万が一の訪れ
スタバを出た俺達は、皆も歩いている流れに乗って、同じ方向にゆっくりと歩き出した。
バスに乗れば早いのだが、那岐がバスに乗る素振りを見せなかったので、二人で並んで歩いていく。
ゆっくりとした歩調で歩く那岐に合わせていると、前に来た時には気付かなかった風景を楽しむ余裕も出て来る。
いや。
本音を言えば、隣の那岐が気になって仕方ないのだが。
俺よりも少し低い身長。
たぶん百六十センチぐらいだろうか。
さらさらとした黒髪はショートカットで、瞳も同じくらいに真黒だ。
可愛らしい感じの顔立ちだけど、何処か少年めいているように思えるのは、光の加減だろうか。
俺が案内をするでもなく、那岐は静若大社への道を歩いて行く。
確かに人の流れではあるが、初めて来たという事でもなさそうだな。
「…那岐くん、静若大社に行った事はあるの?」
「あ、はい。…二度ほど。」
…二回行った事があるだけで、道を覚えられるのか?
俺にはもうそんな記憶力はないのだが。羨ましい記憶力だな。
若いからかな。
そういえば那岐の年齢って幾つなのだろう?
「…那岐くんって何歳なの?サイトじゃ年齢を非公開にしているでしょ?」
那岐が俺を見上げる。
不思議そうな顔は、子供の様にあどけなく見える。
「…NEEDさんは、三十代でしたっけ?」
「いいえ。ギリギリ二十代です!」
そういう所は、はっきり言っておかないと。
ビシッと言ったつもりの俺の返事に、那岐は微妙な顔で笑った。
ええい。
「はっきり、おじさんと言えばいいだろう?若い人には言われ慣れていますから大丈夫ですよ、那岐くん?」
俺の台詞に慌てたように、那岐が両手を左右にぶんぶんと振った。
「そんな事思っていないですよ!?」
「本当かなあ。」
「本当です!」
余りに必死で言う那岐の姿が、可愛く思えて。
俺がクスクス笑い出すと、顔を真っ赤にして手を振っていた那岐は、はあっと大きな溜め息を吐いた。
「からかわないでください…。」
小さく呟く那岐の声に、俺はニヤリと笑ってしまう。
「で。幾つなの?」
「俺は、二十四です。」
えっ、嘘だろう?
どう見たって二十歳ぐらいだろう?いや頑張ってもう少し年上に見ろと言われても、それ以上には見えないぞ?むしろ十代と言ってくれた方が納得いくなあ。高校生とかね?
「そうは見えないけどなあ。」
俺が呟くと、那岐は困った顔をする。
「…子供に見えるとか、言わないでくださいね?」
余程周りに言われているのか、嫌そうに那岐が言った。
俺も、そう思っているなんて言ったら、怒るかもしれないな。
那岐は不満そうに口をちょっととがらせて、また前を向いた。
俺もつられて前を向く。
道の先に大きな鳥居が見えてきた。
白い石造りの、見上げるほどの大鳥居。
静若大社のシンボル的な鳥居だ。
太くて大きなしめ縄が、鳥居の上段にかかっている。
架け替える前なのだろうか、少し年季が入っているようなしめ縄が、余計にその大鳥居を荘厳な雰囲気に見せていた。
鳥居が近づくにつれて、那岐の歩き方が一層遅くなる。
まるで時間を引き延ばそうとするかのように。
それでも歩けばいつかは着いてしまう。
やがて俺と那岐は鳥居の前に着いてしまった。けれどそこから那岐は動こうとしない。
何人もの観光客が、横を通り過ぎていく。
俺は立ち止まったままの那岐を見る。
那岐は何かを考えているかのように、ギュッと両手を握っている。
いや。
分かっているよ、那岐。
それを言いだしづらいのも分かっている。
だからそんなに困った顔をしなくてもいいんだ。
この世の中に、そんな不思議な話なんて存在しないのだから。
那岐が決意をしたように俺を見上げる。
俺は真っ直ぐに那岐の目を見返した。
嘘だって言っても、俺は怒らないよ、那岐。
「…今から起こる事に、驚かないでください。」
は?
何を言いだしましたか、那岐くん?
予想外の台詞に、俺はとっさの言葉が出て来ない。
口をポカンと開けている俺の前で、那岐は上着のポケットからネックレスを取り出す。それは黒い色をした勾玉だった。
不吉にも見えるそれを、那岐はギュッと握りしめる。
それから俺の両目をじっと見つめてきた。
「約束して貰えますか?」
「え?何を?」
唐突な言葉に聞き返してしまう。
「これから先に起こることを、決して誰にも言わないと。」
俺は思わず、ごくりと生唾を飲み込んでしまった。
真剣な那岐の表情が、それを嘘だとは言い切れなくさせるからだ。
考える事もなく俺は自然に、こくりと肯いていた。
この先に何が起こるのか見てみたい。
そんな衝動が体中を駆け巡る。
那岐も俺に肯き返すと、そのネックレスを首に掛けた。
ふわりと那岐の髪が風に揺れる。
俺が瞬きをして、もう一度目を開いた時には、目の前の那岐が変わっていた。
何が変わったのかは分からない。ただ、変化している気配だけは分かる。
俺がまじまじと那岐を見ると、その視線に照れたのか、那岐が俯く。
その動きにつられて、俺も視線を下げる。
……あれ?
先ほどまで、細い体のわりには結構胸があるなあって秘かに思っていた、それが見当たらなくなっていませんか?
女性的な曲線を描いていた腰のカーブも、幾分真っ直ぐじゃないですか?
俺はさらに視線を下げる。
ええと。
それは何でしょうか?
酷く衝動的に。
俺は那岐のそこに手を回した。
「うわああ!?」
那岐が驚きの声を上げながら、俺の手を振りはらって後ろにビョンと飛び退く。
俺はその感触に自分の手の平を開いたり握ったりしながら、背中を冷汗が流れていくのを感じていた。
「…那岐くん?」
那岐が困ったように、俺を見る。
ちょっと離れているのは俺の行動を警戒しているからだろう。
顔が真っ赤なのはデフォだと思う事にする。
「え?男の子…?だったかな?」
「……いつもは、この姿でいるんです。」
え?なに?
どういうことですか!?
混乱している俺を気にする素振りも見せずに、那岐は右手の腕時計をちらりと見る。
「もう約束の時間です。行きましょう。」
は?
詳しい説明は無しですか?
那岐はそう言ってから、鳥居をくぐって参道を歩き出した。
俺も慌てて追いかけて、同じように鳥居をくぐる。
その途端。
鳥居がその役割を忠実に果たしている事に気付かされる。
いつもなら普通にくぐるだけの鳥居が。
神域と現世の境の門だと、ここから先は人が容易に入ってはならない世界だと、指し示すような気配が、俺の身体を通り過ぎていく。
「な、那岐。」
自分の声が震えているのが分かる。
俺は先を歩いている那岐の袖口を、手を伸ばしてぎゅっと握った。
那岐はそんな俺に驚いて、そこで振り返り立ち止まる。
「NEEDさん。…やっぱりあなたは感受性が高いですね。」
まるで何事かを知っているかのような那岐の台詞。
でも俺はそれよりも、今まで気付かなかった那岐の声の変化に驚いていた。
甘いアルト。
明らかにさっきよりも声が低くなっている。
今更ながら気付くなんて、俺って注意力が散漫なのかな。
「大丈夫です。不安に思わないでください。…あなたに向けられた害意ではありませんから。」
じゃあ誰に向けられた気配なのか。
俺はそれを那岐に質問できなかった。
那岐は俺に自分の袖口を掴ませたまま、ゆっくりと参道を歩いていく。
歩きづらいかも知れないと思いながらも、俺はその手を離せないでいる。
参道の先に、有名な拝殿が見えてきた。
テレビに映るのはいつもこの場所だ。
静若大社は古くからある知名度の高い社だから、この国の三大名社として、たまに番組で特集を組まれたりする。
それでも神秘性が保たれているのは、テレビで映したり人が入れたり出来る場所が限られているためだ。小さな社の神社ではこうはいかないだろう。
参拝者たちが拝殿で手を合わせて何事かを祈っている。
俺もそこで何かを祈る気だったのだが、那岐はその横を普通の顔をして通り過ぎた。
関係者以外立ち入り禁止。
そんな立札が立っているのだが。
那岐は構わずに奥にと進んで行く。俺はそれが良い事なのか悪い事なのか、判断が出来ない。
けれど。
知っているはずの場所で、知らない領域に入っていくのは、かなりワクワクさせられる。
少し悪い事をしているような気持ちが、その感情を後押ししていた。
「那岐くん、ここは入ってもいいのか?」
「…はい。大丈夫です。」
那岐は俺を見ずに、前を見たまま答えた。
何だか安定しない気持ちに悩みながら、俺も一緒に奥に向かう。
鬱蒼とした木々が、拝殿がある後ろの騒がしさを遮断する。
那岐の後について歩きながら、辺りが澄んだ気配になっていくのを肌で感じた。
神聖な場所。神域。
そう呼ぶにふさわしい空気に、俺は少し胸が高鳴る。
参道と同じ石畳だった道が、白い玉砂利の道に変わった。
二人分の足音だけが、辺りに響いている。
鳥居をくぐった時に感じた威圧感は、今はもう感じなくなっていた。
どうやら那岐は、目の前に見えてきた建物を目指しているらしい。
表にある拝殿や本殿とは違って、白壁造りのがっしりとした建物だ。
その建物の前に、白い着物に葵袴の人物が立っていた。
初老の男性のようだ。
白髪で顔には深く皺が刻まれているのが遠目でも分かる。あの人結構、苦労性なのかもしれないなあなんて、勝手に妄想したりして。
俺達の姿を認めると、ゆっくりと建物を離れてこちらに近寄って来る。
那岐はその人物に気付いていたが、自分からは近づこうとはせずに足を止め、追いついた俺の横に並ぶ。
「夜行殿!」
その人物が片手を上げて、誰かを呼んだ。
俺はあたりを見まわすが俺達の他に、誰かがいる訳じゃない。
勿論、俺の本名は違う。
と、いう事は。
俺は横の那岐を見る。
那岐は幾分、面倒くさそうな表情で、近づいて来る人物を眺めていた。
近いと思っていたが、その建物からは距離があったらしい。
白髪の男性は少し息を切らしながら、俺達の前に立った。
「お待ちしておりました、夜行殿。」
「…やあ、神宮。」
那岐がやっと、その人物の呼びかけに答えた。
物凄い違和感に包まれながらも、俺は空気を読んで何も言わない事にする。
「この度は、お手数をお掛けして申し訳ありません、夜行殿。」
那岐の前で、白髪の人物が深々と頭を下げる。
その動作に俺は驚いているのに、那岐は全く無関心だ。
「…いいよ。俺が不在だったのは事実だし。その間に封を切ってもらっても良かったのだけど。」
那岐がそう言うと、白髪の人物、神宮という人は困ったように顔をしかめたまま、ぶんぶんと首を横に降った。
「夜行殿の封を破るなど、誰が出来ますか?」
言われた那岐は肩を竦める。
「…俺ぐらいの力なら、誰でも破れるだろう。」
「滅相もない。」
神宮は顔色を少し青ざめさせながら、那岐の言葉を否定する。
何か恐れる様な気配があって、俺はその話に口を挟む気にすらならない。
俺が話さない事を、那岐が気にしないのはもちろん、神宮という人も気にしていないのが癪ではあるが、我慢をする。
何せいまだに事態が読めないのだから。
どうなっているんだ、これは。
那岐の性別が変わった事だけでも、未だに飲み込めないのに、明らかに神主の様な人が那岐に平服せんばかりの歓待をしているとは。
…嘘じゃなかろうな。
見ているもの、全部。
話が終わったのか、時間が押しているのか。那岐が歩き出し、その後を神宮が付いて行く。
二人がゆっくりと先の建物に近付いて行くのに、俺の足は動かない。
俺が立ち尽くしているのを、那岐が気付いて戻って来る。
すぐ傍に立つと、俺を見上げた。
それから、片手を口に添えてそっと小さな声で言ってくる。
「ここからは俺の名前を夜行と呼んでくれると助かります。…さあ、行きましょう。」
朝にも同じ仕草をされたのに、今は違うドキドキ感でいっぱいだ。
俺は那岐に促されて、やっと足を動かせた。
那岐と並んで歩きながら、大きな建物に近付いて行く。
頭の中は、びっちりと疑問符で埋め尽くされていたが。
……事実なのか。那岐の中二病だと思っていたのに。
いや、大掛かりな詐欺かも知れない。
て、誰得だよ!?静若大社も巻き込んで嘘をつくのって。
頭が混乱したままでも、俺の足は那岐の隣から離れずに歩いているのが不思議だ。
那岐は神宮に先導されて、目の前の建物の階段を上っていく。
慌てて俺も昇ると、普通の木製の扉を開けられる。一緒に入ると、その中は一枚壁を隔てた外界とは全く違う雰囲気で満たされていた。
中には、鉄か何かの金属の壁で覆われた部屋があった。
いや。
部屋というよりは小さな建物で、外の壁と接触している部分が一つもない。
外の壁はこれを隠すために後から作られたのだろう。
この金属の建物に蓋をするように、白壁の箱を被せた。そんな造りだった。
金属の部屋に付いている大きな扉も金属製で、その鍵の部分には大きな南京錠が掛かり、幾重もの鎖が巻かれている。
これを開けるには相当の体力が必要だろう。
よく見ると、鎖は扉の角、四方に打ち付けられている。そこから伸びた物が鍵に巻き付いていて。
確かに封印を施されているように見えた。
那岐は無造作に扉から少し離れて立っている。
その那岐の少し後ろに神宮が立っていて、俺は神宮よりも更に半歩ほど後ろにいた。
なんとなく、那岐の隣にいたら邪魔になるような気がしたからだ。
俺の後ろから足音が聞こえたので振り返ると、神宮と同じ着物を着た男が木の扉から入って来た。足音に気付いた那岐も振り返る。
那岐は入って来た男を見て、眉根を寄せた。
「…神宮。彼は?」
「はい、夜行殿。私の息子です。…今回の儀を見せようと思いまして。」
那岐は胡散臭そうに、神宮の息子を見る。上から下までじろじろと。
無遠慮な視線に、見られている男が露骨に不快感を表す。
ちょっと、こいつ辛抱が足りないんじゃないのかな。
だって、どう見たって、那岐の方が関係上の立場が上なんだろう?
「…神宮が責任を取るのだな?」
那岐の声に、冷酷な響きが入る。
それは神宮にも分かったのだろう、狼狽えながら頷いていた。
その動きを確認してから、那岐はその男に声を掛ける。
「…お前の名前は?」
神宮の息子は、顔に怒りを表しながらも丁寧に那岐に答えた。
「神宮壮真と申します。夜行殿。」
「…ふうん。」
壮真と名乗った神宮の息子は、那岐の態度に唇を噛んでいる。
だから、辛抱が足りないって。
壮真の表情に無関心のまま、那岐はまた扉に向き直った。
扉をじっと見たまま、那岐は動かない。
開口の儀式。
那岐の言っていた不思議な事が、これから始まるのだろうか。
まさかあの鎖を、全員でよっこらせって、外すわけでもないだろう。
静かな時間が過ぎていく。
呼吸音すら立ててはいけないような雰囲気に、俺は緊張しっぱなしだ。
こんな所に、一般人の俺がいてもいいのだろうか。
やがて那岐が、はああっと大溜め息を吐いた。
「…よし、やるぞ。」
那岐の言葉に反応して、神宮が何時の間にか持っていた一振りの刀を、那岐に手渡す。
それから、壁際に置いてあった酒瓶を持ってきた。
俺は奉納の酒だと思っていたが違ったようだ。
那岐が手を出すそこへ、神宮が酒をだばだばとかける。床に零れるのもお構いなしだ。
更に酒瓶を那岐が持って、自分の足元に掛けた。
膝から下がびしょ濡れだが、那岐も神宮も気にしない。
きっと、狼狽えているのは俺ぐらいだ。
辺りに酒のにおいが充満する。
俺は酒に弱いから、この匂いだけで酔っぱらいそう。
残った酒を、瓶に口を付けて那岐が一息で飲み干す。
ええ?
だ、大丈夫か?日本酒の一気飲みなんて?
瓶から口を離し、空き瓶を神宮に渡すと、那岐がおもむろに口を開いた。
「開口の儀を始める。」
それは静かな言葉だったのに、あたりの空気がピンと張りつめた気がした。
那岐が刀を鞘から抜いて、自分の口にくわえる。
それから、ゆっくりと刀を右に引いていく。
引き終わった口から一筋血が伝う。
さっきまで飲んでいた酒と那岐の血で、刀がキラキラと光を反射する。
那岐は目を扉に向けた。
右手で持った刀を、ゆっくりと構えて扉の上に向ける。
「北に玄武。」
刀を下に向ける。
「南に朱雀。」
それから左に。
「西に白虎。」
更に右に。
「東に青竜。」
那岐が刀でゆっくりと円を描き出した。
その動きに合わせて、なんと、扉に光の円が浮かび上がる。
俺は今、何を見ているんだ!?
これは、何かの手品じゃないだろうな!?
しかし、俺にはそれが現実だと分かっている。
俺の隣近くにいる壮真という男も、その現象に目を剥いていた。
「央に黄龍。」
那岐が空中の円の中心に、刀を刺す様に突き出す。
そこにも光が走る。
「我と我が名に答えよ、古き朔よ。」
那岐が刀を矢継ぎ早に上下左右に振るった。
光が新たな光の線で何分割にもされて。大きな図形が浮かび上がる。
それはまるで、中国の式版にも似た緻密な円陣で、およそ和式の魔法陣と言って良かった。
那岐が再び刀を握りなおす。鍔がチャリンと音を立てる。
「開口!!我が名は夜行!!」
叫びながら、那岐が刀を扉に向けて突き出した。
その途端。
扉に浮かんでいた光が四方に飛び散る。
更に扉の四つ角にかかっていた鎖が、ジャラジャラと音を立てて落ち、南京錠もガッチャンと床に落ちて、それから扉がひとりでにギギギと軋みながら開いていった。
こっ、これは何だっ!?
俺の全身に鳥肌がたっていく。
こんな事が現実なのか!?この感覚は本物なのか!?
空想の中でしか起こらない事に、俺は立ち会っている。
ぶるぶると腹の底から身震いが起こった。
那岐が刀を下ろす。
ゆっくりと開いた扉に近付き、部屋と扉の境に刀の先で真っ直ぐに線を引いた。その線を自分の両足で、一回ずつ引っ掻く。
それからやっと、溜め息を吐いてこちらに振り向いた。
「…入っても良いぞ、神宮。」
神宮が那岐に駆け寄る。
「はい。有難うございます。」
そう言って、その場に仁王立ちで立っている那岐の横をすり抜けて、那岐の引いた線を踏まないように部屋の中に入って行った。その後をやはり壮真が通り過ぎて中に入っていく。
俺は那岐が立っている場所に近付く。
近づいた俺を那岐が見上げて、俺の顔を見て少し笑った。
…那岐。
お前が言っていた事は、本当だったんだ。
この世には、俺達が空想するような不思議な事も実在するのだな。
ごめんな。
お前の事、中二病だなんて思っていて。
日記に書いている事も、空想じゃなくて。今のお前の身体で体験した事だったのか。
俺が那岐を見ながら考えている事を、果たして那岐は気付いているのか、そこまでは俺にも分からない。
だから、言葉にして伝えよう、そう思ったのに。
緊張からか興奮からか、俺の口は上手く動かなくて。
俺を見上げている那岐に、伝えることが出来なかった。
「…NEEDさんも、入って下さい。神宮には説明するように言ってありますから、何でも聞いていいですよ。」
「な…夜行は?」
名前を言い間違いそうになって、言いなおしてから聞くと、那岐が困ったように笑いながら首を振る。
「…俺は此処から動けませんから。どうぞ中に入って下さい。」
那岐に促されて中に入る。
その部屋は確かに、秘宝と呼んで良い物がたくさん在るように見えた。
神宮は何かを掴んでは息子に渡している。息子は大人しくそれを外に運び出している。
立っている俺に気付き、神宮がすまなさそうに声を掛けてきた。
「すみませんが、少し待っていただけますか?」
「…ええ。良いですよ。」
近くの棚にあるものを手に取ってみる。
古そうな装飾品だ。いつの年代の物だろうか。
俺はそれ以上の気持ちが湧かない事に、驚くとともに納得をした。
ついさっきの現象の方がよほど、俺には衝撃的だ。
此処に有るものには確かに興味が湧くが、それよりも今の俺には、那岐の方がよほど興味を掻き立てられる。
那岐はいったい何者なんだ?
扉の境で部屋の中を向いたまま片手に刀を握って立っている那岐は、俺の目線に気付いたのか伏せていた顔を上げて俺を見た。
見つめていた事に照れ臭くなり、誤魔化す様に手を振ると。
那岐が小さく肯いた。
その仕草が、やけに子供くさくて。
少しだが、那岐の日記に出て来た奴らの気持ちが分かった気がする。
…これはまずい気がするぞ。
少年の様で可愛いなんて、どうなってるんだ、俺?
神宮が近寄ってきて、俺が持っている物に目線を落とした。
「それは、平安時代の女性の飾りです。この静若大社に訪れた際に、奉納されたと言われています。」
「…そうですか。」
神宮が手招きをして俺を呼ぶ。近づくとその付近に有るものを説明しだした。
幾つかは重要文化財に指定をされているもので、一般には決してお目にかかれないほどの品物で。
その由来と歴史を聞きながらも、俺の眼は那岐をチラ見している。
息が少し苦しそうなのが気になったが、俺には何もできないだろう。
神宮の話を聞いている俺の横を壮真が通り過ぎ、いくつかの品物を持って、また外に出ようとした。
何度も往復をして大変だな、虫干しっていうのは。
俺はそんな単純な感想を持っていただけだったが。
「…待て。」
那岐が口を開いた。
声を掛けられた壮真は那岐の手前で足を止める。
俺と神宮はその声で扉の方に向き直った。佇んでいる那岐と壮真を見る。
那岐は一言を言ってから、壮真につぎの言葉を掛けない。
首を傾げて立っていた壮真だったが、那岐が何も言わないのを知ると溜め息を吐いた。
それから壮真は外に出ようと、足を動かす。
「待てと言っている。その懐に入っているものを外に出してはいけない。」
那岐が、動こうとした壮真に、強い語調で外に出ることを止めた。
言われた壮真がびくりと身体を竦める。
「…壮真?」
神宮が近寄っていくので、俺も二人の傍に歩み寄る。
那岐はじっと壮真を見ている。壮真は那岐を睨みつけたまま動かない。
「俺は何も持っていない。」
手に持っている荷物を軽く持ち上げてから、壮真がそう言った。
だが那岐は、壮真の言葉を無視して懐を指さす。
「…それは此処に奉納されたいわくつきの品だ。此処から外へは出せない。」
「……お前に指図されるいわれはない。俺は静若大社の権宮司だ。物品の管理は俺がする。」
那岐がちらりと神宮を見る。
那岐に見られた神宮は、頷いてから言った。
「本当です、夜行殿。息子は権宮司に着いております。」
「…俺が今お前に聞いたのはそんな事じゃない。」
那岐は目線で聞いた事項を、口で再度聞き直した。
「こんな奴に、管理を任せるのかと聞いたんだ。」
那岐の言葉に壮真が顔を真っ赤にする。神宮も顔色をさっと変えた。
息子の事はやっぱり可愛いのか。親ばかだな。
いきなり壮真が手に持っていた物を床に落とした。
那岐も俺も激しく音を立てて落ちた、その品物を見る。
床を見た俺の眼の隅で、何かの光が煌めいた。
ハッとして顔を上げると、那岐の横腹に小太刀が刺さっていた。その柄を壮真が握っている。
那岐は顔をしかめて、壮真をじっと見る。
その態度に怯えたのか、壮真は刺さったままの小太刀を横に引っ張った。
那岐が腹に力を入れたのか、怯えた壮真の力が入らなかったのか、小太刀は10センチほど動いて止まる。
那岐のTシャツには穴が開き、じんわりと血が滲んでいた。
引き抜かなければ血が噴き出すことはないだろうが、どう見ても刃の部分が五センチ以上は中に食い込んでいるように見える。
怖々と柄から手を離す壮真を見ずに、那岐は神宮を見た。
「…どうするのだ、神宮?」
そう問いかけた那岐は、何事もない様な顔でそこに立っている。
息も姿勢も乱さない。
腹には小太刀が刺さったままで、それはヌラリと光っているのに。
「…どうかご内密にしていただけませんか、夜行殿。」
頭を下げようとする神宮に、那岐は無言で首を横に振った。
その仕草に、神宮は声を荒立てる。
「あなたが誰にもおっしゃらなければ良いだけではありませんか!?あなたにはそれすらも出来ぬと、慈悲すらないとおっしゃるのですか!?夜行殿!!」
神宮の言葉に、那岐は溜め息を吐く。
「…バカか、お前ら。」
那岐の言葉に神宮親子は、更に怒った様な顔になる。
その二人に、那岐は声も荒げずに言葉を投げた。
「俺は何処を開けたんだ?此処は何処だ?…お前たちは誰を相手に口を噤めと言っている?俺か?彼か?」
那岐の言葉に二人が俺を見る。
その視線は恐ろしい狂気の光をはらんでいて、俺は口すら開けない。
「……それとも、ここに鎮座されている神々にか?」
那岐の言葉を聞いて、神宮の顔色が青く変わった。
しかし壮真の顔色はさらに真っ赤に染まる。あまりに血が上り過ぎて少し赤黒いぐらいだ。
「此処に神がいるだって!?何処にいるんだ!ここは俺達、神宮が掌っている場所だ!誰にも命令されるいわれはない!!」
そう噛みつく壮真に、那岐はまた溜め息を吐いた。
「…そうか。」
那岐がそう呟くと、神宮が那岐の前に立ちはだかる。
息子の剣幕に、自分の気持ちが決まった様な、何かを決意した表情だった。
「息子を切るのでしたら、どうぞ私をお切りください。」
那岐は神宮の顔をしみじみと見てから、軽く息を吐く。
だらりと下げた右手に握っている刀は、先ほどから一ミリも動いていない。
那岐がそれを振るう気すらないのは明白だ。
「…そんな事を、俺がするか。…出たければ出ればいい。」
那岐はそう言って壮真を見る。
見られた壮真は、那岐を見返してから勝ち誇ったように笑った。
「…所詮、夜行などと大層な名を名乗っても、何も出来ないガキじゃないか。」
そう言ってから、扉を潜って外へと出る。
壮真は外に出てから、こちらを振り返ってさらに言った。
「ほら見ろ!何ともないじゃないか!」
那岐は壮真の方など振り返らずに、上着のボタンを閉めながら、ぽつりと呟く。
「…タバコ吸いてえなあ…。」
俺は、壮真がもう一つの扉を目指すのを見ている。
そこを出れば本当に外だ。
那岐が言ったのは、脅すための嘘か?そんな嘘を、神域でわざわざ言うか?
不思議な力を保有している那岐が?
「ううっ!?」
白壁の木の扉から出ようとして、取っ手に手を掛けた壮真が突然、呻いて屈んだ。
俺はぎょっとして扉から身を乗り出す。
事態を見ていないはずの那岐が俺の横で、深々と溜め息を吐いた。
「う、ああ…。」
顔を抱え込んで、壮真が呻く。
「壮真!?」
神宮が部屋を飛び出して、壮真の傍に屈み込む。
「どうしたんだ、壮真!?」
「…目が、や、焼ける…」
痛みの為にうずくまった壮真の横に屈み込んだ神宮は、なすすべもなく息子の背中をさすっている。
触られて嫌がる息子に手を払われて、神宮は所在無く座り込んだままになった。
那岐は伏せていた顔を上げて、もう一度溜め息を吐いた。
それから部屋の奥にある神棚をじっと見る。
つられて俺も見るが、何やら光の加減で小さな光がたくさん集まっているように見えた。
いや、もしかしたら。
横の那岐を見ると僅かに頷いたり、首を横に降ったりしている。
もしや、あすこにおわす神様と交神をしているのかも知れない。
那岐がふっと息を吐いた。
見ると神棚に射していた光も消えていて。
俺は那岐をただ見つめている。
那岐はじっと部屋を見渡してから、クルリと部屋に背を向けた。
刀で引いた線の上から、那岐が離れた途端に扉が少しずつ軋みだす。
響く軋む音に、神宮がはっとして顔を上げる。
那岐は刀を肩に掛けて立ちどまる。
神宮親子を見て、すまなさそうな顔をして。
「…悪いな。契約は破棄する。…他の奴を当たれ。」
神宮が立とうとして腰を半ば上げる。
「…天津神々に告ぐ。我と我が名において契約を破棄する。」
那岐の静かな声があたりに響く。それは何かの理を断ち切る言葉で。
その簡単な言葉が終わった途端に、俺の周りから風が吹くように、すっと神聖な空気が失せていった。
扉は軋みながら、徐々に閉じていく。
神宮はこちらに走り寄って来て、閉まりそうな扉に手を掛ける。
いくら金属の扉とはいえ、大の男が押さえれば動きが止まりそうなものだが、扉は無情にも閉まろうとする動きを止めない。
「夜行殿!どうかお慈悲を!」
必死に、閉まろうとしている金属の扉を両手で押さえながら、神宮が叫ぶ。
神宮の視線を背中で受け止めたまま、那岐は肩を竦めた。
「…悪いな、神宮。俺は契約を破棄した。そこを開けることは出来ない。」
「そんな!」
那岐は振り返り神宮を見る。
必死に力を入れている神宮を幾分憐みの目で見ながら、緩く首を振った。
「そのままでいると、指を無くすぞ。」
神宮は自分の手を見てから唇を噛んで、仕方なく手を離した。
放された反動も何もなく、扉は静かに閉まった。
ズシンという音が床から伝わって来た。那岐は刀を鞘に戻すと、扉の前にそっと置いてからもう一つの扉に歩いていく。
神宮は壮真の横に、また屈んでいる。
壮真は両目を手のひらで押さえて、苦しそうに呻き続けていた。
その横を通り過ぎる時、那岐は立ち止まって神宮に話しかける。
「…そいつが持ち出そうとしたのは、ここに祈願に来て病が治った女性の形代だ。古い時代の物だから、思念も相当に凝り固まっているだろう。…女性が治したのは眼病だったと、部屋におられる神に聞いた。」
神宮が那岐を見上げる。
それは、どうしてよいのか分からずに迷っている顔に見えた。
その顔を見てから那岐は溜め息を吐いて、こう言った。
「…仕方ねえなあ。…隣の県に、天一目という神社がある。そこに言って祈願をしろ。勿論普通に病院にも行けよ?祈願だけしても治らないからな?…明日には俺は隣の県に行く。話はしておくから、早めに病院に行ってから祈願に行け。」
それから、うずくまっている壮真へと話しかける。
「…おい、神宮の息子。神がいないと言ったが、それはお前が決める事じゃない。…神々が御自身で決められることで、人の関知する事ではないんだ。…俺の血を流した事は不問にしてやるから、しっかり精進しろよ?」
顔を押さえたまま、壮真が微かに頷く。
神宮は平服でもするかのように、深く頭を下げた。
那岐は急にその場をバッと離れて外に出る。
慌てて付いて行って横に並ぶと、那岐は少し顔を赤くしていた。
え。
照れる所でしたか、今の会話は?
俺の目線に気付いたのか、那岐は俺を見上げて眉を寄せる。
「…何でそんな顔をしているんですか、NEEDさん。」
ん?
俺、変な顔をしているかな?
自分の顔を触ってみて、少しニヤついていた事に気付く。
だってさ、那岐。
あんな事で照れているお前が、ちょっと可愛かったんだよ。
俺達はその後、無言で玉砂利の上を歩き、石畳の上も歩いていった。
那岐は拝殿を過ぎたあたりで息を吐いた。それでもまだ何も言わずに歩いていく。
俺は何かを忘れている気になり、必死に思い出そうとしていたが、どうにも思い出せない。
鳥居をくぐってすぐに、那岐は石の壁に背中を打ちつけるように寄りかかった。
そのまま、上着のポケットを探り出す。
那岐の右手が煙草を持ち、口に銜えて火を付けて。
左手が携帯灰皿を取り出す。
那岐はそれをじっと見てから、小さく呟いた。
「…ああ。これで止まったのか。」
丸い金属製の携帯灰皿は、3分の1ほどへこんでいた。まるで何か鋭いものを押し付けられたかのように。
俺の血が一気に下がる。
そうだ。那岐は腹を刺されていたんだ。
あまりにも普通にしているから、すっかり忘れていた。
俺が急に慌てたのを眺めて、那岐が困った顔をする。
いや!?困っているぐらいの話じゃないだろう!?
那岐に、すぐに病院に行こうと言おうとした時。
「夜行。ここに来ていたん?」
高い声が那岐に掛けられた。
俺はその方向を見る。
石壁に寄りかかっている那岐が、大きい溜め息を吐いた。
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2016.11.16 一部改稿