一日の終わり
少し遠くから声を掛けてきたのは、セーラー服姿の女の子で、長い黒髪の大きな黒目がちな和風美少女だった。
透明と言ってもいいような真っ白な肌。大きな真っ黒な眼は、瞬きをすればバサリと音がするんじゃないかってくらい長い睫毛に縁どられていて。小さな桃色の唇は、可愛いの一言では語れない。
ついうっかり、ボオッと見とれてしまった。
こんな可愛らしい高校生は、そうは居ないだろう。
いや、居たとしてもこんなに近くで話しているなんて、有り得ないだろうな。
だって、俺の知り合いじゃないし。
いやいや、知り合いだったらね?俺の事をあんな怪訝そうに眺めていませんよ。
俺ってそんなに不審人物っぽいか?
「…ミサ。何しに来た?」
那岐の声は、美少女に臆することないどころか、少し不機嫌そうだ。
まあ、知り合いなら臆する事はないと思うが、その態度はないんじゃないか?
だって、美少女だよ?正真正銘の。
俺だったら、すぐにでも交際を申し込んじゃうね。
そんな事を考えると、チラッと那岐が俺を見た。
いや、今の気持ちに気付いてないよな?
「夜行を探しに来たんよ、うち。」
美少女は、少し甘えたような声でそう言ってから、こちらに近づいて来ようとした。
それを那岐が、片手を上げて制する。
ピタリと止まってから、美少女は拗ねた声で那岐に抗議した。
「何で、夜行?うちの事、嫌いになったん?」
「…違うよ。」
美少女は少し泣きそうな顔で言い、那岐はそれを否定する。
…何だか二人だけの世界のようだ。
那岐はまたポケットを探り、右手で5百円硬貨を出した。
それを一回、親指で弾いてから手の平に納める。
「…ミサ。」
声を掛けてから、彼女が取りやすいように下手から投げた。
美少女が慌てて両手を差し出し、投げられた硬貨をキャッチして。
それをぎゅっと握ってから、那岐の顔を見つめる。
「なんやの?」
「二人分の缶コーヒー、買ってきてくれ。」
「ええ?ここから自販機まで遠いやないの。」
「…頼むよミサ。俺はブラックで」
そんな台詞を言ってから、那岐が俺を見る。
え?俺の分も頼むのか?悪くないかそれ?
しかし二人が俺を見ていて、言わなくちゃいけない気分にさせられる。
「俺は、甘いコーヒーでいいです。」
俺の答えを聞いてから、那岐が美少女に頷く。
美少女は少し頬を膨らましたが、那岐を見て頷き返した。
「分かったわ。待っててな、夜行?」
「…ああ。お前を待ってるよ、ミサ。」
那岐の言葉に、美少女は嬉しそうに微笑んでから、大社の外へ歩いていく。
俺は那岐をじっと見た。
あんな美少女に、お使いイベを頼んでおきながら、平然と何でもない様に普通の顔をして、煙草を吸っている。
…那岐さん、天然のタラシですか。
「…ってえ。」
ぼそりと那岐が呟く。
!!
そうだ。病院へ。
「な」
「夜行様。」
那岐に掛けようとした言葉は、別の高い声に遮られる。
それはさっきとは違った、色気を含んだ声で。
どう聞いてもさっきの美少女じゃないよなあ。行った方向も真逆だし。
俺は恐る恐る後ろを振り向いた。
妖艶とはこういう事か。
そう思わされる美人が俺達の後ろから近づいて来た。
俺の横を通って那岐に近付く美女は、人として最上級クラスの容姿を持っていた。
栗色の波打つ髪が腰の近くまであり、その肌は白磁色をしていて、アーモンドの形の瞳を囲んでいる長い睫毛は顔に影を落とし、ふっくらとした唇は濡れた桃色で。
何処かの女優と言われても誰も疑わないだろう、美しいとしか表現が出来ない美女だった。
「夜行様。また無茶をされたのですね?」
少し怒っている様な声さえ、艶があった。
本っっ気で紹介して欲しい。
俺がそう考えた途端、那岐が細い眼でこっちを見る。
ええっ?もしかして俺の心を読んでいるのか!?
けれど那岐は、俺に何の言葉もかけずに、目の前に立った美女を困ったように眺めた。
那岐の視線に何も答えず、美女は微笑んで立っている。
俺も見つめあってみたい。
あ、駄目か。
俺って免疫無さ過ぎで、那岐みたいに普通の顔なんて出来ないわ。
「…鈴華。」
俺がバカな事を考えている間に、那岐は美女の名前を呟いていた。
本当に困ったように。
「ああ。こんな傷を受けて。…相変わらず、ご自身のお体を大事にしてはくださらないのですね。」
那岐は少し俯いた。
それから、言いづらそうに小さく呟く。
「…俺の勝手だ。」
美女は那岐の呟きに、少しだけ怒っていた雰囲気を解いてから、那岐の身体に手を這わせる。
上着のボタンを外すと、破れている服をビリッと横に裂いた。
そこには、いまだに抜いていなかったのか、小太刀が刺さったままの傷口が見える。
傷自体は良く見えないが、俺が思っていたよりも深そうだ。
美女が小太刀に触れると、普通の顔を装っていた那岐が、辛そうに呻いた。
なんでそんな、やせ我慢してたんだよ。
もっと痛がってくれれば、すぐにでも気が付いて病院に連れ込んだのに。
俺は苦痛に顰められている那岐の眉を見ながら、そんな事を考える。
その小太刀を握ったまま、美女は那岐の前に跪くと、その傷口を覆うように口づける。それから血が零れないようにゆっくりと小太刀を抜いた。
美女の喉がごくりと鳴った。
那岐の血を飲んだのか!?
しかし、それ以上は喉が鳴る事はなく、美女はその体制のまま、何やら口を動かしているようだ。
というか多分、舐めている。
美女が那岐の傷の奥に舌を入れたのか、那岐がびくりと身体を動かした。
それから、息をはいて少し空を見るような仕草をした。
煙草をくわえて火を付けて。
右手でそれを吸いながら、那岐は左手で美女の髪を撫でた。空を見たまま。
…ええと。
俺はそこに呆然と立っている。
それは別の行為に見えるのですが。
美女のしている事が見えない様に、那岐は上着を彼女に被せてしまうし。
まるっきり、そう見えますよ那岐さん!?
那岐の煙草が1本吸い終わる間、美女はそれを続けていた。
それから口を丁寧に拭いながら立ち上がる。
那岐は美女の口に付いた自分の血を親指で拭うと、少し笑った。
「…お前は無茶だよ、鈴華。」
「私の力は、夜行様のための物ですから。」
美女が色気の増した声で那岐に答える。
「この後、体調が悪くなるだろう?」
「いいえ。…喉が少し苦しくなるくらいです。」
那岐は溜め息を吐く。
その那岐に不意打ちのように抱き付いて、美女が那岐に頬摺りをした。
けれど那岐が彼女を撫でる時間は与えずに、パッとすぐに離れる。
那岐は空振りした自分の手を、困ったようにポケットに納めた。
「…そんな事が、代償で良いのか?」
「ええ。夜行様は、私の物ではありませんから。」
寂しそうに笑う美女に、那岐は困った顔をした。
「それでは。」
そう言って美女は来た時と同じように、さっとその場からいなくなった。
那岐が、ポケッとして立っている俺を見る。
俺は見返しながら、深く深く思った。
…こいつ、本気でタラシだ。
そんな俺の羨望と嫉妬と、その他よく分からない感情が入り乱れた視線に、少しもひるむことなく。
「…何でしょうか?」
煙草を咥えたまま平然と、那岐が俺に聞いてくる。
くそう。
羨ましいにも程があるぞ。
何でそんなに美人慣れをしているんだ。
て言うか、まわりには美人しかいないのか、那岐よ。
イライラして文句の一つでも言ってやろうと思った時に。
「夜行。買ってきたえ。」
美少女が缶コーヒーを持って帰って来た。
ナイスタイミング過ぎる。
決して鉢合わせしない、この時間割りの様な遭遇はなんですか!?
俺は思いついて、小声で那岐に聞いてみる。
「那岐くん。もしかして分かってて、行かせたのか?」
俺をチロリと見てから、那岐が頷いた。
どんな勘だよ、それは。
いや。
今日の事を思い出してみれば分かるか。那岐は不思議な力を持っている。それは事実で、俺はそれを疑う余地もない。
それならば、こんな事は出来て当然か。
「はい夜行。それから、あんさんにも。」
美少女から直接、缶コーヒーを手渡される。
近いと可愛さが倍増だな。すっごい目の保養だ。
「あ、有難う。」
「どういたしまして。」
美少女が上目づかいでにっこりと微笑んだ。
…可愛すぎる!
そんな感激中の俺の横で、那岐は何も言わずに缶コーヒーを開けて飲んだ。
こっちを見もしない。
美少女は、俺と那岐を交互に見てから、那岐に聞く。
「夜行?此方の方はどちらさん?」
那岐は何かを言おうとしたのか、口を開きかけてから俺をちらと見る。
それから、口をぎゅっと結んだ。
ん?
ポケットを探って、また煙草を咥える。
おいおい。吸い過ぎじゃないか?那岐。
那岐は俺の目線の先で、二口ほど煙草を吸ってから、おもむろに口を開く。
「…知り合いのNEEDさん。今日は無理を言って付き合ってもらった。」
……あれ?
俺は那岐の言葉に、何か肩透かしを食らった気がした。
「そうなん?それは大変でしたなあ、あんさんも。」
美少女がそう言って笑う。
那岐は俺に顔を背けて煙草を吸い続ける。
俺は何だか。
「夜行は、割と我が儘やから。」
「…なんだよ、それ。」
美少女の言葉に、那岐が向こうをむいたまま答える。
那岐の顔を覗き込んで、笑いながら美少女が言った。
「あら、本当の事やないの。」
「…違うとも言い難いが。」
那岐はそう言って、彼女の前でくすっと笑った。
その顔は俺には見えない。
「もう、お昼過ぎてるけど、お腹空いてないの?夜行?」
「ああ。そうだな。…腹減ったかな。」
そう言ってから那岐は振り向いて、やっと俺を見る。
「どうしますか、NEEDさん。ミサと一緒に飯食いに行きますか?」
普通の顔で那岐が聞いてくる。
いや、これは普通の顔なのか?
俺は何か思い違いをしていないか?
那岐の顔。
最初に会った時とは違う顔だ。
朝の那岐が本当だとしたら、これは。
…そう。「夜行」の顔だ。
「俺は。」
断ろうと思った時に、那岐がグイと俺の袖を引いた。
勢いそのまま、那岐にぶつかるように身体が傾いてしまう。
俺の耳元で、那岐が囁いた。
「…ミサを気に入ったのでしょう?紹介しますよ?」
「え?」
俺は驚いて那岐を見る。
那岐は至近距離で俺の眼を見て、ニヤリと笑った。
それから俺の袖をバッと離すと、美少女に声を掛ける。
「3人で行けるところはあるか、ミサ?」」
「あるある。したら行こうか夜行。…あんさんも。」
美少女が俺の手を握った。
え。
どうして!?何ゆえに!?
いやいや、有り得ないでしょ!?
こんな美少女が俺の手を握ってますよ!?現実ですか!?
焦って那岐を見ると。
那岐はそんな俺を見て、複雑そうな顔で笑っていた。
那岐を先頭に、俺は美少女ことミサちゃんと何故か手を繋いで歩いている。
先を歩いている那岐は、鼻歌を歌いながらご機嫌の様子。
歩きながら、ミサちゃんは俺に何かと質問をしてくる。
年齢。仕事。家族。友人。好きな事。好きな物。
質問に答えながら俺は、那岐とはそんな話はしていない事に気付く。
今歩いている時間よりも長く一緒に居たのに。
那岐は、俺達より少し先を歩いている。
背中しか見えなくて、何を考えているのかも判らない。
俺達の話を聞いている様子もなかった。
何故なら何時の間にか、那岐はイヤホンをして、何かの曲を聞いている。
それを小さく口ずさみながら、前を歩いていた。
ミサちゃんと話し続けていても、それは那岐には分からない。
俺は話しながらも、那岐の動向が気になっている。
那岐が何かを見るように、頭を動かした。
すぐ横を流れている小さな川の上を、名前も知らない白い鳥が飛んでいる。
那岐は、それを目で追っていた。遠くに離れていく鳥を見続けて頭が動く。
やっと那岐の横顔が見える。
それは何かを絶望していて。
俺は思わずミサちゃんの手を解き、走り寄って那岐の肩を掴んだ。
力を込めて自分の方を向かせる。その眼にさっきの絶望がないか探すけど、那岐の感情はきれいに失せていて。
振り向かせた那岐は、きょとんとして俺を見上げる。
耳からイヤホンを外して、眉を寄せた。
那岐は普通の顔をしている。普通の瞳をしている。
さっきの表情は、幻だったのだろうか。
「どうしたんですか、NEEDさん?」
「え、あ、いや。」
俺は困って、やり場のない手を那岐の肩から離す。
ミサちゃんが、頬を膨らまして後ろから俺達に追いついた。
「どないしたんです?NEEDさん?」
ミサちゃんの問いかけに、俺は答えを思いつかない。
そんな俺を見て、那岐が口元に手を持っていき、ククッと笑った。
「ミサ。手を離すなよ?NEEDさんは恥ずかしがり屋だから。」
「うん、夜行。」
ミサちゃんが俺の腕にギュッと絡んで来た。
思わず飛び上がりそうになる。
俺は女性に免疫がないんです。そういう攻撃は止めて下さい!?
那岐はやれやれとでもいう様に、肩を竦める。
それから再び耳にイヤホンをはめて、前を歩き出した。
俺達も再び歩き出すが、ミサちゃんが俺を見上げて困ったように笑うから、何だろうと美少女の顔を眺めると、何故か謝ってくる。
「…ごめんな?夜行は無愛想やから。」
「いや。そんな事は…。」
それ以上の言葉を思いつかなかった。
…俺はそう否定できるほど、那岐を知らない。
ミサちゃんは、俺に謝れるほど那岐を知っている。
暫く歩いて連れて行かれたのは、細い路地に入ったところに在る、こじんまりとした料亭で。
慣れたように那岐が先に入って、奥の座敷に上がる。
続けて入ると、那岐は座敷部屋にある窓の向こうを、頬杖をついて見ていた。
まだイヤホンを聞いていて。
まるで、一人でそこに座っているような。
何で急に、そんな態度なんだ?
少しイラッと来た俺は、那岐の耳からイヤホンをむしり取る。
那岐がびっくりした顔をして俺を見上げた。
視線を逸らさずに俺は那岐を睨みつける。
そうだ。俺はここに居る。
今日はお前に付き合おうと思って、ここに居るんだぞ?
俺の気持ちが分かったのか、那岐はバツが悪そうな顔でイヤホンをしまった。
そんな俺達を気にもせずに、ミサちゃんは洒落た和紙のメニューを開いて何を食べるか決め始めた。
「NEEDさんは、何がお好きですやろ?」
「きゅうりとお酢が嫌いだけど、大抵は食べれるよ?」
俺が答えると、ミサちゃんはころころと笑った。
「何ですの?その答えは。面白すぎですな?」
「そ、そうかな。」
その大笑いの様な可愛い笑顔に、俺は照れまくりだ。
美少女最強説を俺は支持するぞ!?
俺は聞かれたメニューに頷きながらミサちゃんに注文を頼むが、ミサちゃんは那岐には何も聞かない。
俺が聞こうと思って那岐を見ると、那岐は少し笑いながら頬杖をつく。
「…俺は何でもいいんですよ。だからいつも任せているんです。」
その台詞に、ミサちゃんも頷きながら笑った。
「なんや、NEEDさん、注文を聞いたげようと思ったん?夜行はええのよ。何でも食べるから。」
その言葉を聞いて、俺は首を傾げる。
確か日記には、アレルギーで食べられないものがあると書いてあった気が。
俺の疑問の目線に気付いた那岐は、口に人差し指を立てた。
ミサちゃんに見つからない様に、彼女が目を離した隙に。
俺は呆れて那岐を見る。
お前それは、フェミニスト過ぎるだろ?
そこまで思って、俺は気付く。
これは勘違いだ。
「夜行」の顔をしている那岐は、普通の男に見えた。
華奢で細身だが、男性らしい声と仕草。
女性の扱いに長けていて、モテない男からすれば羨ましい境遇だ。
普通に考えれば。
だから、余計に。
俺は勘違いをする。
確かに那岐は何でも食べた。
ミサちゃんが頼んだものを取り分けて那岐に渡す。それを何も言わずに黙々と食べる。決してまずそうには食べない。美味しいから黙って食べている、それが伝わってくる。
そんな那岐を見て、ミサちゃんもニコニコと笑いながら食事をしている。
二人は仲が良いのだろうな。
付き合いは長いのだろうか。
そう思って。
何処かが、ちくりと痛んだ。
…何だ?
俺達は三品目の、鳥団子鍋を食べている。
幸せそうなミサちゃんの顔。
俺も那岐の食べている顔を見ながら、何故か安心している。
その気持ちが何なのかは、分からないが。
腹いっぱい食事を詰め込み、食後の甘味とお茶を楽しんでいる時に、ミサちゃんが電話を掛けだした。お茶を湯呑ですすりながら、那岐はぼんやりとその姿を見ている。
「今晩の話なんですけど。」
どうやら那岐を泊めるホテルを手配しているようだが。
本人は食べ過ぎなのか、少しぼうっとしていて口を挟む気はないらしい。
順調に話は進んで行き、電話の途中で通話口を片手で押さえながら、ミサちゃんが満面の笑みで那岐を見た。
う。その笑顔は眩しすぎる。
いいなあ、那岐。
「華遊戯旅館で良いやろか?」
「…俺は何処でもいいけど。」
お茶を飲みながら、那岐が答えた。
相変わらず愛想もなく、ぼんやりとしている。
しかしミサちゃんはめげない。
「ほんとに良い?夜行が嫌なら、他に聞くえ?」
「いいよ、ミサの目利きなら間違いないだろう?」
いや。本当に不愛想なのか、ちょっと疑問だ。
ミサちゃんが嬉しそうに頷く。
その笑顔のまま、電話を続けるミサちゃんから目線を外して那岐を見ると。
視線を自分の膝に落としたまま、お茶を啜っていた。
実は。
俺は那岐が男だと思っていたので、自分の家に泊める気でいた。
野郎なら、多少汚い俺の家でも気にしないで泊まるだろうなと思っていたのだが。
女性だと分かってから、それは出来ないと分かり、那岐の泊まる先を少し心配していたのだ。
男に変化してからは、やっぱり家に泊めようなんて思いなおしていた。
ゆっくり話も出来るし。
まあ、本当は女性なのが分かっているから、実際に言いだすタイミングがなくて困っていたりもしたが。
話の流れでは、そのまま泊めようとしていた訳で。
ミサちゃんのおかげで、心配はなくなったけど。
ちょっとだけ、残念だ。
この後、別の用事があると言うミサちゃんと、店先で別れる事となった。
那岐が頭を撫でて、自分の用事なのに不服そうなミサちゃんをなだめる。
「それじゃあ、NEEDさん。また。」
「お、おう。またね、ミサちゃん。」
…またなんて、あるんですか?
那岐はミサちゃんを見送っている俺の後ろから、声を掛けて来た。
「…携帯の番号聞きましたか?」
「え?…そんな事が出来るかよ。」
焦る俺を、那岐が笑って見ている。
…まともに笑ったのは、初めて見た。
お前は何でそんなに寂しそうに笑うんだ、那岐?
俺が次の声を掛けるよりも早く、那岐が俺に頭を下げた。
「…今日は有難うございました。NEEDさん。」
那岐がそう言って、顔を上げて。
それから、首から下げていた黒い勾玉をそっと外した。
ふわりと那岐の髪が風に揺れて。
ああ。
「夜行」から「那岐」に戻ったな。
俺はそれにホッとしている。
何でだろうな。
「色々付き合わせてしまって、すみませんでした。」
「いや良いよ。俺は楽しかったし。」
「…そうですか。それなら、良かった…。」
那岐は小さな声で、そう言った。
その声が、何だか泣きそうで。
「…では。これで、失礼します。」
「え、あ。…そうか。」
この先の時間も、何処かに二人で行くような気がしていた俺は、その予想が覆されて少しがっかりしている。
でも、よく考えたらそうなのだ。
今日の約束は、開口の儀を見る、初めからそれだけだった。
俺が興味を持つだろうと、那岐が俺を誘って。
そう。それだけだ。
…本当に、それだけだった。
来るときに覚悟をしていた、那岐の話とか那岐の愚痴とか、そういうものは殆んどなかった。
ただ、俺の興味を満たすために、リアを晒して。
誰にも知られたくないだろう、己の秘密まで晒して。
嫌われるのも覚悟して。
断られるのも覚悟して。
「那岐」がフラフラと歩いていく。
朝見た通りの細い体を揺らしながら、ゆっくりと歩いていく。
なあ。
お前は今日、楽しかったのか?
俺といて、楽しかったのか?
お前の用事は、本当にそれだけだったのか?
他にしたい話はなかったのか?
俺に相談したいことはなかったのか?
那岐はゆっくりと立ち去っていく。
もう夕闇が、辺りに満ちている。その中を那岐は、一人で。
不意に。
河原を見ていた、那岐の顔が頭をよぎった。
あんな絶望を抱えたまま、お前は帰るのか?
俺はこのまま、お前を帰すのか?
那岐が丁度来たバスに乗る。
俺は走り出していた。
待てよ。
待てったら。
待てよ、那岐!
俺が後ろから走っているのが分かったのか、那岐がバスの中でこっちを見た。
その顔は、本当に泣きそうで。
「待てよ!那岐っ!!」
バスの中に俺の声は届かない。
それでも那岐は。
俺に向かって、深々と頭を下げた。
その時に、お前が顔を拭ったのが見えた。
くそっ。
泣くぐらいなら。
俺に話していけよ!!
バスは遠く走り去り、俺はぜいぜいと息を切らせている。
俺は悔しくて仕方なかった。
年上なのに、俺はお前に何もしてやれなかった。
お前は嘘をばらしてまで、ここに来たのに。
お前は絶対に、俺に何かを言いたかったはずなんだ。
空には薄く星が光る。
せめて今夜は、お前の眼に満天の星が映ればいい。
そんな、どうしようもない事を、星空の下で思った。
次の日サイトを開けて見たら、夜のうちに那岐からコメントが入っていた。
<NEEDさん。
今日は大変に有難うございました。
楽しんで頂けたなら、良かったのですが。
俺はとても楽しかったです。
それでは、ますますのご活躍をお祈りしております。 那岐>
思わずパソコンを叩きそうになった。
嘘をつくなよ、那岐!!
お前のどこが楽しかったんだよ!!
そんな嘘をついて何が、何が楽しいなんて、お前は…。
俺はむしゃくしゃして、煙草を続けて吸うが気持ちは収まらない。
くそ。
何時もならタバコを吸えば、大概は気持ちが収まるのに。
何で収まらないんだ。
灰皿に煙草を押し付けて、もう一度パソコンを見る。
簡単すぎる那岐のコメント。
最後の顔を拭っていた姿。
頭の中に色々な感情が交差して、視界がグルグルする。
ああ。くそっ。
俺は那岐のコメントに返事を書いた。
<那岐くん。
昨日はどうもありがとう。
NEEDもとっても楽しかったよ?
…でもねえ。
NEEDはまだ資料が欲しいかも。
那岐くんは、よく旅行をするでしょう?
また色々と教えてくれないかな?
このお願いを聞いてくれるかな、那岐くん?>
打ち終わった途端に、見返しもせず送信する。
何時もの那岐なら、素早く返事が来るのだが。
十分経っても、まったく返事が来ない。
…見ていないのか?
那岐はコメントが来ると、スマホのメールに入ると書いていた。
パソコンを見ていなくても、分かるはずだが。
こんな事まで、確認を取っていない。
那岐とは何も話していない。
俺は一体、何をしに行ったんだ!?
またイライラしはじめたその時、コメントが入った音がした。
慌てて開けると、那岐からのコメントで。
<では、また、2週間後に。>
短いが、確かに約束のコメントだった。
そんな短文で俺は胸をなでおろしている。
那岐の返事で、うかうかと喜んでいる。
俺は一体どうしたいのか。
今はまだ、何も分かっていない。