。







「正鹿の山津見。御出でませ!」


ミサちゃんが柏手を一回打つ。

神棚が揺れた気がして、そこに小さな光が灯った、気がした。


ミサちゃんはまた一礼してから神棚をじっと見て、大きく肯いた。

それから跳ねるように那岐のもとに駆け寄って来る。

ニコニコとしているその顔は、ちょっと眩しい。


「うち、頑張った!」


まるで子供の様に言うミサちゃんに、那岐が微笑む。


「ああ。有難うミサ。」


そう言って頭を撫でようとするが、自分の手を見て少し悩む。

那岐の手は血で汚れていた。

その手を握ってミサちゃんが自分の頭に持って行く。


「…仕方ないなあ、ミサは。」


戸惑ったような顔をしていたが、那岐は苦笑しながら頭を撫でる。

ミサちゃんはご機嫌という様に、満面の笑みを浮かべた。


…俺は取り残されたような気がしていた。

二人は別の世界の住人で。

俺はただの観客で。


那岐に頭を撫でられてご機嫌になったミサちゃんが、急にこっちを向いて俺の傍に寄る。

近いですよミサちゃん!?


「うち頑張ったんよ?NEEDさんも褒めて?」

「…え?俺も?」

「うん!」


ミサちゃんは頭を俺に向ける。

困って那岐を見ると、ちょっと笑って肩を竦めた。

つまりは仕方ないという事だろうな。

何も言わずに、じっとその体制のまま待っているようなので、俺もミサちゃんの頭を撫でる。

サラサラの髪だなあ。


「嬉しい!」


撫で終わるとミサちゃんが満面の笑みを向けてくる。

うわあ。

…スーパーハイクラスの笑顔です。おじさんドキドキしちゃうよ?









那岐が皆の靴を持って来ると言って玄関の方へ行った。

その隙にミサちゃんは電話をして車を呼んでいるようだ。

確かに那岐を歩かせるのは無理だろう。


しかし。俺達のそんな心配は関係なさそうに、那岐はすたすたと戻って来て、俺達の靴を地面に置いた。

自分はもう靴を履いていて那岐は俺達を見ていた。

その目線が家に向けられる。

つられて俺も見ると、部屋の中から少女が這い出してきて。

縁側まで出て来て那岐を見ると、那岐に向かって手を伸ばす。


ミサちゃんが大きな溜め息を吐く。

え。

頬がリスのように膨れてますが?


那岐は近寄って少女の手を取る。

少女は飛びつくように那岐に抱き付いた。


「…ありがと…お兄さん…。」


那岐は少女の頭を撫でる。


「…俺は手助けしただけだ。自分で頑張ったから君は助かったんだよ。」

「ううん。違うよ…。」


那岐は柔らかく微笑んで、少女を見ている。

少女はそんな那岐を見上げて、頬を染めている。来た時に見た錯乱の気配は何も感じない。きっと憑き物に操られていただけで、元は普通の少女なのだろう。



「…たらし…。」


ミサちゃんが物凄い低い声でぼそりと呟いた。

そうは思いますが。

半開きの目と、その声は怖いです。ミサ姫。


「もう、平気かな…。」


少女が那岐に不安そうに問いかけると、那岐はにっこりと笑って見せる。


「ああ。もう、怖いことはない。」


那岐が自信をもって言いきった。


「うん。」


少女は嬉しそうに頷いた後で、那岐にぎゅっと抱き付いた。

那岐が少しびくっとする。


「それじゃ。」

「…うん。さようなら、お兄さん…。」


少女をゆっくりと離すと、那岐は手を振って外へ出た。


俺はそれを見送って。

ミサちゃんもそれを見送って。


二人でハッとして気付いて、慌てて那岐を追いかける。


那岐は少し先の角で、寺社の壁に寄りかかっていた。

肩が大きく上下している。荒い呼吸の印だ。


「おい、大丈夫か?」

「…平気です。」


顔色が随分悪いのに、俺が聞くとよろけながらも真っ直ぐ立って。

何処まで無理をするつもりなんだ。


ミサちゃんが呼んだ車にも、渋ってなかなか乗ろうとしない。

血で汚れるから嫌だって。

しかし、これ以上歩かせる訳にもいかないだろう?


ええい。仕方ない。


「悪いな。」

「え、うわっ!?」


俺は那岐をお姫様抱っこして車に乗る。

そのまま俺の膝の上に置いて連れて行くことにした。

少しは足が痺れる事を覚悟していたのに、那岐は信じられないくらい軽くて。


嫌がるかと思ったのに、俺が抱えた時から那岐は固まったまま何も言わない。

ミサちゃんは。

隣に居る俺を半目でじっと見ながら、ぼそりと呟いた。


「…妥協するわ。友達、なんやから?」


少し声が冷たいのは気のせいかな?









ミサちゃんの家に着いて。

すぐに那岐を風呂に押し込んだのはミサちゃんだった。


傷があるのに風呂に浸かっても大丈夫なのだろうか?

俺が心配で風呂場のドアをチラチラと見ていると。

隣から大きな溜め息が聞こえた。


え。何でしょうか?ミサ姫?


「敵に塩を送るのは、優秀な証拠やもんね?」

「へ?」

「NEEDさん。お風呂に入って夜行を見張ってて?」


えええ!?

マジですかっ!?


俺がおろおろと狼狽えると、ミサちゃんはニヤリと意地悪そうに笑った。

いや。

美少女がそんな顔しても、絵になるだけだよ?


「倒れるか心配やし。」


それなら風呂に入れなければいいのでは。


「NEEDさんも、夜行を乗せてたから血がついとるやろ?足に。」


言われて自分のジーンズを見ると、確かに血で汚れていた。


「洗面所に洗濯機があるから、放り込んで風呂に入って来たらいいんよ?」


ううん。

お言葉に甘えようかな。

那岐は今「夜行」だから、男の身体だろうし。

傷口の事は確かに心配だしな。


それに。

男の那岐の身体なら、多少見ても怒られないし。良心の呵責もない。

…男でも、白い肌なんだよな、那岐。


「わかった、見張るよ。」

「頼んだえ?うちはご飯の支度をするから。」


ミサちゃんに肯いてから、俺は着替えをカバンから出して、風呂場のドアを開けた。

中は脱衣所も兼ねていて、結構広めだ。

脱いだジーンズを、お言葉に甘えて洗濯機に放り込み、タオルを腰に巻いて中に入ろうと思った時に、ちらりと那岐の脱いだ服が目に入った。


え。


俺はそこにある物を、じっと凝視してしまう。

那岐の服の間に、黒い勾玉が置いてあった。



…と、いう事は。



俺が服を着なおそうと思う間もなく、風呂場の引き戸がカラリと小さく動いた。

見ると、「那岐」が隙間からこっちを見ている。


すりガラスに映っている白いシルエットは、確かに女性の物で。


「…話は想像が付きますから。…入ってきてください。」

「…え。けど。」


風呂の中から白い湯気が漏れている。

那岐の眼が俺を見ないように少し外れていて。

ああ、そうか。

俺も今、裸だもんなあ。腰にタオルは巻いているけど。


「…俺はいいですから。…どうぞ。」






どど、どうぞって!?


那岐と入るって事は、女性と入るって事ですよね?

いわゆる混浴ですよね!?


自慢じゃないが、生まれてこの方、混浴なんぞしたことが無い。

妹を風呂に入れる時も、俺は服を着ていたし。


でも。

那岐はじっとそこで立って待っていて。

湯気がどんどん流れていて、風呂場の中は寒くなっているだろう。


風邪を引かれたら困るよな。

俺は自分を騙すために、そんな事を思ってみる。


「…入ってもいいのか?」

「はい。…三秒待ってから、入って来て下さい。」


俺が肯くと、那岐はそっと引き戸を閉めて、奥に行く。

たっぷりと十秒以上待ってから、俺は引き戸を開けた。



そこは個人の家にあるには、とても大きな風呂場で。

中の湯気で見えにくいものの、湯船に浸かっている那岐はやっぱり見えた。

慌てて目線を逸らすと那岐がクスッと笑う。


「…別に平気ですよ。」

「おお、俺が平気じゃない!」

「…そうですか?」


疲れた那岐の声が風呂場で響く。

今日一日聞いていた声よりも、柔らかく聞こえて。


湯船に入って縁に腕を乗せて。

そこに顔を乗せている那岐は、相当に疲れて見えた。


「…大丈夫か?」


俺が聞くと、少し笑う。


「…はい。大丈夫です。」

「嘘つけ。」

「…はい。」


その答えに俺はドキッとして那岐を見つめる。

じっと見ている俺にもう一度、那岐が笑いかけた。


「…大丈夫ではないです。」


そう言ってそのまま那岐は目を閉じる。








「…那岐。」

「…はい。」


公共の場所で、あの姿の時は「夜行」と呼んでくれと言われているが、今は「那岐」と呼んでもいいのだろう。相変わらず、そう呼べる方がホッとして、自分の中が分からなくなるが。


俺に返事をしたものの、那岐は疲れているのだろう、目を閉じたままじっとしている。

その表情は酷く疲れていて。

俺の心配は急に大きくなる。


「…俺は目を閉じていますから。身体を洗って下さい。…恥ずかしいでしょう?NEEDさん。」

「…おう。」


心配している相手に気を使われるって。

しかし、恥ずかしいのも事実だけど。


俺はシャワーを出しながら、身体を洗う。

床暖房が効いていて、寒いという事はないのだが。

ずっとシャワーを出しっぱなしも変だし。

湯船に入りたいが那岐がそこから動かない。

いや、動かれても困る訳だが。


身体を流し終わってシャワーを切ると、那岐が動かないまま口を開く。


「…終わりましたか?」

「あ、ああ。」


「じゃあ入れ替わりましょうか。」


那岐が目を開けてそう言った。

入れ替わるって。


ええっ!?


俺を見ている那岐はくすっと笑った。


「お互いに顔を伏せて入れ替わればいいだけでしょう?」

「そ、そんなもんか?」


湯気の向こうの那岐は、俺をぼんやりと見ていて。

腰にタオルは巻いているけど、俺だって恥ずかしいですよ?







那岐が湯船から、ザバリと水音を立てて立ち上がる。

俺は慌てて顔を伏せた。


ペタンと足音がする。

眼を閉じた方が良いかなと思った時。

俺の視界に、テーピングを無数にした白い肌が飛び込んできた。


思わず顔を上げてしまう。



わき腹といわず腕といわず肩といわず。

那岐の身体にたくさんの傷を塞いだテープが貼られていた。

そうか。

どうりで俺よりも先に入ったはずの那岐が、身体を洗ってない訳だ。


そこで俺は気付く。


まじまじと見ちゃってないか?


那岐は俺の視線に気付き、俺の顔を見る。

少しの間、俺達はそこでお互いを見て立っていた。


…那岐は確かに女性で。



いきなりバッと身を翻して那岐がしゃがみ込む。


「……見て良いわけじゃないのですが…。」


胸を腕で隠した那岐を見て、俺は慌てて湯船に入り込んだ。

どぼんって勢いよく入ったから、ちょっと肌が痛い。


「ご、ごめん。」


詫びを言う為に、思わず那岐を見ていて。

那岐は後ろ向きで屈んだまま、溜め息を吐いた。


「…許します。」


そう答えた那岐の耳は真っ赤で。

俺はすまない気持ちで一杯のまま、那岐に背を向ける。


「も、もう見てないから。」

「…はい。」







カタリと椅子に座る音がして。

後ろから、シャワーと身体を洗うささやかなタオルの音がした。

何だかやけにリアルに想像してしまって、俺は困っている。

今見たばかりの映像が頭の中をぐるぐる回っていて。


たくさんの傷。

大きな打ち身の変色。

…それから。


あの肉体は男の暴力にさらされている。


心臓がバクッとした。

那岐の身体は綺麗だった。白い肌で、綺麗な形をしていて。

それを。

泣いて嫌がる那岐を、奴、は。


俺はそっと振り返る。

那岐は俺の視線に気付かない。


首に貼ってあった絆創膏は剥がされている。

此処から見ても分かるほどの大きな赤いあと。


日記は真実だと那岐は言った。

それなら昨日も暴力を奮われたはずで。あれはそういうもので。


「……なあ。」

「…はい?」


那岐は右腕を伸ばして洗いながら俺の声にこたえる。


「…何で、あいつのいう事を聞いてそんな事をしているんだ?」


俺の質問はとても比喩的だったのに、那岐は分かって少し動きを止める。


「…そうですね…。それが力を持つ者の責任だからじゃないですか?」

「そんな事で割り切れるのか?」


「…割り切れません。」


また手を動かす。


「ならどうして。」

「…今日の少女が答えです。」

「え?」


あの少女が、今の質問の答え?


俺が悩んでいる気配を感じたのか、那岐はこちらを見ずにクスッと笑った。


「俺達の事情は関係なく助かる人がいるんです。それなら俺の感情は別にして、俺は力を使います。…良いも悪いも関係ないんです。」


その声は静かなのに。

はっきりと聞こえた。


「けど、それならお前は…。」

「…俺の感情は抜きです。」


「だけど…。」


俺の声に答えず、那岐はシャワーを出して泡を流す。

薄桃色になった白い肌を、お湯と泡が滑らかに曲線に沿って流れていく。







不意に那岐が振り向いた。

見ている俺とばっちり目が合う。

那岐は片眉を上げて、ちょっと怒った様な表情で言った。


「…どうせ見ているなら、背中を流してください。」

「…お、おう。」


この状況では、肯くしかできないだろう?


俺は湯船から出て、那岐の後ろに恐る恐る近づく。

椅子を引き寄せて座ると、前の那岐から泡だらけのタオルを渡される。

振り返り気味の那岐の、胸が見えていて。

慌てて目を逸らして、手元のタオルに集中した。

那岐の白い背中を擦る。

なるべく、指が触れないように。


「…俺の感情はいいんです。」


那岐がポツリと言った。


さっきの俺の言葉への、答えだ。

そんな事はないだろうと言いたかったが、それが那岐の決意だと思って俺は口を開かない。


小さな背中。

この体であんな事をする。


人知を超えた不思議な力を持っていると言っても、那岐は一人の人間だ。

誰かに蹂躙されていい訳じゃない。

那岐に幸せと思う時間はないのだろうか?

あんな事しか那岐には無いのか?



不意に抱きしめたくなった。



俺は頭を振ってそれを払う。

こんなおかしな状況にいるからそう思うんだ。

那岐と俺は、友人のはずで。


手を止めた俺を、ちらりと頭だけ振り返り、那岐が見る。

俺の顔を見て、困ったように苦笑いを浮かべた。



「…もういいです。有難うございました。」

「ああ。」


那岐は身体を流した後、湯船には入らずに脱衣所に出て行った。

勿論俺はその綺麗な姿をじっと見ていたのだが、那岐は振り返ってまで俺に文句を言う事はなかった。







俺は一人になったあと、フウッと盛大に溜め息を吐く。

いやいやいや。

ヤバかったぞ、俺の理性。

よくぞ頑張ったな、俺の良心。


那岐が洗面所の扉から出て行った後に、頭から冷たいシャワーを浴びて気を落ち着かす。

一線を越える様な度胸はないけど。

俺だって男ですから、安心されると困っちゃうよ、那岐?


もう一度湯船に入って温まってから、着替えて洗面所の扉を開けると。

扉の横で、ミサちゃんが立って待っていた。


「遅い。」

「…は。すみません。」



俺は九十度で身体ごと謝る。

うむっと肯いてから、ミサちゃんは着替えを抱えて中に入って行った。

待たせちゃって悪い事したな。

女の子だから早く入りたかったろう。



その後、用意してくれた豪勢な夕食に那岐は現れず、心配するミサちゃんと一緒に那岐の部屋に見に行くと。

那岐はもうベッドで寝ていた。


ぐったりと疲れた顔をして。

寝息もしないくらい深く寝ている。

青白い顔色の那岐は、今は男の身体だろうけど、繊細で壊れそうだった。

ミサちゃんが那岐の髪をそっと撫でる。


「…もっと、強くなりたいなあ…。」


そう呟くミサちゃんに俺は同意が出来ない。

ミサちゃんが強くなる事を那岐が望んでいない気がしたからだ。


俺は少し離れて二人を見ている。


カーテン越しに月の光が射して、二人を照らす。

決して昼の光の下ではない彼女達の生きる世界。


綺麗だが悲しい光景だった。








朝ごはんにも那岐は来なかった。


ミサちゃんと見に行くと那岐は既に起きて着替えていて。

ちょうどタバコを消している所だった。


「何してるん、夜行?今日は休みやなかったん?」


不安げにミサちゃんが聞く。

那岐は少し笑ってから答えた。


「…依頼の連絡が来た。俺はこれから出る。」

「じゃあ、うちも。」


思わず半歩足を出すミサちゃんに、夜行は首を振った。


「…ミサは学校があるだろう?」

「そやけど夜行、まだ怪我が…。」


ミサちゃんが戸惑うように呟く。

那岐がまた、少し笑う。


「…俺なら平気だ。ミサはきちんと学校に行けよ?」


そう言ってから、俺達の横を通り過ぎていく。

一人で。


足早な那岐を追いかけて、ミサちゃんが玄関まで走っていく。


「無事で帰って来てね、夜行!?」

「…ああ。」


ミサちゃんに手を振って那岐は去っていく。

俺もそこで那岐を見送る。


ミサちゃんは泣きそうな顔で那岐を見つめ続ける。


…そうだ。

何時だって死と隣り合わせなんだ。

特に那岐のする事は難しい。

こうやって見送って、無事に帰って来るかは分からないんだ。


それなのに俺は、気軽に此処に来てしまった。

ただ見送るしか出来ないのに。







俺は踵を返して自分の荷物を握ると、玄関に走っていく。


「あ、NEEDさん!?」

「またな、ミサちゃん!」


ミサちゃんに小さく手を振って外に飛び出す。

走って那岐を探すと、かなり先に姿が見えた。


「や」


…いや。もう良いだろう?


「那岐!!」


俺のでかい声に気付いて、那岐が振り返る。

そこで立ち止まって、俺を待っていてくれた。


「…どうしたんですか、NEEDさん?」


追いついたものの、息が苦しくてなかなか話が出来ない。

こんなに真剣に走ったのは久しぶりだ。

そんな俺を心配そうに那岐が見ている。


「お、俺の。」


息が落ち着かない。

那岐は俺が言い切るまで待っていてくれるようだ。

深呼吸を何回もして、ようやく息が落ち着く。


「俺のメアドを貰ってくれないか?」

「…え。」


那岐がびっくりした顔をした。

俺はポケットから携帯を取り出す。


「…でも。」

「お前の言葉が聞きたい。皆に言っているやつじゃなくて、本当の言葉。」


那岐は何だか泣きそうな顔をした。

口を何度か動かして、でも声にならなくて。


「……はい。」


小さな声で肯いて。

ポケットから青いスマホを出した。







俺が赤外線で送信すると、それを大事そうに受け取った。

画面をじっと見ている。


それから俺の名前を「NEED」と入れた。


じっとしている那岐を俺もじっと見る。

那岐は俺の視線に気付き、何だか不思議そうな顔で俺を見上げてくる。


「…はい?」

「お前のも寄越せよ。誰からか分からないだろう?」


「あ。」


慌ててスマホをいじる那岐は、焦っていて可愛かった。


「…あの、送ります。」


那岐からメールが来た。

それは空メールじゃなくて文章が入っていて。



<これからもよろしくお願いします。>



「…ああ。よろしくな。」

「…はい。」


那岐が照れて笑う。

その顔は初めて見る嬉しそうな笑顔で。


俺でも出来る事があるんじゃないか、そう思わせてくれた。



「…俺はこのまま帰るよ。夜勤だから全然間に合うし。」

「そうですか。」


那岐は俺に頭を下げた。


「今回も有難うございました。」

「俺は何もしていない。」


「…でも、俺は楽しかったです。」


そう言って那岐が顔を上げる。

ちょっとだけ笑っていて。ちょっとだけ照れ臭そうで。


今日は本人から、直接その言葉が聞けた。

今は、それで良しとしよう。

まだ俺には何も出来ないけど。

那岐の為に、何が出来るのか分からないけど。


「…怪我するなよ。…また会おう、那岐。」


その言葉に驚いたようで那岐は口を少し開く。

那岐の口が何かを言う前に。

俺は走ってそこを後にした。


きっと否定的な事を言うから。


俺はそれを聞かない。


走りながら後ろを振り返ると。

那岐が小さく手を振っていた。


俺はそれに大きく振って答える。




またすぐに会おうぜ、那岐。






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